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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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20/79

睨む父と王太子

 窓の脇の扉に手をかけた時に背中で扇の開く音がした。


「わたくしも参りましょう。息子を公爵に紹介しなければ」


 王妃はいつの間にか椅子を立ち、俺の半歩うしろにいた。


「……そんなに急いで、どちらへ行かれるおつもりだったのかしら」


 扇の陰で目が笑っていた。何をしに行こうとしていたのか自分でも分からなかったので、俺は答えられなかった。


*


 庭へ下りると芝の上は部屋の中よりずっと暑かった。

 薔薇の茂みの手前で子供が二人向かい合っていた。エレノアは両手を前で重ね、金髪の少年は両手を体の横にそろえている。どちらも相手より先に口を開くまいとしているように見えた。少し離れた木陰に女官とミーナが控えていた。


 俺たちが近づくと、少年は国王と同じ碧い目で王妃を見て、それから俺を見た。

 少年は一歩前に出て右手を胸に当て、きちんと腰を折った。


「ヴァレンシュタイン公爵閣下。ご快復を心よりお喜び申し上げます。レオンハルトと申します」


 七歳の声で、大人の言葉が一語もつかえずに出てきた。教えられた順に何度も練習したのだろう。


 挨拶を返すべきだとは分かっていた。ただその顔を見たとたん、頭の中に別の顔が重なった。十一年後のこの顔と、大広間の中央で紙を広げる手と、台詞枠の「……」と、そのあとに続く罪状。

 この子がうちの娘の罪状を読む。


 気がつくと俺は頬のあたりを固くして少年を見下ろしていた。この身体の顔は黙っているだけで十分に冷たいことを俺は春から知っている。

 目が合うと少年はさっとエレノアのほうへ向き直ってもう一度礼をした。


「エレノア嬢。お、お会いできて」


 声が裏返った。少年は口を閉じ、耳をみるみる赤くしてから息を吸い直した。


「……お会いできて、うれしく思います」


 今度は裏返らなかったが、そのかわり目がちらりと俺のほうへ動いた。扇の陰で王妃の肩が一度だけ揺れた。


 エレノアは完璧な礼を返した。


「エレノア・ヴァレンシュタインでございます。お目にかかれて光栄です」


 顔を上げたエレノアが見たのは少年ではなく俺だった。

 見たことのない目だった。怯えても困ってもいない。眉が寄って唇がきゅっと結ばれていた。エレノアは指先で俺の上着の裾を引いて小さな声で言った。


「……お父様。殿下に、しつれいです」


 言葉に詰まった俺を、エレノアは裾を引いたまま見上げていた。頬が赤いのは暑さのせいではないと思った。


「はずかしいです」


 ほとんど息のような声でそれだけ言うとエレノアは裾を離して少年のほうへ向き直り、何事もなかったように両手を前で重ねた。


 春には俺の機嫌を損ねるのを何より怖がっていた子が王太子と王妃の前で父親の裾を引いて叱っている。

 叱られたのに胸のどこかが緩んだ。

 上から見下ろしているから余計に怖いのかもしれない。俺は芝の上に片膝をついた。少年の顔が俺の目より少しだけ上になった。


 何か言わなければならなかった。挨拶も返していないうえに、七歳の子の声を裏返らせている。あの挨拶は立派だった。


「……よく練習したな」


 低い声が出て、少年の背筋がさらに一段伸びた。


「申し訳ございません。練習が足りませんでした」

「ちがう」


 少年が頭を下げたまま固まった。


「責めたんじゃない。……立派な挨拶だった」


 少年はゆっくり顔を上げ、「ありがとう、ございます」と言った。言い直してもこの身体の声は低いままで、エレノアがさっきより強く俺の裾を引いたので、俺は口を閉じた。


 ゲームの本編は娘が十五で学院に入るところから始まる。王太子はその時もう最上級生で、成績が一番で誰にでも公平で少し冷たく、ヒロインと出会って少しずつ笑うようになる。

 七歳のこの子が何を好きでどんな声で笑うのか、ゲームは何も見せてくれなかった。今、目の前の子に俺が重ねているのは、十一年後のたった一場面だけだった。


「公爵。レオンハルトは何か粗相をいたしましたかしら」


 王妃が扇を少し下ろした。


「……いいえ」

「そう。では、あなたのお顔はいつもそうなのね」


 王妃はそれ以上は聞かず、扇の先で自分の口元を軽く叩いた。何かをどこかの棚にしまっておくような仕草だった。


「アルベルト」


 石段の上で国王が侍従を一人連れて手招きをしていた。


「少し来てくれ。見せたいものがある。宰相も呼んでおる」


 俺は膝の芝を払って立ち上がり、子供たちを見た。二人はまだ向かい合ったまま、相手より先に口を開くまいとしている。


「子供たちには女官をつけておきます。それに公爵、親がそばにいると子供は親の顔を見て話すものですよ」


 調べの前の晩にガレスに言われたのと同じことだった。

 木陰のミーナを見ると小さく頷いた。


「……娘を頼む」


 ミーナに言ったつもりだったが、王妃がまた少し笑った。


 俺は石段のほうへ歩き出した。五歩歩いて六歩目で足が止まり、振り返った。

 少年はちょうどエレノアに何かを言おうとして口を開いたところだった。その口のままこちらを見た。目が合った。


 俺は少年を見ただけだった。ただ、たぶんさっきと同じ顔で。


 少年は口を開けたまま右手を中途半端に上げて、初夏の庭の真ん中で一体の像になった。


 エレノアがゆっくりこちらを振り向いた。

 何も言わなかったが、その顔はさっき裾を引いた時よりずっとはっきりと、はずかしいと言っていた。


 隣で王妃が扇を開いた。その陰から今度ははっきりと笑い声が漏れたが、王妃はそれを隠そうともしなかった。


「行きましょう、公爵。陛下がお待ちです。あの子が石のままでは、お嬢さんがお困りになるわ」


 俺は前を向いた。

 石段を上がる途中でもう一度振り返りたくなったが、こらえた。振り返ればあの子はまた石になるし、娘はまたあの顔をする。王妃の扇の音がすぐ隣でずっと鳴っていた。

 それでも十一年後に紙を読む手のことは、石段を上がりきるまで頭から離れなかった。

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