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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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鍵

 書斎の机で手帳を開いたまま一行も書けずにいた。


 左腕の布の下が脈を打つたびに疼き、侍医の湿布の匂いが部屋じゅうに薄く広がっていた。窓の外はもう真っ暗で、厩舎のほうではガレスの部下の提げる灯りが一つゆっくり動いていた。


 夕方の練兵場で俺は右手だけで剣を持ってガレスと向き合った。ガレスが言う「三本目」が何なのか分からず先に動いてくれるのを待つしかなかった。

 そのあとの堀の話に俺は「あったな」と答えた。型の名前が出てこないと言ったばかりで、そのうえ昔話まで覚えていないと言えば、熱のせいでは済まなくなる気がした。そう思った時にはもう擦りむいたと口が足していた。

 ガレスが笑い返したのが、かえって気にかかっていた。


 扉が二度鳴った。


「旦那様。セバスでございます」

「入ってくれ」


 セバスは燭台を机の端に置いて扉を閉め、閉めたあとも一度だけ廊下のほうへ耳を澄ますような間を置いてから机の前に来て立った。朝と同じ顔で青ざめて唇の色まで薄かった。


「お時間を頂戴いたします」

「ああ」


 セバスが胸の前で組んでいた両手をゆっくりほどくと、右の手のひらに鍵が一つ載っていた。

 指の長さもない黒ずんだ鉄の鍵で頭のところに細かな透かしが入っていた。握りしめていた指の汗で鉄の頭がうっすら湿って光っていて、よほど強く握っていたらしかった。


「春の少し前に、旦那様からお預かりしたものでございます」


 セバスは鍵を載せた手を机の上に差し出したまま、目だけを机の左へ動かした。


「その書棚の、いちばん下の段の奥でございます。本をのけますと、奥の板に鍵穴がございます」


 天井まである書棚の、床に近い段に背の高い古い革の本がぎっしり並んでいた。毎日この机に座っていて、俺はその段の本を一冊も抜いたことがなかった。


「中に何があるのかは存じません。旦那様は、調べものはここで閉じる、記録と鍵はお前が預かれ、外へは決して漏らすな、と仰せになって、これをわたくしに渡されました」

「調べもの」

「何をお調べだったのかは伺っておりません。奥方様が亡くなられた冬から、この部屋には夜遅くまで灯りがついておりました。わたくしが存じておりますのはそれだけでございます」


 春の少し前なら、この身体の前の持ち主が書斎の床に倒れるひと月かふた月前だ。

 俺は鍵を見てからセバスの顔を見た。


「なぜ、今なんだ」


 セバスは鍵を差し出したまま答えた。


「お目覚めになってから、旦那様はこの棚のことを一度もお尋ねになりませんでした。熱でお忘れなのか、まだ開ける時ではないとお考えなのか、わたくしには判じかねました。それで、旦那様がまた調べをお始めになるまでは、わたくしからお渡ししないほうがよいと考えました。……待とうと決めたのは、わたくしでございます。そう命じられたのではございません」


 セバスの声がほんの少しだけ揺れた。


「お嬢様のお部屋からブローチが出た日に、お渡しすべきでした。わたくしは旦那様がまた開けるとおっしゃる日を待ちました。待って、昨日を迎えました」


 だから、あの顔だったのだ。玄関の広間で鍵を握っていたあいだ、この人は昨日の坂のことを考えていたのだろう。


「ほかに、私から聞いていることは」

「一つだけございます。調べを閉じる理由を、こう仰せでした」


 セバスは覚えたものを一語ずつ読み上げるような声になった。


「この家の中に、外へ話を運ぶ者がいるかもしれない。私が動けば、その者に気づかれる。気づかれれば、私が隠した者たちの居所までたどられる。……それが誰なのかは伺っておりません。この棚のことはミーナにもガレス様にも話すな、とも仰せでした」


 この家の中に。

 昨日の車軸は屋敷の車庫で切られた。偽の荷車の男が夜の厩に入り込めたことは分かっているが、内側から手を貸した者がいたのかどうかはまだ分からない。この身体の前の持ち主は、そういう者がいるかもしれないと春より前から疑っていたことになる。

