前の父の記録
板の向こうは浅い棚になっていた。
奥行きは手のひらほどしかなく、そこに三つのものが入っていた。紐で綴じた厚い紙の束と、布にくるんだ小さな何かと、二つに畳んだ紙が一枚だった。
先に取った布の包みは軽かった。布を開くと細い銀の鎖が手のひらの上でさらさらと鳴り、鎖の先に指輪より少し大きい飾りのない銀の環が一つ下がっていた。
肖像の首飾りだった。
胸の奥がきしんだ。肖像の前で起きたのと同じ骨の内側を縄で締め上げられるような痛みだった。俺は息を浅くしてそれが通り過ぎるのを待った。
「……奥様の」
後ろでセバスがそう言ったきり黙った。振り向くとセバスの目は首飾りから離れず、燭台を持つ手がわずかに傾いていた。奥方の部屋で宝石箱を開けた時に存じませんと言ったのは本当だったのだとその顔を見て思った。
畳んだ紙を開くと小さな手の形が墨で押してあった。
指が短くて丸く親指のところが少しだけにじんでいた。押す時に動いてしまったのだろう。紙の端に一行あった。
――二つの春。エレノア。
柔らかい細い字で、奥方の部屋の薬草の帳面と同じ字だった。二つの子の手は俺の手のひらの真ん中のくぼみにすっぽり収まってしまいそうだった。この手が三年後に俺の袖をつかむ。
俺は紙をそっと畳み直した。
最後に取った紙の束は厚く、紐の結び目は固く締めてあり、片手ではほどけなかった。セバスが黙って手を伸ばして結び目をほどくと、一枚も目を落とさずにすぐに手を引いた。
「わたくしが拝見してよいものではございません」
「下がっていい。今夜は一人で読む」
セバスは燭台を机に残して一礼して出ていった。
一枚目を灯りに向けると、見たことのある字だった。帳簿の「暇を出す」と同じ流れるような癖のない字で、この身体が署名の時に勝手に書く字でもあった。俺が一度も書いたことのない俺の字だった。
――イザベルは、病で死んだのではない。私は、そう考える。
一行目にそう書いてあった。
紙は四十枚ほどあって、一枚ごとに上の端に日付があって、いちばん古い日付は二年前の冬の初めの葬儀からひと月ほどあとだった。最初の何枚かはそれより前のことを振り返って書いたものらしかった。
――亡くなる前の月まで、あれは庭に出ていた。ひと月で起き上がれなくなった。医者は衰弱と言った。何があれを衰えさせたのかは言わなかった。
――茶と薬の道を調べる。誰が茶葉を納め、誰が薬を調合し、誰が煎じ、誰が運んだか。
その下に名前が並んでいた。料理番、茶葉を納めた商人、薬種屋、侍女。それぞれの横に小さな印が付いていて紙の下のほうに印の意味が書いてあった。
――丸、残す。三角、遠ざける。線、逃がす。
三角の付いた名前が二つあって、どちらもその冬のうちに暇を出されていた。その横にあとから書き足した小さな字があった。
――三角の二人に暇を出した翌週、薬種屋の店が閉じた。主は行き先を告げずに消えた。私が茶の道を調べていることは、私と家の内の者しか知らなかったはずだ。
――この家の内に、あちらの目がある。誰かは分からない。分からない以上、家の者にも言わない。
紙を持つ手が止まった。
昨日の車軸は屋敷の車庫で切られた。内から手を貸した者がいたのかどうかは、まだ分からない。セバスが伝えた前の持ち主の言葉がここで初めて形を持った。動けばこの家を見ている者に気づかれる。
この男は二年前の冬から自分の家の中を見張りながら暮らしていたのだ。
線の付いた名前も二つあって、一つ目の横にこう書いてあった。
――アンナ。あれの薬を毎日運んでいた。ここに置けば、運んだ者として口をふさがれるおそれがある。紹介状は書かない。書けば紹介状をたどって行き先が知れる。一年分の給金と南への馬車代を持たせた。南の終点の町の宿の主に、春まで置いてくれるよう頼んだ。その先は本人に選ばせる。便りは寄こすなと言った。便りの道は、たどられる道だ。
紹介状もなしに放り出された人。ミーナが二年恨んできた理由。
放り出したのではなかった。逃がしたのだ。宿駅の帳面だけでは終点の町より先を追えなかった理由も、これで分かった。その先は本人に選ばせ、便りも寄こさせなかったのだ。
二つ目は知らない名前だった。
――オズワルド。あれと一緒に、あれの家の古い記録を調べていた者だ。あれが死んだ以上、次はこの者だ。解雇の形で外へ出し、約束の場所へ逃がした。便りは春の初めに一度だけ、名を書かない祈りの文を聖環教会の巡礼の便に託すこと。来なかった年は、何かあったと思え。
