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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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事故ではない

 ガレスは斜面から上がってくると、外套で包んだ細長いものを脇に抱えたまま俺の前を素通りして部下に言った。


「坂の下の宿場に医者がいる。爺さんを荷車で先に運べ。公爵とお嬢は俺の馬だ。王都へも一騎走らせる」


 それから俺のそばにしゃがんでエレノアに聞こえないくらいの声で言った。


「話はあとだ。先に手当てと、お嬢を休ませる」


 俺は頷いた。外套の中身を聞くのはあとでいい。今それを聞いても腕の中の子の震えは止まらなかった。


 王都へ走る騎士にガレスは屋敷のセバスへの言伝を持たせた。厩舎と車庫を今夜のうちに閉めること。厩の者を一人も外へ出さないこと。車庫の中のものに誰も触れさせないこと。


「朝まで待ってたら、何もかも片づけられる」


 走っていく騎士の背中を見ながらガレスはそう言い、俺をエレノアごと自分の馬に乗せて手綱を取った。エレノアは馬の上でも俺の上着を離さなかった。


 宿場の小さな宿の二階で医者が俺の腕の傷を洗った。沁みてようやく痛みが近くに来た。骨は折れていない。痺れは打ったせいか、もとからのものか分からないと医者は言った。

 老人の脚は折れていた。医者は添え木を当て直してから当分は動かすなと言った。老人は寝台の上から何度も俺に頭を下げた。俺は今度は声に出して、あなたのせいではないと言った。

 医者はエレノアも診た。頭と背中と手足を順に触って、骨にも頭にも障りはないと言った。今夜は一人にしないこと、熱が出たり吐いたりしたらすぐに呼ぶことを、医者は俺とガレスに言いつけた。


 エレノアは寝台の端に座って宿の女中が持ってきた温かい湯を両手で包むように持っていた。湯気だけが顔の前で揺れていて飲んではいなかった。震えは少しだけ収まっていたがまだ止まってはいなかった。

 俺が隣に座ると先に口を開いたのはエレノアだった。


「……お父様。きのうの、夜」


 俺は黙って待った。扉の脇のガレスも動かなかった。


「まどから見たの。厩にあかりがあって、灰色の手袋の人がいた。干し草をおろしてた。帽子をかぶってて、お顔は見えなかった。……手袋だけ、見えたの」


 湯の器を持つ手に力が入った。扉の脇からガレスが一歩だけこちらへ出た。


「言わなかったの。夜のことだから。……言わなかったの」


 目の縁に涙がたまっていた。こぼれる手前で止まっていた。


「言ってくれて、助かった」


 なぜ言わなかったのかとは聞かなかった。この子はもう自分でそれを考えている顔をしていた。


「手袋と帽子の男がいたことは、あの夜誰が厩にいたのかを調べる手がかりになる。調べるのは大人がやる」

「でも、わたくしが、行っていたら」

「行かなくていい」


 俺はエレノアの手の上から湯の器を一緒に持った。


「夜に一人で知らない男を見に行くのは、子供の仕事じゃない。……見に行くんじゃなくて、私の扉を叩くんだ。夜でも、寝ていても。それから、馬車が壊れたのはお前のせいじゃない」


 エレノアは俺を見ていた。それから湯の器を膝の上に下ろし、涙をこぼさないまま俺の袖に額をこつんと当てた。

 しばらくして袖に当たった額が重くなった。エレノアは座ったまま眠っていた。俺は寝台にこの子を横たえ、宿の女中に頼んで毛布をもう一枚もらった。


 廊下に出るとガレスが外套の包みを床に置いて開いた。

 折れた車軸の片端だった。馬車の腹の下から外れて斜面に転がっていたのを、ガレスが拾って上がってきたものだ。残りの車軸と車輪は斜面に置いたまま、部下が一人見張っている。

 ガレスは折れ口に指がかからないように両端の古い面を持ち、窓の明かりへ向けて角度を変えながら俺の目の高さに持ち上げた。


 折れ口は二つの顔をしていた。半分はぎざぎざに裂けていて木が力ずくで引きちぎられた跡だった。もう半分は平らでなめらかで細かい筋が横に何本も並んでいた。


「鋸だ。芯の近くまで切ってある。外から見えない下の側からな」


 ガレスは指を近づけただけで、平らな面には触れなかった。


「古い割れ目なら中まで黒ずんで埃を噛んでるが、こいつはそうは見えない。いつ切ったかは、点検と出入りを聞いてから詰める。王都に戻ったら車大工にも見せる。それから、平らなところに泥と油が塗りつけてある。切り口を隠すためだ。走ってるうちにどこかで折れるように弱らせてあって、それがたまたま帰りの下りだった」

「事故ではない」

「自然に折れたんじゃない。それだけは確かだ。誰が切ったか、誰に頼まれたかは、この木切れからは分からん」


 前の組の騎士の話では行きも帰りも道にも林にも怪しい者はいなかった。礼拝堂の前で停まっているあいだ老人は馬に水をやって馬車のそばを離れず、俺も石垣のところからずっとそれを見ていた。


