宰相の申し出
先月の参内で国王が見せたかったのは地図だった。
王妃と石段を上がって部屋へ戻ると、御前会議のために描かせたという北の街道の新しい地図が長い卓いっぱいに広げてあった。国王は関所の印を一つずつ指でたどりながら去年の冬にどこで荷車が立ち往生したかを楽しそうに話した。俺は頷くことしかできず、来年の額は麦の見込みが揃ってからとその日は持ち越しになった。
麦の見込みの数字は宰相が言ったとおりひと月のうちに屋敷へ届いた。数字の横には宰相の手でどの谷の見込みがどの関所を通るかが短く書き込んであった。それがなければ二晩では読めなかったと思う。俺はヘルマンとそれを読み、北の街道を通る荷のうち麦がどれだけかをセバスに出してもらってから、今度はエレノアを連れずに一人で二度目の参内に出た。
同じ地図の前で俺は今度は頷くだけではなかった。
「来年も北は据え置きがよいと思います。今年の麦は北の谷で豊作の見込みで、荷が増えます。額を上げれば商人は南へ回るでしょう。回った分の通行料は北に入りません」
「ほう」
国王は地図から顔を上げて俺を見た。宰相は言葉の切れ目に短い数字を一つだけ添えた。
「南へ回る道は北より二日長うございます。商人が二日を惜しまぬ額は、そう高くはございません」
「では据え置きだな。会議でもそう言おう」
国王は写しを持って帰れと言い、次の謁見があると侍従と出ていったので部屋には俺と宰相が残った。
「公爵閣下。少しお時間をいただけますか」
*
宰相が俺を連れ出したのは庭に面した長い回廊だった。
柱と柱のあいだから夏の日が斜めに差し込んでいた。
「先月、窓から庭を拝見しておりました」
宰相は歩きながら言った。
「閣下が王太子殿下をご覧になっていたお顔も。その前に、あの部屋で王妃殿下に候補の件をお願いになったところも伺っておりました」
あの場にいた人に何を言っても遅いので俺は黙っていた。
「失礼ながら申し上げます。閣下は今、ご令嬢を候補とすることにお気が進まない。違いますかな」
足を止めた宰相の片眼鏡の奥の目は俺だけを見ていた。先月の部屋でエレノアの頭の上の何もないところを見ていた人と同じ人とは思えなかった。
「……違わない」
「昨年のご推挙は奥方様を亡くされてまだ間もないころでございました。お考えが変わることもございましょう。お倒れになったあとなら、なおさら」
宰相は柱の陰へ半歩寄った。声は先月と少しも変わらず低く、一語ずつきちんと並んでいた。
「もし閣下がご令嬢を候補から外したいとお考えなら、私はお力をお貸しできます。ただ、王妃殿下のご意向に正面から逆らうのは得策ではございません。殿下はご令嬢を高くお買いになった。閣下ご自身がそれをお確かめになったとおりです」
「では、どうする」
「候補はご令嬢お一人ではございません。釣り合う家の令嬢が少なくともあと四人おられます。候補の名簿は毎年の初めに王妃殿下の侍従が改めますので、そこへ加える名を私から陛下に申し上げます。閣下は何もなさらなくてよい。名が増えれば一人の名は薄まります」
宰相は少し声を落として続けた。
「ご令嬢がお七つになる年に、名簿の順の見直しがございます。順を決めるのは王妃殿下お一人ではなく、陛下も宰相の意見をお聞きになる。そこで順を後ろへ回していけば、誰の顔にも泥を塗らずに外れていくことができます」
筋が通っていた。王妃に正面から断られた話の通れる脇道を、この人は一本ずつ指で示していた。
「お返事は急ぎません。ご令嬢はまだ五つでいらっしゃる。……毎夕、閣下と十五分お過ごしだそうですな。砂時計で計って。よいお習慣です」
俺は宰相の顔を見たが、宰相は世間話の続きのような顔をしていた。
「奥方様も同じお考えでございました。ご令嬢を王家には近づけたくない、と。生前にそう伺ったことがございます」
渡りに船だ、と思った。
この婚約は決まらせない。召喚の事情を聞いた夜にそう決めて王妃に断られ、そのあとどうするかはまだ何も考えていなかった。先月国王の前で俺を助け、麦の数字に書き込みまでしてくれた人が、その答えの半分を向こうから持ってきた。そのうえ亡くなった妻も同じことを望んでいたという。
こちらが一番欲しい条件を取引先が先に出してくることは前の世界でもあった。そういう時俺はその場では判を押さずに「持ち帰ります」と言った。それは身体ではなく俺に残っている癖だった。
「ありがたい話だ。改めて返事をさせてもらいたい」
「もちろんでございます」
宰相は浅く頭を下げ、回廊の端で紙の束を抱えて待っていた秘書官と並んで角を曲がっていった。
