参内
召喚状の一行についてセバスはその晩のうちに事情を話した。
去年の春、奥様が亡くなって三月ほどのころに、この身体の前の持ち主は娘の名を王太子妃の候補として王家に届け出ていた。王妃殿下がそれを受け、名は候補の名簿に載っている。ご令嬢もご一緒に、とあるのは候補の令嬢を一度ご覧になりたいという王妃殿下のお考えでございましょう、とセバスは言った。
ゲームの中のエレノアは王太子の婚約者だった。婚約者だったから、学年末の舞踏会で大広間の真ん中に立たされた。
その最初の一歩がもう一年も前に、俺の知らない俺の字で出されていた。
「その届けは取り下げられるのか」
「旦那様がお出しになったものですから、お下げになることもおできになるかと存じます」
セバスはそこで言葉を切った。
「ただ、お受けになったのは王家でございます」
*
王宮へ向かう馬車の中で、エレノアは一度も背もたれに触れなかった。
淡い水色の礼服を着て膝の上で手を重ねている。快気祝いの茶会で袖を濡らしたのと同じ服で、染みはミーナが抜いていた。どうしてこの服にしたのか、俺は聞かなかった。
向かいの席で俺は手帳を開いていた。召喚状が来てからの二十日のあいだに、家令のヘルマンから聞いたことを書きつけてある。国王陛下アーヴィング三世。王妃殿下セレスティア様。宰相グレゴール・アルシュタイン閣下。呼び方と立つ位置と礼の深さ。ヘルマンは一人ごとに「さて」を三回はさみ、俺は一人ごとに三回書き直した。
取引先の役員一覧を前の晩に詰め込むのと同じだった。違うのは、どの役員の顔も一度も見たことがないことだ。
馬車が止まり、セバスが外から扉を開けた。白い石の階段が上のほうまで続いていた。
階段の下では騎士団の青い上着を着たガレスが待っていた。屋敷で見る時より背筋が一段伸びている。副団長の顔のまま型どおりの礼をして、すれ違いざまに低い声で言った。
「陛下はご機嫌だ。お前が起きたと聞いて三日は機嫌がよかったらしい。あとは王妃殿下の扇を見てろ。閉じたら話が終わった合図だ」
俺は手帳の端に「扇」と書いた。
*
通されたのは謁見の大広間ではなく、庭に面した天井の高い部屋だった。
窓が大きく、初夏の光が床に白く落ちている。正面の二つの椅子の片方から、四十を少し過ぎたくらいの穏やかな顔の男が立ち上がった。
「アルベルト」
国王は俺が礼をしきる前に椅子から下りてきて、両手で俺の右手を握った。
「よく戻った。倒れたと聞いて、余はもう会えぬかと思ったぞ」
手が温かかった。この人とこの身体の前の持ち主がどのくらい親しかったのか、ヘルマンの話にはそこまではなかった。知らないまま俺は頭を下げた。
「ご心配をおかけしました」
「うむ。うむ」
ゲームの中でこの人は背景だった。舞踏会の一枚絵で玉座に座っていた人で、台詞はたぶん一つもなかった。その人が目の前で俺の手を握って笑っている。
国王は椅子に戻るなり言った。
「それで北の街道の通行料だがな。貴族院へのそなたの返書は読んだ。北は据え置き、去年の額のまま。皆それで落ち着きそうだ。では来年はどうする。上げるか」
春に書いた返書のことは覚えていた。ヘルマンとセバスに一つずつ教わった去年の額も覚えている。来年のことは誰にも教わっていなかった。
「据え置きにしたのは去年の通行量を見たからです。来年のことは……今はまだ申し上げられるだけのものを持っておりません」
「陛下」
横から静かな声がした。
痩せた男が一歩前に出ていた。白髪の混じった髪をうしろへ撫でつけ、片方の目に丸い眼鏡をはめている。
「来年の額は秋の麦の見込みを見てからでも遅くはございません。見込みはひと月のうちに揃います。閣下にはその数字をお送りし、それからご意見を伺うのがよろしいかと」
「おお、そうか。宰相の言うとおりだ」
国王はあっさり頷いた。宰相グレゴール・アルシュタインは、ヘルマンが四回「さて」を言った人だった。
俺が目礼すると宰相も浅く頭を下げた。助けられたのは分かった。この部屋の誰もが今のやりとりを俺よりずっと正確に読んでいるらしいことも分かった。
王妃はそれまで一言も話していなかった。国王の隣で閉じた扇を膝に置き、エレノアを見ていた。目元が鋭く、見ているというより測っているように見えた。
「ヴァレンシュタインのお嬢さん」
エレノアは一歩前に出てスカートの裾をつまみ、膝を折って頭を下げた。
「エレノア・ヴァレンシュタインでございます」
それきり黙った。王妃殿下がお声をおかけになってからお答えになればよろしいのです、とセバスが馬車に乗る前に教えたとおりだった。
王妃が扇を開いて口元を隠した。
「茶会のことは聞いていますよ」
俺は口を開きかけた。王妃の目が一瞬だけこちらへ動いたので、そのまま閉じた。
