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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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29/70

あいつは、誰だ

(ガレス)


 玄関の広間でセバスの爺さんが青い顔をしていた。


 俺は厩からアルベルトの三歩うしろを歩いてきたところだった。爺さんは両手を前で組んだままアルベルトの巻いた腕を見てから顔を見た。


「旦那様。お手当てが先でございます。侍医を呼んでございます。……今宵、書斎でお時間を頂戴できますでしょうか」


 アルベルトが少し黙ってから「分かった」と言うと爺さんは頭を下げて下がっていった。


 三十年この家に仕えてきた男だ。俺がアルベルトと士官学校の寮で同じ部屋になった頃にはもう今の顔をしていて、その顔色が変わるのを見たのは二十年近くで一度きりだった。イザベルが死んだ朝だ。


*


 騎士の詰所は練兵場の脇の石造りの細長い建物だ。


 部下を集めて昼までにやることを割り振った。王都の門の番兵には出発の前の日の日暮れから今朝までに出入りした荷車を聞く。市場の荷車屋といつもの店以外の干し草の店を当たる。宿場に置いてきた御者の爺さんには一人付けたままにする。

 それから屋敷の内側だ。厩と車庫には今夜から交代で二人、裏の搬入口に一人、本館の廊下には夜通し一人を立たせる。


「副団長。屋敷の中にまで騎士団を入れるんですか」

「入れる。公爵の許しは取った」


 取ったのは今朝の厩からの帰り道で、アルベルトは俺が言い終わる前に頷いた。


 部下たちが出ていってから俺は詰所の窓のそばに立った。

 道しか見なかった。一昨日の晩に書斎の窓枠に腰かけて「馬車の中まではさすがにな」と言ったのは俺だ。俺は窓から離れて厩の夜番の当番表を一から書き直した。


 書きながら昨日の坂を思い出していた。

 俺は後ろの組で丘の上の曲がり角から下りの道を半分ほど見下ろしていた。先を行く黒い馬車が急に右へ傾いて車輪が一つ豆粒みたいに斜面を跳ねていった。拍車を入れたのと同時に、傾いた馬車の上の側の扉が内から弾けるように開いて人が一人、何かを腕に抱えて跳んだ。


 あの跳び方はアルベルトだと思った。士官学校の頃からあいつは頭で決めるより先に足が出る奴だった。障害の稽古でも剣でもそうで、それで教官に何度も褒められて何度も叱られた。

 坂を駆け下りて道に転がっている二人を見た時、俺はほっとした。ああ、あいつはまだあいつだと。


 降りてみるとあいつは岩に背中をつけたまま起き上がれずにいた。目の前で馬が暴れて御者が転がっていたのに娘を抱えて座りこんでいた。

 怪我のせいだとその時は思ったし、今もそう思っている。腕を打って娘を抱えていれば誰だって立てない。昔のあいつだって同じだったかもしれない。


 気にかかっているのは坂のことではなかった。


 春の少し前、まだ練兵場の隅に雪が残っていた頃に、アルベルトが珍しく詰所に一人で来た。公爵の上着も着ずに古い外套で頬がこけて目の下が黒かった。イザベルが死んでからずっと痩せていたがあの冬は特にひどかった。


「騎士団で信用できる者は誰だ」


 挨拶もなくそう聞いた。俺が何人か名前を挙げるとあいつは手帳に書きつけてしばらくその名前を見ていた。


「ガレス」

「なんだ」

「もし私に何かあったら、娘を」


 そこで止まった。続きを待ったがあいつは手帳を閉じて外套の隠しにしまった。


「……いや。いい。忘れろ」

「縁起でもねえことを言うな」


 俺が笑うとあいつも少しだけ笑って帰っていき、ひと月もしないうちに書斎で倒れた。

 知らせを聞いた時俺は騎士団の務めで王都を離れていた。戻ってすぐ会いに行くとあいつは俺の剣を目をつぶって受けた。剣は昔のままで目だけが違うとあの日の俺は言った。それから銀貨の賭けの話を振った。どっちが負けたのか実は俺もうろ覚えだったから、あいつの「覚えている」を俺は数えなかった。