約束の場所がどこなのかは書いていなかった。この男には書く必要がなかったのだろう。
便りの決まりは去年の春のところでもう一度出てきた。
――祈りの文が届いた。無事だ。
今年の春の分は記録が止まったあとのことだった。届いたのか届かなかったのかこの紙からは分からない。
屋敷に届く文を受け取る者に聞けば、今年の春に名のない祈りの文が来たかどうかは分かるかもしれない。来ていたなら、どこの教会から回ってきたのかも。手帳の明日の欄にそれを書いた。
読み進めた。記録は「誰が」をほとんど書いていなかった。
――あちらは急がない。急がないから証が残らない。
――あの家の者は、葬儀で泣いていた。泣いていたというだけで、何も言えない。
あちら。あの家。誰のことなのかはどこにも書いていなかった。書けば危ないと思っていたのか書けるほどには分かっていなかったのか、俺には分からなかった。
分からない語も何度か出てきた。
――あれの家の務めを、あれは一人で負っていた。私には半分しか話さなかった。
――銀の環は外へ出さない。棺にも入れない。
何の務めなのかも銀の環が何なのかも説明はなかった。それでも一つだけ分かった。首飾りは葬儀の騒ぎで失くしたのではない。この男が棺に入れないと決めて自分の手でこの棚に仕舞ったのだ。
クラウディアの名前もあった。
――新しい教師を入れる。厳しいと聞いた。厳しさは盾になる。泣かない子は付け入られない。
俺はその行をしばらく見ていた。
この男は娘を守るためにあの予定表を認めたのだ。泣かない子は付け入られないから、泣かないように育てる。二十一時、就寝(泣いた場合は反省文)。目覚めた次の日にセバスに見せられた紙の最後の一行が頭の中に浮かんだ。
この男も分かっていて、認めたのだ。
途中の一枚には日付の下に短い一行だけが書いてあった。
――私は、イザベルとの約束を破った。娘を守るためだ。間違いだったかもしれない。
何の約束なのかは書いていなかった。その一枚はあとは白いままだった。
いちばん新しい何枚かは今年の春の少し前のものだった。
――調査の記録を書斎の隠し棚に収め、鍵をセバスに預けた。記録を外へ漏らさぬよう申しつけた。セバスは何も聞かなかった。
――朝、左の指先が痺れる。疲れだろう。
そこで記録は終わっていた。
燭台の灯りの下で、半分しか曲がらない自分の左手の指が机の上にあった。
紙を最初に戻そうとして、余白に別の字があるのに気づいた。
同じ人の字だったが本文よりずっと小さく、紙の端の隅に押し込むように書いてあった。インクの色も少し違っていて日付の順にもなっていなかった。調べの記録の隅にそれより前の年のことまで思い出しては書き込んだらしかった。
俺は最初の一枚から余白だけを拾って読み直した。
――柱の印。三つの春、ここ。
――四つの春。指一本ぶん伸びた。
――四つの誕生日。小馬を贈る。名は、あの子がつけた。ペル。
――今日、初めて自分の名を書いた。最初の字が鏡に映したように逆を向いていた。直さなかった。
――熱を出した。夜、イザベルを呼んでいたとミーナが言う。私は部屋に入らなかった。
――今日も、泣かなかった。
最後の一つにだけ続きがあった。
――泣かぬよう育てたのは私だ。それが正しいのか、イザベルなら何と言うか。
答えはどこにも書いていなかった。
俺は紙の束を机に置いて両手で顔を覆った。
この男は、娘を愛していたのだ。
背丈を柱に刻んでそれを誰にも見せない紙の隅に書き留めていた。小馬の名を娘がつけたことも最初の字が逆を向いていたことも、それを直さなかったことも書いていた。熱を出した娘が夜に母親を呼んでいたことを知っていた。
知っていて、部屋に入らなかった。
「……あんたが、あの子を大事にしてたのは、分かった」
声に出していた。返事はなく記録の紙が燭台の灯りでかすかに揺れていた。
「でも、あの子が夜に泣けなかったのは、あんたのせいだ」
夜は部屋から出ません。公爵令嬢ですから。ご心配なく。
五つの子が自分にそう言い聞かせるようになったのはこの男が認めた紙のせいだ。盾のつもりで、守るつもりだった。
「どっちも、本当だ」
そしてこの男は、そのどちらも娘に一言も伝えなかった。
ゲームの中のあの男を思い出した。