 隠した者たちとも言った。一年分の給金と南への馬車代を持たせて、紹介状も書かずに暇を出した侍女の名が頭に浮かんだ。南の終点の町で降りたところまでは、この人が宿駅に問い合わせて調べてくれていた。


「セバス」

「はい」

「待ったことを、今は責めない。中を見てもいないうちは、それが遅すぎたのかどうかも私には分からない」


 セバスは顔を上げなかった。


「……ただ、これから先は、あの子に危ないことがあると知ったら、誰に何を言われていても先に私に言ってくれ。言えないことがあるなら、言えないとだけでもいい」


 長い間があった。


「……かしこまりました」


 俺は鍵を受け取った。思っていたより重かった。


「ほかに、私にまだ言っていないことはあるか」


 セバスはゆっくり顔を上げた。いつもの顔に戻りかけていて青さだけが残っていた。


「お嬢様と旦那様の御身にかかわることで、わたくしが存じておりますのは、今申し上げたことですべてでございます」


 そこで一度、言葉が切れた。


「……ほかに一つ、前の冬に旦那様がわたくしにだけ下されたお言葉がございます。それは、まだ申し上げません。命じられて黙っているのではございません。わたくしが、まだ申し上げないと決めております。お咎めはわたくしがお受けいたします」


 俺はしばらくこの人の顔を見ていた。春の夜に書斎の床に倒れていたこの身体を見つけたのはこの人だ。机の上の飲みかけの茶碗は翌朝には洗われていて、誰が洗ったのかはこの人も知らないと言った。

 それを考えたのはほんの一瞬だった。同じ一瞬に、帳面の読み方を一から教えてくれた手と、茶会の日に誰より先に控えの間へ人をやった手と、昨夜のうちに厩を閉めて俺たちの帰りを待っていた手が浮かんだ。どちらも同じ人の手だった。


「……分かった。それは、あなたが言えると思った時に聞く」


 セバスは黙って一礼した。

 俺は手帳を開いて、まだ分からないことを並べた。棚の中身。家の中で話を運ぶ者。セバスがまだ言わない言葉。春の夜の茶碗を誰が洗ったのか。日本語で書いたからセバスには読めない。最後の一行は、この人の前で声にはできなかった。


「エレノアは」

「ミーナがおそばに。先ほどお休みになりました。……お夕食は半分ほど召し上がりました」


 宿では何も口に入れなかった子だ。


「廊下にはガレス様の騎士が一人、夜通し立っております。お嬢様のお部屋の前には、ミーナが椅子を出しました。お部屋の扉が見えるところにいたいと、自分で申しました」


 俺は頷いて手の中の鍵を握り直した。今夜この家で眠らずにいる者が何人もいる。


「棚は、明日になさいますか」


 セバスが言った。


「お怪我が、まだ」


 俺は書棚のいちばん下の段を見た。

 開ければ、この男が夜遅くまでこの部屋で何をしていたのかが分かる。泣いたら反省文を書かせる紙を認めた男が、何を調べて何を隠したのか。読んでしまえば、この身体の前の持ち主はもう知らない人ではなくなる。読んだものを俺が抱えきれるのかどうかも分からなかった。

 それでも、外から入り込める道がまだ残っているかもしれない。内から手を貸した者がいる見込みも消えていない。明日まで待つ理由を俺は一つも思いつかなかった。


「今夜開ける。本を出すのを手伝ってくれ」


 セバスが膝をついて一冊ずつ本を抜いて、俺は右手で受け取って床に積んだ。ヴァレンシュタイン家の代々の記録らしい古い本で、背表紙の金の字は半分かすれていた。一冊が俺の手のひらの幅ほども厚く、片手では重くて膝で支えながら積むと七冊目で段が空になった。


 燭台を近づけると、奥の板はほかの段の奥と同じ濃い色の木で木目が縦に流れていた。その木目の中に一か所だけ節のような黒い点があった。

 指で触れると点ではなく小さな穴だった。


 俺は鍵を穴に差した。すっと根元まで入った。回す前に一つ息を吸って、右に回した。


 かちり、と小さな音がした。


 奥の板が指一本ぶんだけ手前に浮いた。

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