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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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32/69

扉を叩く音

 五日たって左の指がようやく拳の形まで曲がるようになった。


 擦り傷はかさぶたになって袖を通すたびに引きつれた。侍医は痺れは日によって良くも悪くもなると言った。良くなるとは言わなかった。

 御者の老人は宿場から荷車で戻ってきた。添え木を当てた脚で厩の隅の椅子に座って若い厩番に馬具の手入れを教えていた。俺が顔を出すと立ち上がろうとして、若いのに止められていた。


 分かったことは少しずつ増えても分からないことは減らなかった。

 荷車屋の荷車は市場の外れの川べりで空のまま見つかった。荷台の隅に干し草の切れ端が少し残っていただけで男の行方は知れなかった。ガレスが見せた車大工は、鋸の目はまだ新しくひと月より前のものではないと言った。厩の六人は一人ずつ別の部屋で話を聞かれた。あの夜は五人が使用人棟で夕飯をとっていて互いの話が食い違わなかった。厩番の頭の言ったとおりだった。


 オズワルドのことはセバスに聞いた。奥方がご実家から連れてこられた学師で、奥方が亡くなった冬に旦那様がお暇を出された、行き先は存じませんとセバスは言った。約束の場所という言葉を出してもセバスは目を伏せて同じ答えをくり返した。


*


 その夜書斎で紙の束を開いた。


 五日のあいだに何度も読み返した。誰かの名前が出てくるたびに手帳に写して、写した名前の横に分かっていることを書いた。分かっていることの欄はどの名前もほとんど白かった。

 最後の一枚を読み終えて紐を結んだ。結び目はまだ片手ではうまく締まらず、三度やり直した。


 手帳を開いて日本語で一行だけ書いた。この世界の誰にも読めない字だ。


 ――ゲーム開始は十年後なのに、誰かはもう、エレノアを狙っている。


 書いてからその字をしばらく見ていた。

 十五までは無事だと春からずっとどこかで思っていた。ゲームが見せていたのは十五からのあの子だけで、その前の十年は誰も見せてくれなかった。見せてくれなかったところで、もう二度刃が向いた。


 手帳を閉じて紙の束を机の左の棚の奥へ戻した。七冊の古い記録を元のとおりに並べると、奥の板はもう見えなかった。

 窓の外では昼過ぎから降りだした雪がまだ降っていた。厩舎の屋根も庭も白く平らになって厩のほうでガレスの部下の提げる灯りが一つぼんやりにじんでいた。


 灯りを落とそうとして手を止めた。


 扉が鳴った。


 小さな音だった。一度、二度、三度。どれも同じ強さで三つ目のあとに少しだけ間があった。

 セバスなら叩いてすぐに名乗るし、ガレスなら叩く前に声がする。誰も名乗らなかった。

 俺は立ち上がって扉を開けた。


 エレノアが立っていた。


 白い寝間着に室内履きをつっかけて、昼の髪はほどいて寝るためにゆるく一本に編み直してあった。胸に人形を抱えていた。春に俺が取り寄せた陶器の顔に青い服のあの人形で、背中には縫い直した糸の跡が見えた。

 廊下の燭台の灯りがエレノアの片側だけを照らしていた。


 その肩の向こうの廊下の角に騎士が一人立っていた。ガレスの部下だった。目が合うと騎士は黙って小さく頷き、一歩だけ角のほうへ下がった。エレノアの部屋の前からここまで止めずに目で追ってきたのだろう。寝室に俺がいなかったから、この子は階段を下りて書斎の灯りを探してきたのだ。


 エレノアは礼をしなかった。寝間着の裾もつままず、膝も折らなかった。人形を抱えたまま俺を見上げてそこに立っていた。

 目覚めた朝に寝台から三歩のところで教本の挿絵のような礼をした子だった。


「……お父様」


 エレノアの唇が動いた。


「夜に、きても、よかったですか」


 確かめる声だった。叩いたあとで叩いてよかったのかを確かめていた。


「いい」


 俺は膝をついて目の高さをこの子に合わせた。


「寝ていたら起こしていい。三回叩けばいい。春にそう言った。今日、それをしたのはお前だ」


 エレノアは人形を抱える腕に少しだけ力を入れてこくりと頷いた。身体が冷えていた。廊下の床から冷たさの上がってくる夜だった。扉の前でどれくらい立っていたのだろう。叩くまでにどれくらい。


「入りなさい」


 エレノアは敷居をまたいでから一度だけ後ろの廊下を振り返った。自分の出てきた暗いほうを確かめるように。

 俺は扉を閉めた。


 窓際の長椅子に座らせて膝掛けで人形ごとくるんだ。膝掛けの中から人形の頭とエレノアの顔だけが出ていた。俺は机の椅子を引いてきてその前に座った。


「エレノア。今夜は、何がいる」


 エレノアは少し考えた。それからゆっくり言った。


「……ゆめを、見ました」

「どんな夢だった」

「お父様が、ろうかの、むこうに、いました。よんだら、ふりむいて。……ふりむいたのに、お父様じゃ、ありませんでした。お顔は、お父様でした。でも、ちがいました。それで、どこかへ、行ってしまいました」