「なら、屋敷を出る前か」

「たぶんな。どこでかは、屋敷で聞いてからだ」


 ガレスは折れた車軸を外套で包み直した。


*


 翌朝まだ日が高くならないうちに王都の屋敷へ戻った。

 セバスは夜のうちに厩舎と車庫を閉めて厩の者を六人とも使用人棟の一室に集めていた。玄関でミーナがエレノアを受け取った。何も聞かずに頭の先から靴の先まで一度だけ目で確かめてから抱き上げると、エレノアはミーナの首に黙ってしがみついた。


 厩番の頭は青い顔で俺とガレスの前に立った。

 出発の前の日の点検は自分がした。日の暮れる前に車庫の床に這いつくばって灯りを車体の下に差し入れ、車軸を端から端まで木槌で叩いて音を聞いた。あの折れ口のような切れ目があれば叩いた音で分かると厩番の頭は言った。ガレスは黙って聞いていた。


「点検が済んで日が落ちたころ、飼い葉の荷が来ました。裏の搬入口からでございます。荷車はいつもの店のと同じに見えました。男が一人で、明日の朝は店の荷車が別のお屋敷に回るので朝の分を今夜のうちに、と申しまして」


 夜の搬入は初めてだった。それでも翌朝は墓参りの支度で厩じゅうが早くから手一杯になるので、かえって助かると思った。厩番の頭はそう言ってうつむいた。


「受け取りの札は明日主人が持ってくると申しましたので、帳面のその欄は空けておきました。干し草は車庫の上の干し場に積んでおいてくれと頼んで、わたくしは点検の済んだことを旦那様にお知らせしに本館へ参りました。戻った時には男はもうおらず、干し草は言ったとおりに積んでありました。ほかの者はちょうど夕飯で、使用人棟におりました」

「男の顔は」

「手袋をして、帽子をかぶっておりました。暗くて……」


 あの夜書斎に点検の報告に来たのはこの男で、俺は礼を言って下がらせた。厩番の頭の話では、そのあいだ厩にはあの荷車の男しかいなかった。厩番の頭が下がったあとで俺はガレスと話し、手帳に明日の刻限を書いた。その少しあとに荷車の軋む音を聞いた。俺は顔を上げなかった。


 厩の帳面を出させた。出発の前の日の行に干し草十束とあった。受け取った者の印は厩番の頭のもので、納めた者の印の欄は空いていた。ほかの日の行をさかのぼると、いつもの店の飼い葉は決まった日の朝に入っていた。夜に入った行も納めた者の欄が空いた行も一つもなかった。

 ガレスの部下が飼い葉の店へ走って戻ってきた。あの夜は荷を出していない。店の荷車は一台も外へ出ていないし別の屋敷へ回る予定もなかった。


 車庫は厩の裏の搬入口のすぐ脇で干し場の真下にあった。馬車を出し入れする車庫に夜に鍵をかける習いはこの屋敷にはなかった。

 厩番の頭の話が正しければ、点検の時に切れ目はなく、そのあとに男が一人で厩にいた時間があった。点検の見落としもありうるし、ほかの者が本当に使用人棟にいたのかもまだ確かめていない。その男が切ったと決まったわけでもない。それでも夜の搬入と帳面の空いた欄と店の返事は、どれも同じ一人を指していた。


「道は、守った」


 帳面の空いた欄を見ながら声に出していた。


「でも、狙われたのは家の中だった」


 ガレスは厩の柱に背中を預けて腕を組んでしばらく黙っていた。


「俺も道しか見てなかった。丘の道に部下を出して、倒木も落石も林の中も見させた。車庫の鍵なんざ考えもしなかった。馬車の中まではさすがにな、と言ったのは俺だ」


 ガレスは組んだ腕をほどいた。


「お前一人のせいには、させねえぞ」


 俺は帳面を閉じてその場でセバスとガレスに決めたことを言った。車庫と厩の裏の搬入口は今夜から日暮れに鍵をかけて鍵はセバスが預かる。夜の搬入は受けない。受け取った荷は納めた者の印がそろうまで帳面を閉じない。厩の者がいつどこにいたかは、この十日の分を一人ずつ別の部屋で聞く。罰するのは本人から聞いたあとにする。

 使用人ホールに貼った決まりの三つ目を俺は自分で読み上げるように言っていた。厩番の頭が顔を上げて俺を見た。


 本館へ戻る途中で俺は一つのことを思い出そうとしていた。十五より前のエレノアに何があったのかゲームは何か言っていなかったか。

 一つだけ引っかかった。


 ――馬車は嫌いですの。子供のころに一度、落ちかけたことがあって。


 どのルートだったかもはっきりしない。冷たい顔で何でもないことのように言った一行だけの台詞だった。最後に馬車ごと落ちて死ぬ令嬢の皮肉だと思って俺は読み流した。

 昨日のことなのかそれとも別の日の別の馬車なのか。昨日のことだとしたら、ゲームの中では誰がこの子を抱えて跳んだのか。誰も跳ばなかったのか。

 分からなかった。


 本館の扉を開けると玄関の広間にセバスが立っていた。

 夜のうちに厩を閉めて厩の者を集め、俺たちを迎える支度をした人だった。いつもと同じ黒い服で背筋もいつもと同じだった。顔だけが違った。


 青ざめていた。この人のそんな顔を俺は初めて見た。

 前で組んだ両手の指のあいだに、セバスは何か小さなものを握りしめていた。

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