行ってみたいのです
その夜、俺は書斎で断りの手紙を書いた。
王妃殿下の厚いお招きに深く感謝申し上げます。娘はまだ幼く、この春も体調が思わしくない日がございますので。そこまで書いてペンを止めた。娘は今日殿下と二人で鏝を握り、土に膝をついて笑っていた。体調が思わしくない子の笑い方ではなかった。
「旦那様」
燭台の芯を切りに来たセバスが、机の上の紙に目を落とした。読むつもりで見たのではないのは分かったが、セバスの目は一度で読む。
「王妃殿下には、二年前の参内の折に一度お願いになっております」
「下ろしたいと言って、退けられた」
「はい。名を出したのは公爵、受けたのは陛下と王妃殿下。出した方の一存で引っ込めるものではない、と」
覚えている。今下ろせば茶会の噂と並べて読まれる、とも言われた。
二年たってその噂を覚えている者はもう少ないだろう。だが王太子が自分で屋敷まで薔薇を届けに来たその日のうちに、公爵家が体調を理由に候補の茶会を断る。それを王宮がどう読むかは俺にも分かった。
「断れないか」
「断れぬことはございません。ただ、今度は理由をお尋ねになるでしょう。二度目は、王妃殿下ご自身がお尋ねになります」
本当の理由なら、ある。
九年後の学年末に王宮の大広間で、あの少年が娘の罪状を読み上げる。娘は勘当され、北へ向かう馬車に乗る。妹のゲームで俺は何度もその画面を見た。それを言えば、この屋敷に侍医が呼ばれる。
ペンの先でインクが乾きかけていた。
断れるか断れないか、俺はそればかり考えていた。断れる理由を探しては断れない理由に突き当たり、また別の理由を探していた。そのどこにも娘が行きたいのかどうかという問いは入っていなかった。
二年前、俺は娘の部屋の前でそれを学んだはずだった。正しいと思うことを押しつける前に、聞く。
「……明日、エレノアに聞く」
セバスは何も言わずに頭を下げた。書きかけの手紙は引き出しにしまった。燃やさなかったのは聞いたあとで要るかもしれないと思ったからで、そう思った自分が少し嫌だった。
*
翌日の夕方、砂時計を返す前に招待状を娘の前に置いた。
「王妃殿下から、茶会のお招きだ」
エレノアは封蝋の紋を指でなぞってから紙を両手で持って読んだ。読めない字のところで目が止まり、俺が読んでやった。妃候補、のところで娘は顔を上げた。
「候補というのは、まだ決まっていない、ということですよね」
「そうだ。殿下のお妃になるかもしれない娘を、何人か呼んでお茶を飲む。そういう茶会だ」
「五人」
「五人だ」
砂時計を返した。砂が細く落ちはじめた。
「お前はどうしたい」
娘は膝の上で招待状を持ったまま少し黙った。黙っているあいだ俺の顔ではなく窓のほうを見ていて、それから俺を見た。
「行ってみたいのです」
言ってから娘は背筋を伸ばした。何か言われるのを待つ時の伸ばし方だった。二年前、この子はそうやって叱られるのを待った。今は反対されるのを待っている。
「どうして行きたいのか、聞いてもいいか」
エレノアは瞬きをした。理由を聞かれるとは思っていなかった顔だった。
「……王宮の白い薔薇を、まだ見ていません。殿下と、約束しました。殿下はきのう、あちらも見てくださいと言いました」
「うん」
「それから、ほかの四人の方に会ってみたいです。同じくらいの年の子とお茶を飲んだのは、リーゼ様と一度だけです。リーゼ様とは、人形の縫い目をくらべました。たのしかったです」
娘は指を一本ずつ折っていた。二本折ったところで三本目を少しためらった。
「それから、わたくし、お茶はもうこぼしません。あれから、たくさん練習しました」
負けず嫌いの顔だった。二年前の二度の茶会でこぼしたお茶を、この子はまだ数えている。
「殿下のことは」
「殿下のことは、お会いしてから決めたいです。きのうは、薔薇のことしか話しませんでした。殿下の冗談は、よく分かりませんでした」
「分からなかったのか」
「三回聞きました。三回目に、分からないのがおかしくなって、笑いました」
娘は四本目の指を折らずに手を膝に戻した。
「お父様は、行ってほしくないのですよね」
「……分かるか」
「きのう、書斎の灯りが遅くまでついていました。それに、お父様はさっきから、ずっとここをこうしています」
