奥様の庭
朝の風に初めて冷たいものが混じった日にエレノアは朝食の匙を置いて言った。
「今日がいいです」
何が、とは言わなかった。俺は「分かった」と答えてセバスに目で合図をした。ミーナはそのあいだずっと、いつもより半歩近くエレノアのうしろに立っていた。
*
東の棟の二階は奥へ行くほど窓が少なくなった。
突き当たりの白い扉の取っ手には薄く埃が積もっていた。セバスは鍵を差し込み、回す前に一度だけ手を止めた。
「旦那様はご葬儀のあと一度だけこのお部屋にお入りになりました。半刻ほどして出ていらして、鍵をおかけになり、わたくしにお預けになりました。それきりでございます」
鍵が回ると、中は薄暗かった。セバスが窓の帳を開けると秋の朝の光が斜めに差し込み、光の中を細かい埃がゆっくり舞った。椅子にも寝台にも化粧台にも白い布がかけてあって、布の下の形だけが部屋に並んでいた。
閉じた部屋のこもった匂いの奥に乾いた草のような匂いがかすかに残っていた。
エレノアが鼻をすんと鳴らした。
「……このにおい、しってます。はっぱのにおいです。ぎゅってされたときに、した」
少しでいいから覚えていることを聞かせてくれ、と俺は夏に頼んだ。この子は部屋に入って最初にそれに答えた。
肖像画は窓の向かいの壁にかかっていた。布はかかっておらず、光がちょうど額縁の下半分まで届いていた。
椅子に座った女の人だった。銀と金のあいだのような淡い色の髪を肩に下ろし、口元がほんの少しだけ上がっている。笑い出す手前で絵描きに止められたような顔だった。首に下がった細い鎖の先に指輪より少し大きいくらいの飾りのない銀の環が一つあった。
見たとたん胸の奥がきしんだ。
どこかを打ったのではない。骨の内側のどこかを縄で締め上げられるようで、息が浅くなった。
名前しか知らず、顔も今初めて見た人なのに、目の奥が熱くなった。
エレノアは首をうんとうしろに倒して肖像を見上げていた。手は前で重ねずに両脇に下がっていた。
「お母様は、笑っていたのですね」
エレノアは振り向いて俺に何か言おうとし、口を開けたまま止まった。
頬が濡れていた。俺の頬だった。
気づいた時にはもう顎まで伝っていて、拭っても次が落ちてきた。悲しいと思うより先に身体が勝手に泣いていた。
大丈夫だ、と口がその形に動きかけて、そのまま閉じた。
「……分からない。この絵を見たら勝手に出てきた。なぜなのか、自分でも分からない」
エレノアは目を大きく開けたまま俺を見ていた。それから一歩近づいて指先で俺の上着の袖をつまんだ。温室の時ほど強くはなかった。
ミーナは入口で自分の前掛けを握りしめ、セバスは窓辺でこちらに背を向けていた。窓の外で鳥が鳴いていた。
涙が止まってからもう一度肖像を見た。今度は胸はきしまず、鈍い痛みが奥に残っているだけだった。
この身体はこの人を知っていたうえで失い、この部屋に半刻だけ入って鍵をかけた。その半刻に何をしていたのか俺は初めて知りたいと思った。
セバスが窓際の布を一枚めくった。座面の片側だけが擦れて薄くなった、背の低い肘掛け椅子だった。脇に子供の足が届くくらいの小さな踏み台が置いてあった。
「奥様はここで本をお読みになるのがお好きでした。お嬢様はその踏み台からお膝に上がって、よくお昼寝をなさいました」
エレノアは踏み台を見下ろして首をほんの少しだけ横に振った。
「……おぼえて、いません」
「三つになられる前のことでございます。覚えておいででなくて当たり前でございますよ」
セバスの声はいつもよりゆっくりだった。エレノアは靴の先で踏み台の縁をそっと触ったが、上には乗らなかった。
化粧台の宝石箱はほとんど空だった。真珠の耳飾りが一対と、小さな青い石の指輪が一つあるきりで、肖像の銀の環はなかった。
「あの首飾りは」
「奥様はいつもお着けでございました。……ご葬儀の時にどうなったのか、わたくしは存じません」
この人が知らないと言うのを俺は初めて聞いた気がした。
書き物机の引き出しには布張りの帳面が一冊入っていた。角がすり切れていて、開くと細いやわらかい字で草の名前が並んでいた。
薄荷。胃の重い時。三日に一度水。春に株を分ける。