断罪の場で娘を見下ろして「お前のような娘はいない」と言った父親だ。妹の隣で何度もあの場面を見て、俺は画面の前であの男が嫌いだった。娘の言葉を一つも聞かない冷たい顔の公爵。
「俺は、あんたが嫌いだった。ゲームの中で、ずっと」
柱に背丈を刻んでいた男が十年あまりのあいだに何があってあの台詞を言うようになったのか、それとも言わされたのか、俺は知らない。
分かるのは、この男が娘を守ろうとして間違え、怯え、それを全部一人で抱えてこの紙の束に閉じこめたことだけだ。イザベルが一人で負っていたものをこの男も一人で負った。そして誰にも渡さないまま書斎の床に倒れた。
俺は紙の束の上に右手を置いた。
「俺は、あんたじゃない。あんたのやり方は、しない。でも、あの子のことは引き受ける」
返事はやっぱりなかった。
首飾りを布に包み直して手帳を開いた。
――銀の環の首飾り。書斎、机の左の書棚の最下段の奥。鍵は俺が持つ。
所在を書いてから、首飾りと手形の紙を棚に戻した。紙の束だけは手元に残した。
*
窓の外が白みはじめていた。
俺は紙の束からアンナの名前のある一枚を抜き出してほかの行を白い紙で覆った。南の町の宿のことを書いた二行も覆って、アンナが逃がされたこととその理由の行だけが見えるようにした。
分かったら言う、分からなかったら分からなかったと言うと、ミーナと約束していた。
ミーナはエレノアの部屋の前の椅子にいた。膝に毛布を掛けて背筋を伸ばして座っていて眠ってはいなかった。俺の足音ですぐに立ち上がり、書斎まで来てほしいと言うと黙ってついてきた。
書斎の机の前で俺は白い紙で覆った一枚を差し出した。
「読んでくれ。見えているところだけでいい」
紙を受け取ったミーナの目が行を一度追い、もう一度追った。紙を持つ指が白くなった。
「……旦那様の、お字です」
かすれた声だった。ミーナは顔を上げて俺を見た。
「ご存じだったのですか」
すぐには答えられなかった。この人から見ればこれを書いたのは目の前の男だ。アンナに紹介状も書かずに暇を出した男で、そのアンナを今になって宿駅に問い合わせさせた男だ。
「書いたことを、覚えていなかった。熱のあと、抜けていることが多い。昨夜これを見つけて、初めて知った」
そう受け取ってもらうしかなかった。本当のことは、この人にも言えない。
ミーナは俺の顔を長いあいだ見ていた。何かを量るような目だった。それから目を紙に戻した。
「アンナさんは」
声が途中で崩れた。
「……逃がして、いただいたのですか」
「そう書いてある。書いてあること以上は、私にも分からない。今どこにいるのかも、無事でいるのかも、まだ分からない」
ミーナは紙を胸に押し当てて片手で口を覆った。
声は出さなかった。肩だけが何度も震えて前掛けの胸のところに涙がぽたぽたと落ちていった。俺は何も言わなかった。窓の外で鳥が一羽鳴いた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
ミーナは口を覆っていた手を下ろして前掛けの端で目元を一度だけ押さえてから、紙を両手で俺に返した。
「……アンナさんは、捨てられたのでは、なかったのですね」
「ああ。そうは書いていない」
ミーナは小さく頷いた。
「お約束を、守ってくださいました。分かったら、言う、と。……ありがとう、ございます」
まだ声が揺れていた。俺が紙を受け取るとミーナは一歩下がってまっすぐに俺を見た。目の縁が赤かった。
「それでも」
はっきりした声だった。
「それでも、お嬢様に、なさったことは。私は、許しません」
ミーナの目は、紙ではなく俺の顔を見ていた。
「ああ。許さなくていい」
ミーナは少しだけ目を見開いてから深く頭を下げた。下げたまましばらく動かなかった。
「お嬢様が、お目覚めになります。失礼いたします」
顔を上げた時にはいつもの声に戻っていた。扉が閉まって足音が廊下を遠ざかっていった。走ってはいなかったがいつもより少しだけ速かった。
俺は机に戻って紙の束を紐で結び直した。セバスがほどいた結び目を右手と半分しか曲がらない左手で時間をかけて結んだ。
結び終えてから気づいた。四十枚のどこにも誰がイザベルを殺したのかは書いていなかった。誰がエレノアを狙っているのかも書いていなかった。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




