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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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34/73

怖い公爵と九歳の王子

 十日後の昼過ぎ、紋の小さな馬車が門を入ってきた。


 エレノアは朝から支度ができていた。紙の上の行には一つずつ線が引いてある。植える場所。土。鉢の台。お茶とお菓子。ペル。六つ目の「お父様の」の先だけがまだ空いていて、娘は今朝それを俺に見せてから黙って紙をたたんだ。


 馬車の横を騎士団の青い上着が一騎ついてきていた。ガレスは玄関の前で馬を下り、片手を上げてみせた。

 馬車の扉が開いて金髪の少年が下りてきた。


 背が伸びたと思った。二年前の薔薇園では娘より頭ひとつ高いくらいだったのが、今は肩がガレスの肘の上まで来ている。顔から丸みが少し抜けて碧い目は前より鋭くなった。両腕で素焼きの鉢を抱えていた。鉢には湿った苔がかぶせてあり、その間から細い枝が一本のぞいている。

 うしろから若い侍従が慌てて手を伸ばしたが、少年は首を振って自分で抱え直した。


 少年は玄関の石段の下で止まり、鉢を抱えたまま腰を折った。


「ヴァレンシュタイン公爵閣下。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 声は裏返らなかった。二年分練習したのかもしれない。


「……よく来られた」


 俺の返事はそれだけだった。


 頭の中ではもう少しいろいろ言っていた。遠いところをすまない。背が伸びたな。鉢は重くないか。だが口から出たのは「よく来られた」で、この身体の声で言うとそれは歓迎より判決の前置きに近く聞こえるらしかった。

 少年の背筋がもう一段伸びて鉢の苔がひとかけら石段に落ちた。


 ガレスが馬の手綱を厩番に渡しながら言った。


「殿下。こいつはこういう顔なんです。怒ってるわけじゃありません」

「いえ、私は、別に」

「たぶん」


 ガレスは付け足し、俺のほうを見て口の端を曲げた。


 エレノアが俺の横から一歩前に出た。膝の折り方は二年前と同じだったが、顔を上げるのは前より早かった。


「殿下。ようこそいらっしゃいました。その薔薇が、あのときの薔薇ですか」

「はい。あのとき起こしてもらった枝から、庭師が挿し穂を取りました。去年の夏に、白い花が三つ咲きました」

「三つ」

「本当は四つでしたが、一つは雨で落ちました」


 エレノアは鉢をのぞきこみ、それから殿下の顔を見て少しだけ口の端を上げた。


「植えるところは、決めてあります」


*


 奥様の庭は温室の裏の斜面にある。低い石垣で四角く囲い、中に畝が六本並んでいる。このうち三本が今年から娘の受け持ちになった。残りは庭師が手を入れ、どの草を残すかは帳面と相談して決めている。

 西の畝のはしっこに娘は朝のうちに小さな杭を立てていた。


「ここです。薄荷から、いちばん遠いところです」

「薄荷は、ほかの草をいじめるのですか」

「いじめるのではありません。根が、広がるのです」


 殿下は鉢を地面に置き、上着の袖をまくって膝をついた。侍従が小さく声を上げた。殿下のズボンの膝に土がついた。

 エレノアは庭師に借りた小さな鏝を殿下に渡し、自分ももう一本を持った。


「深さは、このくらいです」


 娘は鏝の先で地面に手のひらほどの丸を描き、指を二本そろえて深さを示した。殿下は掘りはじめ、すぐに丸からはみ出した。


「殿下。そこは、まだです」

「……はい」


 殿下は鏝を止めて掘った穴と娘の指を見比べた。それから片方の手のひらを上に向けて、何かを量るように少し揺らした。


 俺は石垣の外に立っていた。中に入るつもりはなかった。娘の庭で、娘の客だ。ただ、立っている場所から二人の手元まではっきり見えた。殿下の鏝の先がどこへ向くのか、娘の指からどのくらい離れているのか。そういうことばかりが目に入った。


 隣でガレスが腕を組んだ。


「お前、また睨んでるぞ」

「見ているだけだ」

「殿下の耳が赤くなってる。見ているだけで子供の耳はああならねえ」


 穴が掘れて、殿下が苔を外して枝を穴に下ろした。娘が根元に土を寄せ、二人で同じところを手のひらで押さえた。

 殿下が顔を上げて娘に聞いた。


「エレノア嬢は、どうしてあれから王宮へいらっしゃらなかったのですか」


 娘は土を押さえたまま少し考える顔をして、それから目を石垣の外の俺のほうへ向けた。


 俺は一歩前へ出ていた。


「殿下、それは私が――」

「お父様」


 大きな声ではなかった。


「少し、待っていてください。わたくしが、お答えします」


 娘は俺の目を見てそう言い、それから殿下のほうへ向き直った。

 俺は出しかけた足を戻した。戻した足の置き場所が分からず石垣に手をついた。


 ガレスが横を向いた。肩が揺れていた。


 娘が何を答えたのかは聞こえなかった。風が温室のほうから吹いて声を斜面の下へ持っていった。殿下は黙って聞き、一度だけ頷いた。娘が何か付け足した。殿下は少し考えてから何か答えた。