鎮めの草。眠れない夜にほんの少し。
ページのあいだに押し葉が挟まっていて、色が抜けてもまださっきの匂いがした。
草の名前のあいだに別の書きつけが混じっていた。
E、薄荷の葉をちぎって匂いをかぐ。三度目。
E、ひびの草を「まるいはっぱ」と呼ぶ。
新しく来た下働きの子の手がひどい。ひびの草を一束。
エレノアが俺の肘の下から帳面をのぞきこんだ。この子はもうたいていの字が読める。
「……Eって、なんですか」
「たぶん、お前だ」
エレノアは「まるいはっぱ」の行を指でなぞった。それから入口を振り返った。
「ミーナ。このはっぱ、どこにあるの」
ミーナは前掛けを握っていた手をほどいた。
「温室の裏に奥様のお庭がございます。奥様がご自分で草を育てておいででした。……もう、ずいぶん荒れておりますけれど」
俺は帳面を最後のページまでめくったが、妻が娘を王家に近づけたくなかったかどうかは、どこにも書いていなかった。書いてあったのは何を植えていつ水をやり、誰に何を摘んで渡したかだった。
*
奥様の庭は温室の裏の日当たりのいい斜面にあった。
低い石垣で四角く囲った中に、もとは畝が六本並んでいたらしい。今は背の高い草がはびこって、どこが畝でどこが通り道なのかも分からない。その下で帳面の草が細々と生き残っていた。
俺は石垣の外から庭を見渡して頭の中で段取りを組んだ。
「庭師に言って元に戻させよう。草を抜くのも土を起こすのも庭師がやる。お前は帳面を持って見ていてくれればいい」
エレノアは帳面を胸に抱えたまま俺を見上げた。
「わたくしが、ぬきたいです」
「鎌を使うんだぞ。とげのある草もある。手を切ったら」
「ミーナに、教わります」
「庭師がやればすぐに済む。お前は見ているだけで」
「お父様は」
エレノアの声が俺の声にかぶさった。顔がみるみる赤くなっていった。
「わたくしが、何もできないと思ってる!」
石垣の外で生垣を刈っていた庭師の鋏が止まった。
エレノアは両手で自分の口を押さえていた。大きく見開いた目が自分の言ったことに驚いていた。その目がみるみる濡れていった。
この子が俺に向かって大きな声を出したのは初めてだった。
違う、危ないから言っているんだ、お前のためだ。言葉は全部喉のところまで来ていた。
そこで別の声が頭の奥で鳴った。
――お前には、まだ早い。
前の世界の父の声だった。十になった夏、一人で電車に乗って祖母の家まで行きたいと言った。乗り換えは一回で、駅の名前を全部書き出して父に見せた。父は紙をちらりと見てそう言い、新聞に目を戻した。
俺は紙を丸めて捨てた。次の年もその次の年も言わなかった。
喉まで来ていた言葉を、俺は飲み込んだ。
「旦那様」
ミーナがエレノアのうしろから一歩出ていた。
「お嬢様は夏の終わりから、温室の月見草にご自分で水をやっておいでです。庭師に量を聞いて、毎朝。鉢を一つも枯らしておられません」
温室で俺に花の名前を三つ教えたのはこの子だった。俺はそれを口の中で繰り返しただけだった。
俺は石垣の前でしゃがんでエレノアと目の高さを合わせた。
「お前ができないと思ったんじゃない。でも、お前が何をしたいのかを聞く前に、見ているだけと決めた。……それがまちがいだった。すまない」
エレノアは口から手を下ろした。目はまだ濡れていた。
「どこからやりたい」
エレノアは帳面を抱え直し、石垣の中を長いあいだ見回してから、丸い厚ぼったい葉がのぞいている畝を指さした。
「まるいはっぱの、ところです」
「じゃあ、その畝をお前の受け持ちにしよう。残す草は庭師に見分けてもらって、紐を結んでもらう。紐のない草をお前が抜く。鎌を使うところと、とげのある草は庭師とミーナがやる。抜く順はお前が決めていい」
「……一本だけ、ですか」
「一本だけだ。ほかの五本は庭師に任せる。お前の一本がちゃんと根づいたら、次の春にもう一本のことを相談しよう」
エレノアは石垣の中の残りの五本を見回して、少しだけ唇をとがらせた。それから帳面と畝を見比べて「……はい」と言った。
「それから、私も手伝っていいか」
エレノアはもう一度俺の顔を見てこくりと頷いた。