エレノアは頭を下げたまま動かなかった。膝も手も肩も、指先さえ震えていなかった。
王妃はしばらくそれを見てから扇の陰で言った。
「噂は噂ね」
扇が少しだけ下がった。
「噂で人を量るのはわたくしの好みではありません。茶会がどう片づいたのかは、いずれ公爵から伺いましょう。今日わたくしが見たのはこの子の礼です。これだけの大人に見られて膝も手も崩れなかった。それに、父親が口を挟みかけても振り向いて顔をうかがわなかった。自分で立っていられる子です。五つでそれができる子はそうはおりませんよ。……顔を上げなさい」
エレノアが顔を上げると、王妃は目を細めた。
褒められたのだと思う。なのに胃のあたりが冷たくなった。一度も崩れない膝と手を作ったのは、背中の板と頭の上の本と抜かれた昼食だった。
宰相が俺の前に来た。
「公爵閣下。改めましてご快復をお喜び申し上げます。それから奥方様のことも改めて。……この冬で二年になられますか」
「……ああ」
セバスから聞いた数字を、俺は宰相の口からもう一度聞いた。
エレノアが宰相に礼をした。宰相は深さのそろった丁寧な礼を返したが、目はエレノアの頭の少し上の何もないところを見ていた。顔を上げた時もエレノアのほうは見なかった。
陛下も王妃殿下も宰相もここにいる今が、言う時だった。
「王妃殿下。娘の候補の件でお願いがございます」
扇が止まった。
「下ろしたい、と」
「……はい」
「理由を伺っても?」
舞踏会のことは言えないので、言えるのは本当のことの半分だけだった。
「娘はまだ五つです。私は倒れるまでこの子をよく見ておりませんでした。見ないまま出した名です」
王妃は扇の陰で少しのあいだ俺を見ていた。
「正直におなりになったのね、公爵」
声はやわらかかったが、言葉はやわらかくなかった。
「でも名を出したのはあなたで、受けたのは陛下とわたくしです。出した方の一存で引っ込めるものではありませんよ。それに今この時に下ろせば、皆は茶会の噂と並べて読みます。噂が本当だったから公爵が娘を引いた、と。今日わたくしが見たものを、あなたがご自分で打ち消すことになるわ」
返す言葉を探したが、どれを探しても王妃の言ったことのほうが正しかった。
「アルベルト、急くことはない」
国王が笑った。
「決まるのはずっと先だ。レオンハルトもまだ七つだぞ」
王妃の扇がぱちりと閉じた。
決裁の済んだ稟議は起案した本人にも一人では取り消せない。前の世界で何度も見たことを、俺はこの国の王宮でもう一度見ていた。
閉じた扇の向こうを、男が一人通りかかった。
灰色の服で紙の束を胸に抱えている。中背で顔に何の特徴もなく、すれ違って三歩歩けば忘れてしまいそうだった。男は宰相の脇で足を止め、報告書を読み上げるような声で言った。
「閣下。次のお約束の刻限でございます。書類は執務室にそろえてございます」
「秘書官のローデリヒです」
宰相が俺に言い、男は俺のほうを向いて浅く頭を下げた。
その時背中を冷たいものが流れた。
部屋の暑さのせいではない汗だった。腕の筋が勝手に固くなり、右手が腰のあたりで何かを握ろうとしていた。何も下げていないのに。
男は何の表情もない顔を上げ、宰相に一礼して紙の束を抱え直し、ほとんど足音を立てずに扉の向こうへ歩いていった。
握りかけていた右手をゆっくり開くと、手のひらが濡れていた。
国王に手を握られ、通行料を聞かれ、王妃に測られて、そのうえ願いを断られた。病み上がりの身体には十分すぎる。そういうことにして、手のひらを上着の裾で拭いた。
「子供たちは庭へ」
王妃が言うと、女官が一人エレノアの前に来て膝を折った。エレノアは俺を見上げ、俺が頷くと王妃にもう一度礼をして女官のあとについていった。控えの間から出てきたミーナが少し離れてそのあとに続いた。
窓の外の庭では、刈り込まれた低い生垣の向こうに薔薇の茂みが続いていて、水色の礼服が初夏の緑の中を小さく揺れながら歩いていく。
その先に子供が一人立っていた。
日を受けて金色の髪だけが白っぽく光っていた。礼服を着ているというより礼服に着られていて、両手を体の横にそろえたまま、エレノアが来るのを待っていた。
俺はその顔を知っていた。
七歳の顔ではなく十八の顔だ。学年末の舞踏会で大広間の中央に立ち、紙を広げてエレノアの罪状を読み上げる金髪の王太子。読み上げる前に一瞬だけ言葉に詰まり、画面の下の台詞枠に「……」とだけ出た。その一枚絵を俺は何度も見ている。
あの「……」の顔が、七歳の大きさで庭に立っていた。
気がつくと俺は窓のほうへ歩き出していた。
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