 息が止まった。

 エレノアは膝掛けの中で人形を抱き直した。


「さがしたけれど、いませんでした。ずっと、いませんでした。……目がさめて、ろうかがくらくて、それで」


 それで、叩いた。


 俺は暖炉の火を見ていた。この子の顔を見られなかった。

 ふりむいたのに、お父様じゃなかった。夢の話だ。五つの子の、怖い夢の話だ。


 どこにも行かないと言いかけて、言えなかった。

 俺は自分がどうしてここにいるのか知らない。いつまでいられるのかも知らない。前の持ち主がある夜書斎の床に倒れて、そのあと目を覚ましたのが俺だったように、俺もいつか同じように入れ替わらないとは限らない。知らないことを約束はできなかった。


「ここにいる」


 それだけ言った。

 エレノアは膝掛けの中から俺を見上げた。灰色がかった青い目で、この身体の目と同じ色だった。


「馬車の時も、そう、いいました」

「言った」

「……はい」


 小さく頷いてから、エレノアは膝掛けごと少しだけ俺のほうへ寄った。


「ほかに、何かいるか」


 エレノアは目を伏せた。言うか言わないかを決めている顔だった。言わなくてもいいと俺が言いかけたところで、エレノアは顔を上げた。


「お父様は、まだ、お仕事ですか」

「もう終わるところだった」

「……ねむるまで、お父様の、ペンの音が、ききたいです」


 それがこの子の今夜の願いだった。


「分かった」


 俺は机に戻って手帳を開いた。書くことはもう残っていなかったので、今日のことを日本語でゆっくり書いた。荷車が見つかったこと。老人が厩で若いのに馬具を教えていたこと。雪が降ったこと。エレノアが夜に扉を三回叩いたこと。

 ペン先が紙をこする音が暖炉の火の音に混じった。


 長椅子のほうでエレノアの息が少しずつ長くなっていった。

 一度だけ、眠りかけの声がした。


「お父様」

「なんだ」


 エレノアは何か言おうとした。唇が開いて息を吸って、それから閉じた。


「……なんでも、ありません」


 何を聞こうとしたのか俺には分からなかった。聞かなかった。この子が自分で閉じた口をこじ開ける理由は俺にはない。聞きたくなったらまた聞けばいい。その時に俺がここにいればいい。


「うん」


 俺はペンを動かし続けた。書くことがなくなっても手帳の端に雪の結晶の形を描いて、それも尽きるとペルの絵を描いた。下手な馬だった。


 しばらくして扉がまた鳴った。今度は名乗る声がした。ひどく抑えたミーナの声だった。


「旦那様。ミーナでございます」


 扉を細く開けるとミーナが燭台を手に立っていた。寝間着の上に肩掛けを羽織っただけで髪が少し乱れていた。


「騎士の方が、お知らせくださいました。お嬢様が、こちらへ、と」


 ミーナの目が俺の肩越しに長椅子の上の毛布の塊を見た。人形の頭と淡い銀金の髪が少しだけ出ていた。

 知らされていても自分の目で見るまでは落ち着かなかったのだろう。ミーナの肩から力が抜けるのが分かった。


「……お嬢様が、ご自分で」


 ミーナはそこで言葉を止めた。夜は部屋から出ない。この人もそれを知っている。


「扉を叩いた。三回」


 俺は小さく言った。


「朝までここで寝かせる」

「……かしこまりました」


 ミーナは少しのあいだ長椅子のほうを見ていた。それから肩掛けを脱いで黙って俺に差し出した。


「お嬢様の、お足が。冷えておいでですから」


 俺が受け取るとミーナは頭を下げて扉を閉めた。足音は遠ざからなかった。扉のすぐ外の床に誰かが腰を下ろすかすかな衣擦れの音がした。


 ミーナの肩掛けでエレノアの足をくるんだ。小さくて冷たい足だった。エレノアは目を覚まさず人形を胸に抱いたままだった。


 この子に前の父が書き残したことを話すかどうかを考えた。柱の印のこともペルの名前のことも、余白に押し込めるように書かれていた小さな字のことも。

 言えばこの子は少しは救われるのかもしれない。でも、この子が覚えている父親の冷たさも、泣いたら反省文の夜も本当にあったことだ。大事にされていたという話でそれを上から塗りつぶしたくなかった。

 いつかこの子が自分で読める日が来たら渡せばいい。その日まであの束は俺が預かる。


 俺は机の椅子に戻って灯りを一つだけ残した。その灯りで自分の右手を見た。

 中指に重い銀の指輪がはまっていた。台座の真ん中の石は、曇った硝子のような川原の小石のような色のないままだった。この指輪をはめたままあの男は記録を書いて、余白に娘の背丈を書き込んで、書棚の奥に仕舞った。

 あの男が守ろうとしたものは今俺の目の前で眠っている。名前も身体もこの家もあの紙の束も、あの男が残したものは全部使う。


「……借りるぞ」


 声に出していた。返事はなく暖炉の火が小さく鳴っただけだった。


 俺は朝まで眠らなかった。

 窓の外で雪が降り続いていた。厩のほうの灯りが時々ゆっくり動き、扉の外でミーナが一度だけ小さく咳をした。

 長椅子の上で、エレノアが寝返りを打った。膝掛けの端から出た小さな手の指が人形の青い袖をしっかりと握っていた。

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