庭師が鋏を置いて石垣の中に入り、畝の草の根元に麻紐を一つずつ結んでいった。結び終わるのを待って、俺は上着を脱いで石垣をまたぎ、手近な草を根っこから勢いよく引き抜いた。土がばらばらと飛んだ。
「お父様! それは紐がついています! 薄荷です!」
手の中の草を見ると、ぎざぎざの葉の根元に麻紐が結んであった。帳面の最初のページの押し葉と同じ形だった。
「……雑草じゃないのか」
「ちがいます。いちばん、はじめのです。胃の重いときです」
エレノアは帳面を開いて俺の目の前に突き出し、押し葉と俺の手の草を交互に指さした。俺は抜いた薄荷を元の穴にそっと戻して手で土をかぶせた。かぶせ方が下手で、葉が横に倒れた。
「……すまん」
俺は薄荷に謝った。
それから半刻、俺はエレノアの言うとおりに草を抜いた。手を伸ばすたびにエレノアが紐と帳面を見比べて「そこは、まだです」とか「いいです」とか言った。紐の付いた草はもう抜かなかったが、紐のない草は根が途中でちぎれ、力を入れると土がエレノアの帳面まで飛んだ。
膝も袖も泥だらけになり、汗をぬぐった手のせいで額にも泥の線がついた。エレノアはその額を見て何か言いかけてやめ、口の端をほんの少しだけ持ち上げた。
*
エレノアが泥だらけの手を洗いに温室の水場へ駆けていくと、石垣の中には俺とミーナが残った。
さっき戻した薄荷の葉が少しだけ起き上がっていた。ミーナは前掛けで手の泥を拭きながらしばらく水場のほうを見ていた。
「旦那様。もっと申し上げます、と申しました」
ミーナの声は硬かった。直そうとはしていなかった。
「奥様は亡くなる前の月まで、ここで草を摘んでおいででした。それがひと月もしないうちに起き上がれなくなられました。……奥様のお茶とお薬は、アンナさんが毎日お部屋まで運んでおりました」
ミーナは帳面の載った石垣の上を見た。
「それが何なのか、私には分かりません。ただ、お嬢様がこの庭に来るなら、申し上げておこうと思いました」
「話してくれてありがとう」
俺は膝の泥を払って立ち上がった。分かった分だけ話す、と俺は春の終わりにミーナに約束していた。
「アンナのことでセバスが調べたことを話す。暇を出した日の帳簿には、私の字で『暇を出す』とだけ書いてあった。理由は書いていない。紹介状も出していない。ただ同じ日に私の手元の金から、アンナに一年分の給金と、南へ行く乗合馬車の代金が出ていた」
ミーナは前掛けで手を拭くのをやめた。
「紹介状もなしに、一年分を……」
「どういうことなのか、私にもまだ分からない。南のどこまで行ったのかも分からない。セバスが乗合馬車の宿駅に問い合わせている。返事が来たら、また話す」
ミーナは長いあいだ黙っていてから、小さく「はい」と言った。
亡くなる前の月まで庭にいた人。ひと月で起き上がれなくなった人。毎日運ばれた薬。紹介状なしで、金だけ持たされて遠くへやられた侍女。
俺はそれを手帳に一行ずつ書いた。並べると何かの形になりかけたので、形になる前に手帳を閉じた。
エレノアが濡れた手を前に突き出しながら戻ってきた。
石垣の中にしゃがんで帳面を開き、畝で生きていた草の名前の横に小さく丸をつけていく。それから閉じた手帳を持ったままの俺を見上げた。
「お父様は、ずっと何か書いています」
言われてみればそうだった。春からずっと俺は何かを書いて何かを調べていた。
「次のお前の休みの日は、何も書かない。何も調べない」
エレノアの休みは月に一日ある。書き取りも稽古もない日で、朝のうちに馬丁が手綱を引いて厩の囲いの中でペルに乗せるので、屋敷ではその日をペルの日と呼んでいると夏にミーナから聞いていた。
エレノアは丸をつける手を止めた。
「……ペルの日、ですか」
「ペルの日だ。お前の行きたいところへ行く。お前のしたいことをする」
「どこでも、ですか」
「どこでもだ」
エレノアは帳面の上で少し考えた。
「かんがえておきます」
その日の夕方の十五分、話題の紙には「一、」とだけ書いてあった。一のあとはまだ空いていた。
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