父と娘の休日
休みの日と決めた日の三日前に、話題の紙は四行になった。
一、お父様のお馬にのる。二、下町のお店。三、川。四、
「四は何だ」
「お父様の行きたいところです」
エレノアは紙を俺のほうへ向けた。四のあとは空いていた。
「お父様のは、かんがえておいてください」
三日考えても思いつかなかった。この子の行きたいところへ行く日だと決めていたので自分の行きたいところを考えたことがなかった。
前の日の十五分に「まだ決まらない」と言うと、エレノアは少し考えてから「では、とちゅうで決めてください」と言った。
「ペルには乗らないのか」
「ペルは来月でいいです。お父様のお馬にのれるのは、今度だけかもしれないから」
今度だけと決めた覚えはなかった。俺はそうだとも違うとも言えずに、紙の一の行を見ていた。
*
前の日の午後、俺は厩の囲いで一人で馬に乗ってみた。
馬に乗るのは俺には初めてで、この身体には初めてではなかった。馬丁が口元の綱を持ち、ガレスが柵にもたれて見ていた。鐙に足をかけた時から身体のほうが全部知っていて、手綱の長さも膝の締め方も、馬の首の傾きに合わせて腰を落とす角度も、俺が何も考えないうちに決まっていた。綱を離させて囲いを三周し、速足でもう二周すると、ガレスが柵から身体を起こした。
「昔のまんまだ。乗り方だけはな。……乗せていいぞ。並足ならな」
*
その朝、厩の前の庭で俺はエレノアを自分の馬の前に乗せた。
鞍には公爵家の紋のないものを置かせ、上着も紋のない地味なものにした。下町へ行くと言ったらセバスがそうさせた。囲いの中ではペルが首を伸ばしてこちらを見ていた。
ガレスは騎士団の青い上着ではなく、くたびれた茶色の上着で来た。腰の剣だけはいつもと同じだった。
「公爵が娘を連れてお忍びで下町見物。……俺の休みの日にな」
ガレスは門を出るまでに同じことを三回言った。
馬は並足のまま、俺の思った方向へ思った速さで歩いた。エレノアは俺の腕のあいだで背筋を伸ばし、最初は鞍の前の出っ張りを両手が白くなるほど握っていたが、半刻もしないうちに片手になった。
「……お父様、お馬、じょうずですね」
「そうらしい」
ガレスが横で鼻を鳴らした。ガレスの馬はずっと俺の右の半馬身うしろにいて、通りに出てからは荷車や人とこちらの馬のあいだに入った。
*
下町の市場は朝から人でいっぱいだった。
馬を知り合いの宿の厩に預けて歩いた。迷子にならないようにと言ったのは俺で、エレノアは俺の上着の裾をずっと握っていた。通りの両側に焼いた肉や果物や布や鍋の屋台がずらりと並んでいた。
菓子の屋台の前でエレノアの足が止まった。
蜂蜜を塗って焼いた小さな丸い菓子と、砂糖をまぶした木の実と、干した杏を飴で固めたもの。店の女に「どれにします」と聞かれてエレノアは俺を見上げた。
「お前が選んでいい」
屋台に向き直ったエレノアは、そこから長かった。蜂蜜の丸いのを見て木の実を見て、杏を見てまた蜂蜜に戻った。指を一本立てかけて下ろし、木の実のほうへ半歩寄ってまた戻った。店の女がガレスと目を見合わせて笑いをこらえていた。
「……二つは、だめですか」
ようやく言ったエレノアは蜂蜜の丸いのと杏の飴を両手の指で一つずつ指していた。
「二つでいい」
エレノアは目を丸くしてから二つを両手で一つずつ受け取り、どちらから食べるかでまたしばらく迷っていた。
隣の屋台の柱に麦の値が板に書いて掛けてあった。去年より安いのは、北の谷の豊作の見込みがもう値に出ているのだろうか。
手が勝手に上着の隠しの手帳へ伸び、半分まで出したところで俺は手帳を押し戻した。今日は何も書かない日だった。
リボンの屋台ではエレノアは迷わなかった。
並んだ色の中からまっすぐ一本を指した。少しくすんだ明るい緑で、奥様の庭の薄荷の葉と同じ色だった。
「それでいいのか」
「これが、いいです」
*
市場を抜けた先に川があった。
石の土手の下を浅い川がゆっくり流れていて、釣り竿を貸す爺さんが銅貨一枚で竿と餌を貸してくれた。
釣りならできると思った。子供のころ前の世界の父に一度だけ連れていかれたことがある。
