車軸
下りにかかって床が前に傾いた時に、向かいの席から伸びてきたエレノアの手が俺の上着の袖を握った。
温室の時ほど強くはなかった。母親の肖像の前で指先でつまんだ時よりは少しだけ強かった。
「坂です」
言い訳のようにエレノアが言った。
「うん。坂だな」
俺は袖を握らせたままにした。御者台で老人が手綱を引き締める気配がして馬の歩みがゆっくりになった。下りのほうが急だと行きに老人は言っていた。
窓の外の右側は斜面で、葉を落とした木々の梢が窓の下のほうに沈んで見えた。その下に細い川が光っていた。左側は苔の生えた岩の山肌だった。道幅は馬車一台分と少ししかなかった。
坂の半ばで足の下から乾いた枝を膝で折るような音がした。
一度。もう一度。二度目は一度目よりずっと太かった。
馬車が跳ねて右の後ろががくんと沈んだ。床が右へ傾いてエレノアの身体が右の壁のほうへ滑り、袖を握った手が俺の腕ごと引っぱられた。
窓の外を外れた車輪が一つだけ斜面を跳ねながら落ちていった。
御者が叫んで馬がいなないた。馬車の右の後ろが道の縁を外れ、座席の下から何かが滑り出して右の壁にぶつかった。
斜面のほうへ。馬車ごと。
何も考えなかった。
考える前に左足が左の扉を蹴っていた。留め金が弾けて扉が外へ跳ね開いて山肌と灰色の空が見えた。右腕はいつのまにかエレノアの胴に回っていて小さな身体を胸に引き寄せていた。痺れているはずの左手が扉の枠をつかんで身体ごと上の側へ引き上げていた。
春の階段の時と同じだった。俺が何かを思うより先にこの腕はこの子を受け止めていた。
傾いた馬車の高いほうの縁を蹴って、開いた扉から道のほうへ跳んだ。
宙に浮いた身体で右腕の中のエレノアを胸に押しつけ、扉の枠を離れた左の手のひらでこの子の頭を包んだ。
地面が来た。
左の肩から砂利の上に落ちた。上着の裂ける音がして肘が石に当たり、腕の内側を何かが長く擦っていった。二回転がって背中が山肌の岩にぶつかって止まった。
腕の中にエレノアがいた。俺の胸に顔を押しつけて小さくなっていた。
身体が勝手に動いたのはそこまでだった。
背後で木の裂ける音がした。
首を回すと、馬車が横倒しになりかけながら枯れた草と土を巻き込んで斜面をずり落ちていた。開いたままの左の扉が空を向いて揺れていた。
馬が引きずられかけていた。前脚を突っぱって道の上で踏んばり、引き具がぴんと張っていた。ぶつりと音がして引き具が切れた。放たれた馬が道の上へ投げ出された。
馬車はそのまま十歩ほど下の太い木の幹に横腹からぶつかって止まった。その下には川まで何もなかった。
起き上がろうとした。起き上がって何をするつもりだったのかは分からない。左腕に力を入れたとたん、肘から先が自分のものではないように重くなった。俺はエレノアを抱えたまま岩に背中を戻した。
御者の老人が道の縁に投げ出されているのが見えた。右脚がおかしな方向を向いていた。馬は後脚で立ち上がりかけて目をむいていた。見えているのにどれから手をつければいいのか頭が回らなかった。腕の中の子を離すことだけはできなかった。
前のほうから蹄の音が来た。
前の組の騎士が二騎全速で坂を駆け上がってきた。一騎は暴れる馬の前に自分の馬を横づけにして飛び降りて手綱をつかんだ。もう一騎は老人のほうへ走った。坂の上からも蹄の音がして茶色い上着が先頭で駆け下りてきた。
「エレノア」
エレノアは顔を上げなかった。俺の上着の胸のところを両手で布ごと握りしめていた。
「エレノア。怪我は」
答えなかった。俺は右手だけでこの子の頭と背中と腕と脚を順に触った。血は出ていなかったし、どこかが曲がっているようにも見えなかった。
ただ、震えていた。肩も背中も俺の胸を握った手も小刻みに止まらずに震えていて、歯の鳴る音が胸に伝わってきた。泣いてはいなかったし声も出していなかった。
ガレスが馬から飛び降りてきて俺とエレノアと斜面の下の馬車を順に見た。それから膝をついて俺の左腕の裂けた袖をめくった。肘から手首まで砂利で擦った傷が何本も走っていて血が指の先まで伝っていた。
「折れてはいない。……たぶんな」
ガレスは自分の首の布をほどいて俺の腕をきつく巻いた。痛いはずの痛みは遠かった。
「お嬢は」
「血は出てない。でも」
それ以上は言えなかった。ガレスはエレノアの震えている背中を見て一瞬だけ顔を歪め、すぐに元に戻した。
「動かすな。そのまま抱えてろ」
騎士の一人が老人の脚に添え木を当てていた。老人は歯を食いしばってうめきを噛み殺しながら俺のほうを見て唇を動かしていた。申し訳ございませんと言っているのが分かった。
あなたは言ったとおりゆっくり行った、車輪が外れたのはあなたのせいではないと言いたかった。声を出したら腕の中の子がもっと震える気がして言えなかった。
十五までは無事だと昨夜の俺は思っていた。
妻の名の下に「環は破られず、継がれる」と刻まれたあの石の前で、この子は俺が守ると胸の中で言った。この子はあの一行を読めず、母親の名だけを一字ずつ指でなぞっていた。それから半刻もしないうちにこの子は斜面を落ちていく馬車の中にいた。
ゲームの最後の一枚絵が頭に浮かんだ。崖道で馬車ごと落ちていく令嬢。あれは北の国境へ向かう山道で、十一年後の話だった。ここではないはずの道でさっき馬車が落ちていった。
十五までは無事だと、誰が決めた。俺が見たのは十五からのエレノアだけで、その前の十年に何があったのか俺は何一つ知らなかった。
腕の中でエレノアが少しだけ身じろぎして胸の布を握る手にもっと力をこめた。
大丈夫だとは言わなかった。
「いる。ここに、いる」
エレノアは震えたまま胸の布に顔をこすりつけるように一度だけ頷いた。
俺は右の手のひらをこの子の背中に当てたまま動かさなかった。手のひらの下で細い骨がずっと震えていた。俺の手も震えていて、どちらの震えなのか分からなかった。
ガレスは老人を荷車に乗せる手配を部下に言いつけてから、斜面の縁に立って下の馬車を長いあいだ見下ろしていた。
それから振り返って残った部下に短く命じた。
「馬車には誰も触るな。外れた車輪も、落ちた部品も、拾うのは俺が見てからだ。お前はここに残って、斜面に下りる者がいたら止めろ」
ガレスは枯れた草をつかみ、木の幹から幹へ身体を移しながら一人で斜面を下りていった。
俺はエレノアを抱えたまま道の縁から遠い岩の陰でそれを見ていた。
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