*
その夜ガレスが屋敷に来た。
書斎でセバスと三人になって回廊での話をそのまま伝えるとガレスは最後まで黙って聞いてから腕を組んだ。
「悪い話じゃない。悪い話じゃないから気をつけろ」
「まだ何も決めていない」
「決めかけてる顔だ。宰相の親切には宰相の理由がある。あいつは自分の得にならんことには指一本動かさん」
「悪い人には見えなかった」
「悪い奴だとは言ってない」
セバスが静かに言い添えた。
「宰相閣下の得は、たいてい国の得でございます。それは確かでございます。ですが旦那様、国の得とお嬢様の得がいつも同じとは限りません。宰相閣下がなぜお嬢様を候補から外したいのか、王妃殿下はなぜお嬢様を推したいのか。それが分からないうちにお返事をなさるのは、中身の分からない書状に判をお押しになるのと同じことでございます」
春に目を覚ました日、俺は最初の書状を前にして署名より先に金額を聞いた。この人はそれを見ていた。
「それに候補を増やすと言ったんだろう。増やした候補の家がどこになるかで、宰相がどっちを向いてるかが分かる。返事はそれを見てからでも遅くない」
俺は頷いて宰相への返事を保留にした。それから二つ聞いた。
「十五分のことを宰相は知っていた。砂時計のことまで」
「お屋敷の者は皆存じております。旦那様が毎夕お嬢様のお部屋へお通いになるようになってから、砂時計のことまで厨房の話の種でございます。出入りの商人もおりますので」
セバスは平らな声で答えた。それなら宰相の耳に入っても不思議はなかった。
「妻が娘を王家に近づけたくなかったというのは」
セバスは今度はすぐには答えなかった。
「奥様がそのようなことをお話しになったのを、わたくしは伺っておりません。候補のお話が出たのは奥様が亡くなられてからのことでございます」
ガレスは窓枠から俺を見ただけだった。
二人が出ていったあと俺は手帳を開いて書いた。宰相。王妃。候補、あと四人。それから少し考えて、もう一行足した。
イザベルは何を望んでいたか。
俺はそれを知らなかった。知らないことを他人の口から聞いて渡りに船だと思っていた。
*
次の日の十五分にエレノアの話題の紙には三つ書いてあった。
一、ペルの毛が生えかわった。二、月見草がさいた。三、お母様。
一つ目と二つ目を話し終えるとエレノアは紙の三の行に指を置いた。
「お父様。お聞きしてもよろしいですか」
「ああ」
「王宮で、宰相様がお母様のことを言っていました」
先月宰相が俺に悔やみを言った時、この子はすぐそばで聞いていた。それからひと月この紙をどうしていたのか俺は知らない。
「お母様は、どんな方でしたか」
答えられなかった。名前がイザベルで、亡くなったのが二年前の冬の初めだということしか俺はセバスから聞いていない。顔も声もどんなふうに笑ったのかも俺は知らない。この身体は知っていたはずだが、その記憶は一つも残っていなかった。
優しい人だった、きれいな人だった。どんな言葉でも言えばこの子はたぶん信じる。
でもそれは俺が知っていることではなかった。昨日宰相の口から聞いた妻の望みに、俺は乗りかけたばかりだった。
背筋を伸ばして待っていたエレノアの目が、砂がしばらく落ちたところで下を向いた。
「……お父様も、覚えていないのですね」
責める声ではなかった。三つで母親を亡くした子だから、この子にも母親の顔はもうほとんど残っていないのかもしれなかった。
「すまない。今は答えられない」
エレノアは顔を上げなかった。
「でも、知っている者はいる。セバスもミーナも、お前のお母様のそばにいた。一緒に聞きに行こう。それから、お前が覚えていることも、少しでいいから聞かせてくれ」
エレノアが紙の三の行を見たまま小さく頷いたので俺はもう一つ聞いた。
「東の棟の二階の奥に、お母様の部屋がある。亡くなってから鍵がかかったままだ。開けてみるか」
エレノアは紙の上で手を止めて長いあいだ黙っていた。
「……いつ開けるか、わたくしが決めてもいいですか」
「いい」
エレノアはまた少し考えた。
「では、すずしくなったら」
「すずしくなったら?」
「お母様のお部屋は、きっとあついです。ずっと、しめきってあるから」
砂が落ちきった。エレノアは「十五分です」と言い、紙の三の行に小さく丸をつけた。
夕食のあと俺はセバスに鍵のありかを聞いた。セバスは自分が預かっていると答え、それから一言だけ足した。
「涼しくなりましたら、お申しつけくださいませ」
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