*


 昼過ぎに部下が二人戻ってきた。


 門の番兵が覚えていた荷車はどれも顔の知れた商人のもので、干し草を積んだ荷車は一台もなかった。男が王都の外へ出たのかまだ中にいるのかも分からない。

 市場の荷車屋は出発の前の日の昼過ぎに干し草用の荷車を一台前金で貸していた。借りた男は帽子をかぶって手袋をしていた。返すのは翌日の昼と約束したが荷車はまだ戻っていない。


「帽子と手袋か」

「はい。顔は覚えていないと」


 どこでも顔だけが残っていない。残りの店を当たれと言って俺は詰所を出た。


*


 夕方の練兵場にアルベルトが来た。


 左腕には侍医が巻き直した新しい布があって肘から先はまだ重そうだった。俺が荷車屋の話をするとあいつは最後まで黙って聞いてから「ありがとう」と言った。


 これだ。

 あいつは礼を言わない男だった。言わないのが当主のふるまいだと本気で思っていた。俺にさえ二十年近くで数えるほどしか言わなかった。今のこいつは部下にも厩番にも皿を下げる娘にも言うし今朝は宿の女中にも言っていた。

 宿の朝飯の時もそうだった。椀が置かれるとこいつは両手を胸の前でほんの一瞬合わせてから匙を取った。誰も見ていないと思っている顔だったが俺は見ていた。


 熱で人が変わることはある。死にかけた奴が目を覚ましたら妙に優しくなっていたという話も聞く。春からずっと俺はそう思うことにしてきた。


「ガレス。右手だけでいい。少し見てくれないか」


 アルベルトは壁にかけた練習用の剣を見ていた。


「腕を吊ったままでか。馬鹿を言え」

「昨日、跳んだところまでは身体がやった。そのあと私は何もできなかった。馬も御者も、見ているだけだった」


 あいつは右手で剣を一本取った。


「……頼む」


 昔のあいつは俺に頼むとは言わなかった。黙って俺がやるものだと思っていたし俺もそれでよかった。


「打ち合いはしない。構えと、型の頭だけだ。痛んだらすぐやめる」


 俺は刃を潰した剣を取って向き合った。


 構えは昔のままだった。足の開きも切っ先の高さも右の肩をわずかに引く癖も、士官学校の三年で俺が何百回と打ち込んで崩せなかった構えだ。構えたあとであいつは一瞬だけ柄を握った自分の手を見た。他人の手を借りてきたような目だった。


「三本目からやるか」


 寮の裏で毎朝二人でやった型だ。一本目から七本目まであって三本目は俺の先に打つ番になる。

 アルベルトは構えたまま動かなかった。俺の顔を見て俺の足を見て、俺が先に動くのを待っていた。


 俺が三本目の頭の一歩を踏み出すとあいつの剣は迷わず上がって受けた。返しの角度も昔と同じだった。ところが二手目で俺が止めてもあいつは自分からは続けなかった。続きを俺が見せるのを待っている顔だった。

 もう一度五本目と言ってみても同じだった。俺が始めれば身体はついてくる。こいつは始め方を知らない。


 速さの比べにはならない。腕を吊って痛みを抱えていれば誰だって遅い。だがこれは遅いのとは違った。順番を知らない者の待ち方だった。


「やめだ。腕に響く」


 俺は剣を下ろした。アルベルトは息を切らして右手の剣先を地面についた。


「……悪い。型の名前が、出てこない」

「熱で抜けたんだろう」


 それから何でもない話のつもりで続けた。


「秋には川に落ちて、お嬢に笑われてたな。落ちるといえば、士官学校の三年の夏、障害の稽古で、お前、馬ごと堀に落ちたろう」


 言ってからあいつの顔を見た。

 あいつはほんの少しだけ間を置いて笑った。


「ああ。あったな」


 困ったような照れたような顔で湿布を巻いた腕を見下ろした。


「あの時も、腕を擦りむいた」


 俺は笑い返した。笑い返しながら、剣の柄を握った手に力を入れないようにしていた。


 そんなことはなかった。

 あの夏に堀に落ちたのは俺だ。馬が堀の手前で止まって俺だけが前へ飛び、頭から水に落ちた。アルベルトは岸の上で馬の手綱を取ったまま腹を抱えて笑っていた。あいつが声を出して笑うのを見たのはあれが最初だったから覚えている。


