詫び状と墓参りの支度
次のペルの日に俺は約束どおり囲いの外にいた。
ペルの頭絡には引き綱がつないであって、その端をガレスが持っていた。エレノアは髪をうしろで一つに結んで緑のリボンで留めていた。ペルが歩き出すと小さな背中がペルの歩みに合わせて揺れた。気がつくと俺は柵の横木を両手で握りしめていた。
二周目でエレノアがちらりとこちらを見た。俺の手を見て何も言わずに前を向いた。俺は柵から手を離して背中に回し、自分の手首を自分で握った。
三周目でガレスが綱を持つ手を少しだけ緩めた。ペルはガレスの半歩前を自分の足で歩いていた。
囲いの前で止まったエレノアは手綱を持ったまま俺を見下ろした。
「お父様。見て、いましたか」
「見てた。ずっと」
「おちないところで、でしたか」
「柵の外だ」
エレノアは柵と俺の足もとを見比べてから、それならいいというように頷いた。
*
王宮から封書が届いたのはその三日後だった。
金の封蝋に王家の紋があり、宛名はエレノア・ヴァレンシュタイン嬢だった。添え書きは王太子殿下の教育係の名だった。秋の狩りの離宮で殿下が初夏の庭のことをご自分から話されたので、教育係としてそこで初めて事情を知り、正式なお詫びを整えた。王家が王都へお戻りになったのでお届けする。そう短く書いてあった。
王家から公爵家の令嬢に宛てた正式な詫び状だった。教育係の名が添えてあるのはそのためで、返事も同じように公爵家から正式に返すことになる。子供同士がやりとりする手紙とは違った。
書斎の机の前に二人で並んで封を切った。
――初夏に王宮の庭でお目にかかった折、噂のみをもってご令嬢に申し上げたこと、王太子としてあるまじき振る舞いであり、深くお詫び申し上げます。
堅い文面の大人の字だった。たぶん教育係が清書したのだろう。最後の二行だけ字が違った。大きさのそろわない子供の字が一字ずつ力を入れて書いてあった。
――ハンカチは、まだ持っております。
――公爵閣下がずっとこちらをご覧になっていたので、何か失礼があったのかと思いました。
俺は机に肘をついて額を押さえた。
睨んでいたのは知られていた。そのうえ七歳の子に自分の何が悪かったのかを詫び状の最後で考えさせていた。
「お父様、ずっと、ご覧になっていたのですか」
「……少しだけだ」
「ずっと、です」
エレノアは子供の字の二行を指でなぞった。口の端がほんの少しだけ下がっていた。
その晩俺は王太子殿下宛ての詫び状を自分で書いた。病み上がりで加減が分からずにご挨拶の場で殿下をじっと見てしまったこと。殿下には何の失礼もなかったこと。立派なご挨拶だったこと。
セバスは二度読んでから一か所だけ言葉を直した。
「今度は脅迫状ではございませんな」
「茶会の時の話はもういい」
エレノアの返礼状はセバスが書き出した見本をミーナが一語ずつ読み上げ、それをエレノアが写した。殿下という字のはらいでエレノアは二度手を止めた。二度目に「先生のとおりでなくても、もうだれも叱らないって、お父様が言った」と言ってはらわずに書いた。
最後に見本にない行が足してあった。
――父は、ああいう顔なのです。
俺はそれを黙って封筒に入れた。
*
霜の降りた朝に左手の痺れがぶり返した。
夏のあいだほとんど忘れていた痺れが、目を覚ました時には指先から肘まで春の朝と同じように詰まっていた。指は半分しか曲がらなかった。
侍医は俺の腕を取って指を一本ずつ曲げさせてから、熱病のあとには季節の変わり目にこういうものがぶり返すと言った。そして俺の指先を見たまま少し黙った。
「春には、熱病の名残と診ておりました。名残なら夏のうちに抜けるはずのものが、半年たってこう戻ってまいりました。……昔一度だけ、似たものを診たことがございます。熱病ではなく、毒を盛られた方でした」
背中が冷たくなった。
「熱病でも出るのだろう」
「出ます。ですから、何とも申し上げられません。確かでないことを口にすれば、お屋敷の誰かに疑いがかかります。……それでも、黙っているほうが怖くなりました」
侍医が湿布を置いて帰り支度を始めたところで俺はもう一つ聞いた。
「妻を診たのも、あなたか」