できなかった。この身体は馬には乗れても釣りは知らず、俺のほうは二十何年前に一度やったきりだった。
一投目で糸が自分の帽子に絡まった。二投目で針がうしろの柳の枝に引っかかった。三投目でようやく水に落ちたが、浮きはぴくりとも動かなかった。
エレノアは土手の石に座って蜂蜜の菓子をかじりながら見ていた。ガレスは少し離れた木の下で腕を組んで見ていて、黙ってはいなかった。
「魚のほうがお前を釣ってるな」
四投目でまた針が柳に引っかかった。今度の枝は川のほうへ張り出していて、糸をたぐって枝の先へ手を伸ばしても届かなかった。もう少しだと思って土手の縁の石に片足をかけた。
石が苔でぬるりと滑った。
水は膝の上までしかなかった。
それでも尻から落ちれば腰まで濡れ、背中から倒れれば首まで濡れる。俺はその両方をやった。起き上がった時には頭のてっぺんから水が滴っていて、手には竿がまだ握られていた。柳の枝は無傷だった。
土手を見上げると、エレノアが菓子を持ったまま立ち上がっていた。顔が白かった。
俺は竿を持っていないほうの手を上げて振った。膝までの水の中に、両足でちゃんと立っていた。
「大丈夫だ。浅い」
エレノアの顔がゆっくり元の色に戻り、土手の石にすとんと座り直した。それから俺の頭のてっぺんから落ちる水を見て、口の端が震えた。
笑っていた。
声を上げて笑っていた。菓子を持ったまま肩を揺らして、息が切れるほど。高い小さな子供の声だった。
俺はこの子の笑い声を初めて聞いた。
エレノアは自分の声に驚いたようにぱっと両手で口を押さえた。菓子が膝の上に落ちた。
押さえた手の下でまだ肩が揺れていた。笑ってはいけないという目ではなかった。止まらないという目だった。手の隙間から、くっ、とまた声が漏れた。
俺は川の真ん中に突っ立ったままそれを見ていた。襟から背中へ入ってきた水は冷たかったが、それどころではなかった。
木の下ではガレスが腹を抱えていた。
竿を返しにざぶざぶと川から上がるうちに気がつくと俺も笑っていた。濡れた髪を手でかき上げながら声を出して笑った。何がおかしいのか自分でもよく分からなかった。たぶん全部だった。
土手に上がるとエレノアが膝の上から菓子を拾って俺に差し出した。蜂蜜の丸いののかじりかけの半分だった。
「……たべますか」
片方の手でまだ口の端を押さえていた。
濡れた指でつまんで食べると甘く、川の水の味が少しした。
*
帰りの馬の上で俺は宿の女将が見かねて貸してくれた古い外套にくるまっていた。
下はまだ濡れていた。エレノアは外套の前の隙間から顔を出していて、ときどき思い出したように肩を揺らしては自分で口を押さえた。緑のリボンは上着の隠しに大事にしまってあった。
屋敷の玄関で待っていたセバスは、俺の格好を見て一瞬だけ何か言いかけ、言わなかった。差し出した銀の盆に載っていたのは、手紙ではなく乾いた布だった。
*
その日の夕方の十五分にエレノアは話題の紙を出した。
一から三までには小さな丸がついていた。四のあとはまだ空いていた。
「お父様の行きたいところは、決まりましたか」
俺は少し考えた。
「川だ」
「……おちたのに、ですか」
「落ちたのに、だ」
エレノアは紙を見てから俺を見た。口の端が持ち上がって、また両手で口を押さえた。押さえたまま肩が二度揺れた。
それから紙を机に置いて、四のあとに「川」と書いた。その横に自分で丸をつけた。
「来月は、ペルです」
「ペルの日だな」
「お父様は、見ていてください。おちないところで」
砂が落ちきった。エレノアは「十五分です」と言った。
*
奥様の庭の薄荷が霜で黒くなったのは、それから三週間ほどあとのことだった。
エレノアは毎朝ミーナと石垣の中にしゃがみ、帳面のとおりに株の根元へ藁をかぶせた。緑のリボンは毎朝髪に結ばれていた。編むのはミーナだった。
藁をかぶせ終えた日の夕方、セバスが書斎の暦をめくって言った。
「旦那様。奥様の二度目のご命日が近うございます」
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