七歳の朝
娘が自分でリボンを結ぶようになった。
薄荷の葉のような緑のリボンで、二年前の秋の終わりからミーナが毎朝髪に編み込んできたものだ。この春で七つになったエレノアはある朝それを自分の手でほどき、うしろで一つに結び直して食堂へ下りてきた。結び目は少し右に傾いていた。
ミーナが直そうと手を伸ばすと、エレノアは一歩よけて「自分で結びました」と言った。それから毎朝同じことが続いている。
今朝も結び目は右に傾いていてミーナの手は今朝も途中で止まった。
「パンは、はしっこをください」
席に着くなりエレノアが言った。給仕の少年は籠の中のパンを見比べ、いちばん端の焼き色の濃いところを切って皿に載せた。
「すぐりのジャムもください。杏ではなくて」
「杏は昨日までお好きでございましたが」
「昨日は、杏の気分でした。今日は、すっぱいのがいいです」
少年は顔色ひとつ変えずにすぐりの壺を取りに行った。厨房ではこの二年で娘の好みを書きとめる帳面ができて、その帳面には「気分による」という欄まである。料理長が自分で作った欄だ。
俺はりんごを一つ取って皮のまま齧った。
この身体の前の持ち主がどうしていたかは知らない。俺は子供の頃からりんごを剥いたことがない。二年前に熱で寝込んだ娘にりんごを煮た時その話をしたのを、娘は覚えていた。
「お父様のりんごです」
「お前も一つどうだ」
「わたくしは、煮たほうが好きです」
はっきりした返事だった。皮の赤いところを見ながら少しだけ口をとがらせている。
「皮がいちばんうまいんだがな」
「皮は、歯にはさまります」
ミーナが盆で口元を隠した。セバスはポットを持ったまま壁の模様を見ている。
二年前のこの子は、俺の好きなものを聞くと自分もそれが好きだと言った。今は違うと言う。違うと言ってから俺の顔を見て、俺が笑っているのを確かめるとまたパンに戻る。その確かめる目が、最近は前よりずっと短くなった。
ミーナと目が合った。
「旦那様。お茶をお取り替えいたしましょうか」
「いや、これでいい」
紅茶は話を聞いているうちに冷めていた。
「お父様、きのうのつづきです」
エレノアがパンを置き、水差しの水を自分の茶碗に半分だけ注いで俺の前へ押してよこした。
去年の秋から娘は週に二度来る先生に魔法の手ほどきを受けている。水の性が強いと言われたそうだ。この身体も水だった。それを聞いた娘が、それなら教えられますと言った。
「指は、茶碗にさわらないで。ふちのところで止めて。水の、まんなかを見ます」
「見ている」
「おなかで、こうです」
エレノアは自分のみぞおちに両手を当て、何かを押し上げるように息を吸った。俺も吸った。
茶碗の水がかすかに揺れた。真ん中に小さな輪が一つできてふちまで行かずに消えた。
「……揺れたな」
「揺れました。きのうより、大きいです」
「昨日は揺れなかった」
「では、上手になっています」
七つの娘に励まされる三十六の公爵だった。娘のほうは茶碗の上に指を一本かざして、水を人差し指ほどの高さまで立たせることができる。立たせてからすぐに戻す。戻す時に一滴もこぼさない。先生の前では二滴こぼしたことがあって、それがまだ悔しいらしい。
エレノアはすぐりのジャムをパンに塗りながら、窓のほうを見た。
「お父様。きのう、門のところを、子供がたくさん通りました」
「子供が」
「花の籠を持っていました。ミーナが、春の市に行く子たちだと言いました」
ミーナが小さく頷いた。王都の東の広場で毎年春の終わりに立つ市で、花と飴と木の玩具を売る。屋敷の下働きの何人かも休みをもらって行くのだと、去年セバスから聞いた。
「わたくしと同じくらいの子が、いました。二人で、手をつないでいました」
エレノアはそこで一度言葉を切って、パンを一口かじった。噛みながら言うか言うまいか決めている顔だった。
「わたくしも、いつか、ああいうところへ行ってみたいです」
すぐには返事ができなかった。
二年前の冬の初めに、丘の道で馬車の車輪が外れた。車軸には鋸の跡があった。荷車を借りた男はまだ見つかっていない。ガレスからは毎月同じ知らせが来る。変わりなし、と。
広場の人混みを思った。籠を持った子供たち。手をつないだ二人。その中に帽子と手袋の男がいないと誰が言えるのか。
「……そうだな。考えておく」
言ってから自分の声を聞いた。考えておく。会社にいた頃、断るつもりの提案にいちばんよく使った返事だった。
エレノアは「はい」と言った。それ以上は聞かなかった。すぐりのジャムをもう一度パンに塗り、塗り終えると俺の皿のりんごの芯を見ていた。
ミーナが俺のほうを見ていた。睨んではいなかった。ただ見ていた。
*
朝食のあとは書斎で帳簿を見る。
二年前は帳簿の読み方をセバスに一行ずつ教わった。今は自分で読み、分からない行に印をつけてまとめて聞く。今朝の印は三つだった。一年前は一頁に十はあった。
「東の村の水車の修繕費が去年の倍だ」
「秋の長雨で軸受けが割れましたので。代官の報告書はこちらに」
「読んだ。割れたのは一つと書いてある。倍にはならない」
セバスは報告書をめくり、ほんの少し目を細めた。
「……代官に問い合わせます」