侍医の手が鞄の口で止まった。
「さようでございます。胃の弱りとひどいだるさで、薬はわたくしが調合し、奥様付きの侍女が煎じてお運びしておりました。ひと月ほどでお弱りになって……衰弱の病と診立てました」
「毒と分ける手立ては、その時あったか」
「ございませんでした。今も、ございません」
侍医は深く頭を下げて出ていった。
春に倒れた夜のことはセバスに聞いた。書斎の床に倒れていたこの身体を見つけたのはセバスだった。机の上には飲みかけの茶碗が一つあった。茶碗は翌朝には洗われていて、誰が洗ったのかはもう分からなかった。
確かめられることは確かめた。確かめても毒だとは言えず、毒ではないとも言えなかった。
手帳に書いた。妻はひと月で弱った。薬は侍女が運んだ。俺の左手。洗われた茶碗。並べた行の上でペンが止まった。
*
同じ日の夕方にセバスがアンナの行き先について報告に来た。
南へ行く乗合馬車の宿駅からようやく返事が届いたという。二年前の冬の初めにアンナの名で一人分の席が取られ、南の終点の町で降りていた。その先は分からない。宿駅の帳面にはそれ以上のことは書いてなかった。
その夜俺は分かったことをそのままミーナに伝えた。南の終点の町までは行ったこと。その先はまだ分からないこと。
ミーナは短く「はい」と言い、少し間を置いてから「お調べくださってありがとうございます」と言った。
*
命日は十日後だった。
夕食の席で命日にお母様のところへ行こうと言うと、エレノアは匙を置いてしばらく皿を見ていた。
「……はい。お母様のところは、しずかに、行きたいです」
騎士をずらりと並べて紋の入った馬車で行くのではないということだろう。この子は母親と静かに会いたいのだ。
それは分かった。分かったうえで俺は、茶会のことと帽子の男のことと、口入れ屋の主人が調べの日の朝に消えたことを考えた。今朝の侍医の言葉も考えた。
護衛は減らさない。それだけは先に決めた。そのうえでどうすれば静かにできるかをガレスに相談した。
ガレスは書斎の机に地図を広げて指で道をたどった。
「騎士は馬車の前と後ろに二騎ずつ。声の届かないくらい離して付ける。お嬢から見えるのは窓の外の遠くの馬だけだ。丘の道は片側が急な斜面になってる。前の日に俺の部下を先に行かせて、倒木も落石も怪しい奴も見ておく」
俺は頷いてもう一つ自分で頼んだ。
「馬車は前の日に厩舎で点検させる。車輪も車軸も馬具も、全部」
厩番の頭には俺から直接言いつけた。それから出納帳を開いた。春にセバスから一から教わった帳面で今は自分で読める。夏の終わりには墓参りに使う紋のない馬車の車輪を一つ替えていた。古い車輪にはひびが入っていたとあり、代金と取り付けた職人の名も書いてあった。
替えておいてよかったと思った。
それでも本当のところ俺はどこかで安心していた。
ゲームの本編は学院の入学から始まる。エレノアはそこまで生きている。十五までは無事だ。茶会の濡れ衣はゲームの罪状の一行にもあったが、それはもう済んだ。だからこの手配は命日に静かに母親に会わせるための念のためだった。
*
命日の前の晩に厩番の頭が書斎に来た。
「お申しつけの点検、済みましてございます。日の暮れる前に、車軸は端から端まで木槌で叩いて音を聞きました。車輪も馬具も、異常ございません」
俺は礼を言った。厩番の頭はもう固まらずに一礼して下がっていった。
入れ替わりにガレスが顔を出し、丘の道には何もなかったと部下が戻ったことを伝えてから、窓枠に腰を預けて冗談めかして言った。
「道は俺が見た。……馬車の中までは、さすがにな」
俺は笑って明日の朝の刻限を手帳に書いた。
窓の外の厩舎のほうから、荷車の軋む音が一度だけ聞こえた。俺は顔を上げなかった。
寝る前にエレノアの部屋の前を通ると扉の下から灯りが漏れていた。廊下の長椅子にいたミーナが立ち上がって小さな声で言った。
「お母様にお話しすることを、紙に書いておいでです。旦那様にもお見せにならないそうです」
俺は扉を叩かずに自分の部屋へ戻った。
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