 それから殿下が何か言った。娘は少し首を傾げた。殿下がもう一度言い直した。娘はまだ首を傾げていた。殿下の耳がさらに赤くなった。


 しばらくして娘が吹き出した。土のついた手で口を押さえかけ、汚れているのに気づいてそのまま肩を揺らして笑った。


「何を言ったんだ」

「知らん。冗談だろう。殿下は冗談が下手なんだ。稽古場でも誰も笑わない」


 ガレスは笑いをこらえた顔のまま、俺の手元を見た。


「お前、石垣の石を一つ抜く気か」


 俺は手を離した。石垣の上の石がわずかにずれていた。


*


 お茶のあと殿下が騎士隊の庭を見たいと言った。


 屋敷の騎士隊の庭は王宮の稽古場の三分の一もない。土を固めた四角い庭に木剣を立てかけた台が一つあるだけだ。殿下はそれを見てガレスに何か小声で聞いた。ガレスが俺のほうへ顎をしゃくった。


「殿下が、お前に聞きたいことがあるそうだ」


 殿下は俺の前まで来て右手を胸に当てた。


「閣下。足で振る、というのが、私にはまだよく分かりません。ガレス殿は、閣下は士官学校の頃に剣でいちばんだったと。閣下は、どうやって足で振っておいでなのですか」


 知らない。振るのはいつもこの身体で、俺は振ったことがない。


「考えたことがない」


 正直に答えた。

 殿下は目を見開き、それから深く頷いた。


「考えずにできるまで、続ける。……ということですね」

「いや」

「ありがとうございます。肝に銘じます」


 ガレスが咳をした。たぶん咳ではなかった。それから台の木剣を一本取って俺のほうへ放った。身体が勝手に受け取った。


「殿下。打ち込んでいいですよ。こいつは受けますから」


 殿下は頷いて構えた。足が先、と口の中で言うのが聞こえた。

 庭の端の長椅子にエレノアとミーナが座っていた。娘は膝の上で両手を握っていた。


 殿下が踏み込んできた。速くはないが、足がちゃんと先に出ていた。木剣が右上から斜めに落ちてくる。

 身体がそれを見ていた。右の手首が返り、受ける角度に木剣が上がっていく。受けて、流して、そのまま相手の木剣を巻き取って、がら空きの胴を打つ。その流れが考えるより先に腕の中にあった。


 九つの子供の胴を、か。


 手首を止めたのは俺だった。木剣は受ける角度の手前で浮き、殿下の木剣がその下をくぐって俺の右の前腕を軽く叩いた。

 ぱん、と乾いた音がした。


「一本」


 ガレスが言うと、殿下は自分の木剣と俺の腕を見比べ、それから真っ青になった。


「も、申し訳ございません。閣下、お怪我は」

「ない」


 痛くはなかった。言いたかったのは、いい一本だった、足がちゃんと先に出ていたという二つだった。


「……いい一本だった」


 そこまでは言えた。

 だがこの身体の声は低く平らで、少年の顔はさらに白くなった。どうやら今のは褒め言葉ではなく、何かの宣告に聞こえたらしい。


 今度は黙らなかった。


「怒っていない。……足が、ちゃんと先に出ていた」


 殿下は顔を上げ、俺の顔と自分の足もとを見比べた。それから「はい」と言った。さっきまでの返事より、少しだけ声が高かった。

 殿下は頭を下げて侍従のほうへ戻っていった。背中はまだ固かったが、歩きながら一度だけ自分の足を見下ろしていた。


 ガレスが俺の隣に来て殿下に聞こえない声で言った。


「今、わざと止めたな」

「子供だぞ」

「前のお前は子供だろうが手は抜かなかった。手を抜くのは相手に失礼だと言ってな。見習いの十二の小僧を三本続けて地面に転がしたことがある」


 俺は黙って木剣を台に戻した。

 ガレスはそれ以上何も言わなかった。二年前の宿場で俺の顔を見た時と同じ目で、俺の右手を見ていた。


 長椅子のほうからエレノアが歩いてきた。俺の前腕を見てそれから俺の顔を見上げた。


「お父様。いまは、目をつぶりませんでしたね」

「……そうだったか」

「はい。ずっと、殿下を見ていました」


 娘は言いながらたたんだ紙をポケットから出して広げた。六つ目の行の「お父様の」の先に、ペンの代わりに爪で小さく線を引いた。何を書くつもりで線を引いたのかは教えてくれなかった。


*


 殿下を乗せた馬車が門を出る前に、ガレスが馬の上から封書を一通差し出した。


「王妃殿下から預かってきた。殿下が屋敷を出るまで渡すな、とのことだ」

「中身は」

「知らん。知らんが、だいたい分かる」


 白い厚手の紙に淡い紅の封蝋が押してあった。薔薇を環で囲んだ紋だった。


 馬車の窓から殿下が顔を出した。


「エレノア嬢。王宮の白い薔薇は、まだ咲いています。……あちらも、見てください」


 娘は玄関の石段の上で「はい」と言った。殿下は俺のほうにも頭を下げた。俺は今度も「ああ」とだけ言い、言ってから後悔した。馬車は門を出ていった。


 書斎で封を切った。王妃の名で王宮の薔薇園での茶会への招きだった。日付は春の終わり、薔薇の盛りの頃だった。

 その下の一行を、俺は二度読んだ。


 ――王太子殿下の妃候補として、ご令嬢をお招きいたしたく。候補のご令嬢は五人、それぞれのお家の菓子をお持ちくださいますよう。

お読みいただきありがとうございます!

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