娘は自分の鼻の付け根に人差し指を当てて、何かを押し上げるように動かした。
眼鏡だった。前の世界では二十年かけていた。この顔はかけたことがない。それでも考えごとをすると、指だけがないものを押し上げに行く。
「……そうか」
「そうです。ミーナも知っています」
「断りの手紙を書いた。まだ出していない」
「出す前に、聞いてくださったのですね」
娘はそう言ってそれ以上は何も言わなかった。責める声ではなかった。
砂が半分落ちていた。俺は椅子を少し前に出した。
「行かせたくない理由を、話してもいいか」
「はい」
「二年前の冬の初めに、丘の道で馬車の車輪が外れたな」
「はい。覚えています」
「あれは事故ではなかった。誰かが、わざと車軸を壊していた。誰がしたのかは、まだ分かっていない。この屋敷の中なら、私とセバスとミーナで毎日確かめられる。荷も、人も。だが王宮には人が多い。私が確かめられない人のほうがずっと多い」
娘は黙って聞いていた。
「それから、候補になると、人がお前の話をする。お前が選ばれてほしい人も、選ばれてほしくない人もいる。そういう人たちが、お前の知らないところでお前のことを話す」
「……宝石のときみたいに、ですか」
「そうなるかもしれない。ならないかもしれない」
娘は招待状の端を指でそろえた。
「お父様は、こわいのですか」
「怖い」
答えてから自分でも少し驚いた。前の世界の父親は俺に怖いと言ったことが一度もなかった。
「わたくしも、少し、こわいです」
娘は言った。それから付け足した。
「でも、行かないでいるほうがもっとくやしいと思います」
くやしい、と言った。怖いより先に、悔しい。
それを聞いて断りの手紙のことは頭から抜けた。
「なら、行き方を決めよう」
娘の顔が上がった。
「私も行く。親の席は少し離れているそうだが、お前の見えるところに座る。ミーナも連れていく。王宮の中で、お前は一人でどこへも行かない。行く時はミーナか、王妃殿下の女官と一緒だ。馬車は前の日に厩番の頭とガレスの部下が調べて、道にはガレスの騎士がつく」
「はい」
「それから、何か嫌なことがあったら、リボンにさわれ。それが見えたら、茶会の途中でも帰る」
「とちゅうで帰るのは、王妃様に失礼ではありませんか」
「失礼は私がかぶる。お前はかぶらなくていい」
娘はしばらく考えてから、髪のうしろの右に傾いた結び目に手をやり、さわってすぐに下ろした。
「ためしに、さわりました」
「見えた」
「では、わたくしからも一つ、あります」
「何だ」
「お父様は、殿下を、にらまないでください」
ミーナが扉の脇で咳をした。
「……努力する」
「努力では、たりません。きのう、石垣の石がずれていました」
「あれは、もともとずれていた」
「ずれていませんでした。わたくしが朝、杭を立てたときに見ました」
砂が落ちきった。エレノアは「十五分です」と言ったが、立ち上がらなかった。
「それから、お父様。婚約のことは、どう思っていますか」
俺は少し考えてから本当のことを言った。
「まだ賛成していない。それは隠さない。茶会に行くことと、婚約に賛成することは別だ」
「はい。わたくしも、別だと思います」
娘はそう言って招待状をたたんで俺に返した。
*
その夜、引き出しから書きかけの手紙を出して暖炉にくべた。
代わりに受ける返事を書いた。王妃殿下の厚いお招きに深く感謝申し上げ、娘とともに伺います。書き直しは一度もしなかった。
手帳の新しい頁に日本語で決めたことを並べた。私が見えるところに座る。ミーナ。一人にしない。馬車の点検。ガレスの騎士。リボン。殿下を睨まない。
最後の一行の横に問いの印を一つつけた。
扉が三回叩かれた。もう寝間着に着替えたエレノアだった。
「お父様。言い忘れました」
「何だ」
「お家の菓子は、わたくしが選んでもいいですか」
招待状の最後の一行のことだった。候補の家はそれぞれ自分の家の菓子を持っていく。
娘の目はもう、次の準備のほうを見ていた。
「いいよ。厨房に一緒に行こう」
「はい。ベンノの菓子が、いいと思います」
娘は頷いて廊下の騎士に会釈をしてから部屋へ戻っていった。来た時と同じ歩幅だった。
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