署名は右手でする。左手は紙を押さえているだけなのに、昼が近づくと指先がじんと重くなった。疲れると出る痺れは二年たっても消えていない。
二年たっても変わらないのは剣も同じだった。月に一度ガレスが屋敷へ来て相手をさせるが、この身体が剣を受けるあいだ俺は打ち込まれる瞬間に目をつぶる。二階の窓から見ていた娘はそれを数えていて、先月は三回のうち三回だったと教えてくれた。
机の引き出しには鍵が一本入っている。指の長さもない黒ずんだ鉄で頭に透かしがある。二年前の冬にセバスから受け取り、その夜から俺が持っている。左の書棚のいちばん下の段の奥には、前の持ち主の記録と妻の首飾りと娘の小さな手形が眠っている。
あの記録はこの二年で何度も読んだ。読むたびに分かっていることの欄はほとんど増えなかった。
「ガレスから今月の知らせは」
「変わりなし、と」
「屋敷のほうは」
「荷は朝だけ、裏の搬入口ひとつから。知らない顔からは受け取りません。人を入れる時は紹介状を書いた者と、前の勤め先と、もう一人の保証人に、こちらから人をやって確かめます。この二年、紹介状で入ろうとして断った者が三人おりました」
三人とも確かめに行った先が紹介状に書かれた人を知らなかった。決まりを考えたのは俺だが、回しているのはセバスとミーナだ。三人目を見抜いたのはミーナで、紹介状の字の癖が一人目と同じだと言った。
「何も起きないのは、決まりのおかげか」
「あるいは、向こうが待っているのか。どちらとも申せません」
セバスが口に出すとそれが本当に分からないことなのだと分かった。
扉が叩かれた。
「さて」
入ってくるなりそう言ったのは家令のヘルマンだった。丸眼鏡を指で押し上げ、銀の盆を差し出す。この人の「さて」は二年たっても一日三十回を下らない。
盆の上の封書はガレスからでふだんの知らせよりずっと厚かった。
――殿下が、ご令嬢に白い薔薇を届けたいと言っておられる。
ガレスの字は大きくて行がだんだん右へ下がっていく。
王太子殿下はこの春から月に四度、騎士団の稽古場でガレスに剣を習っている。二年前の初夏に薔薇園で娘と約束した白い薔薇を、殿下は庭師に言って起こさせた。去年の夏に花をつけた。次にいらしたときに見てくださいと言ったのに、ご令嬢はあれから一度も王宮へいらっしゃらない。だから挿し木を自分で届けたい。王妃殿下のお許しも出ていて、供は自分がする。十日後の午後でどうだ、とあった。
最後の一行だけ字が小さかった。
――お前が嫌な顔をするのは分かってる。だが殿下はもう九つだ。
嫌な顔はしていないと思ったが、ヘルマンが一歩下がったのでたぶんしていた。
九つ。
妹のゲームでは、あの少年は十八の春に大広間の階段の上から娘の罪状を読み上げる。あと九年だ。二年前に七つの殿下は娘に噂のことを言い、あとで詫び状をよこした。最後の二行だけが子供の字だった。それきり王家から届くのは季節の挨拶の書状だけで、どれも大人の清書だった。
俺は九つの殿下のことを、ほとんど何も知らない。
「お断りになりますか」
セバスが静かに聞いた。
「……いや」
断る理由を探して、どれも娘の顔の前では使えないと分かった。約束をしたのは娘だ。
*
夕食の前の十五分は二年たった今も続いている。
娘の部屋で砂時計を返し、落ちきるまで話す。話題の紙はいつの間にか要らなくなった。黙っていてもいいという決まりも残っているが、近ごろは黙っている日がない。
「殿下が、白い薔薇を持っていらっしゃる」
言い終わる前にエレノアは立ち上がっていた。
「いつですか」
「十日後の午後だ」
「十日」
娘は机に駆け寄って紙を一枚取り、ペンにインクをつけた。
「植えるところを決めないといけません。お母様の庭の、わたくしの畝は三本です。いちばん日の当たるのは東の畝ですが、薄荷がいます。薄荷は、となりのものを押しのけます。だから西の畝のはしっこにします。土は、庭師のおじいさんに聞きます。お茶は、杏の焼き菓子と、はちみつのと、どちらがいいでしょう。殿下は、どちらがお好きですか」
「知らない」
「では、両方にします」
紙の上に字が並んでいく。一、植える場所。二、土。三、鉢の台。四、お茶とお菓子。そこまで書いて、娘は少し考えてから五つ目に「ペル」と書いた。
「ペルも見せるのか」
「ペルは、殿下の馬より小さいと思います。でも、毛がきれいです」
砂がまだ半分以上残っていた。娘のペンは止まらなかった。
俺は椅子に座ってその背中を見ていた。
二年前にこの子が初めて書いた希望の紙には、四つしか行がなかった。四つ目は「お父様の行きたいところ」だった。
今の紙には俺の名前がない。ないと気づいたことを俺は少し恥じた。
「お父様」
エレノアが振り返った。
「お父様も、殿下に何かお見せしますか」
「……何を見せればいい」
「それは、お父様が考えてください」
娘は紙に向き直り、六つ目の行に「お父様の」とだけ書いてその先を空けた。
砂が落ちきった。エレノアは「十五分です」と言って、ペンを置かずに次の行を書きはじめた。
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