 型の名前が出てこないのは熱のせいにできた。今のは違う。こいつは覚えていないと言わずに話を合わせ、ありもしない擦り傷まで足した。


 俺は何も言わなかった。言えば何かが変わるがそれが何なのか俺には分からなかった。

 熱で頭が抜けたところを人に知られたくなくて合わせたのだと、そう思おうとした。それでも構えたあとで自分の手を見るあの目は抜けた奴の目には見えなかった。初めて持った道具を確かめる目だった。


 分からないものは分からないままにしておく。分かっていることもある。昨日の坂でこいつは娘を抱えて跳び、そのあと動けなくなっても腕の中の子だけは離さなかった。

 敵かどうかは疑いだけでは決めない。決めるのはもっと見てからだ。


「今夜から本館の廊下に一人置く。夜中に誰かとすれ違っても驚くなよ」

「ああ。……頼む」


 二度目だった。

 俺は練習用の剣を二本とも壁にかけてあいつが本館へ戻っていくのを見送った。腕を吊った背中が昔より少し丸かった。


*


 日が落ちかけた頃にペルの囲いの柵のところにお嬢がいた。


 ミーナが少し離れたところに立っていた。お嬢は柵に両手をかけて栗色の小馬が飼い葉を食むのをずっと見ていた。昨日震えて父親の胸を握りしめていた子が今日は震えていなかった。

 俺に気づくとお嬢は柵から手を離して小さく礼をした。


「ガレス様。ペルは、きょうは、乗りません」

「ああ。今日は休みだ」

「お父様の、お手は」

「動いてた。指がちょっと鈍いだけだ」


 お嬢は少しのあいだ俺の顔を見てから柵の向こうのペルを見た。


「……お父様は、すぐ、わたくしをかかえました」


 独り言みたいな声だった。


「前の、春のかいだんの時も。すぐでした」


 前の、とお嬢は言った。それが春の階段のことなのか別の何かなのか俺には分からなかった。

 分からないままお嬢の頭に手を伸ばしかけると、お嬢の目が俺の手に行った。稽古のあとで革の手袋をはめたままだった。俺はその手を下ろして腰のうしろに回した。


「冷えるぞ。中に入れ」


 お嬢は「はい」と言ってミーナのほうへ歩いていった。


*


 夜に本館の廊下を見て回った。


 東の棟の階段の下に立たせた部下に頷いて、二階へは上がらずに書斎のある一階の廊下を奥へ歩いた。燭台の灯りが等間隔に床に丸い影を落としていた。


 もし私に何かあったら、娘を。

 あいつは自分に何かあると知っていたのか。知っていたなら何を誰に残していったのか。あの冬に書きつけた名前をあいつは自分の手帳にしまって帰り、俺の手には何も残っていない。


 廊下の角で足を止めた。


 書斎の扉の前にセバスの爺さんが立っていた。片手に燭台を持ってもう片方の手を胸の前で握っていた。灯りがその指のあいだで一度だけ細く光った。

 指の長さほどもない小さな鍵だった。


 爺さんはそれを握りしめたまましばらく扉の前で動かなかった。イザベルが死んだ朝と同じ顔だった。それから扉を二度叩いた。


「旦那様。セバスでございます」


 中からアルベルトの声がした。扉が開いて爺さんが入っていった。閉まる前に一瞬だけ机の上の灯りが見えた。


 俺は廊下の角に立ったまま閉まった扉を見ていた。


 あいつは、誰だ。

 声には出さなかった。出したらもう戻れない気がした。

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