泣いていません
次の日の夕方、お勉強のお部屋を出たところにお父様がいました。
「少し歩かないか。温室まで」
わたくしはミーナを見ました。ミーナは今朝わたくしの髪を編んでくれました。きつくなくて、こめかみがいたくなりませんでした。
ミーナが小さくうなずいたので、わたくしは「はい」と言いました。
*
温室はお庭の東のはしにあります。
ガラスのかべが夕方のお日さまで、うすいだいだい色になっていました。中はお外より少しあたたかくて、しめった土のにおいがしました。ミーナは「日がしずむ前にお部屋へ」と言って入口の外にのこりました。
お父様とわたくしは植木鉢のならんだ細い道を歩きました。
お父様が白いつぼみを指さしました。
「これは何という花だ」
わたくしはびっくりしました。お父様が、わたくしに聞いたのです。
「月見草です。夜にさいて朝にしぼみます。今はまだつぼみです」
「よく知ってるな」
「植物の本でおぼえました」
お父様は温室のお花の名前を一つもごぞんじないようでした。わたくしは三つ教えました。お父様は三つとも口の中でくりかえしました。
道のつきあたりに古い石のベンチがありました。
お父様がすわったので、わたくしもとなりにすわりました。足がゆかにとどかなくて、白いくつの先がふたつならんでうきました。
「きのうの、つづきだ」
わたくしは背中をのばしました。きのう、お父様は、信じたからだとおっしゃいました。ほかにもある、ともおっしゃいました。
「信じただけじゃなかった。聞きたかったんだ。お前が何を見たのか」
お父様は、ことばをさがすように少しずつ言いました。
「お前は俺の知らないものをたくさん見てる。ドーラの手袋も、決まりも、かまどの灰も。月見草も。……俺はそれを知らなかった。知らないままお前を守ろうとして大きな声を出した」
俺、とおっしゃいました。
前のお父様はそうはおっしゃいません。わたくしはちがうことを、もう一つ数えました。
「お茶会の日にお前の話をほとんど聞かないうちに、どなったのはまちがいだった。……すまなかった」
お父様がわたくしに、すまなかった、とおっしゃいました。
わたくしは前を見ていました。
背中をのばして手をひざの上でかさねて、ちゃんとすわっていました。
目のところが、あつくなりました。
まばたきをしました。もう一回しました。とまりませんでした。ほっぺたの上を何かがすべっていきました。一つ。それからもう一つ。
泣くのは負けた者のすることです。クラウディア先生がそうおっしゃいました。泣いたら反省文です。泣いたら、はじめからです。
でも、とまりませんでした。
「……泣いていません」
前を見たまま言いました。
「わたくしは、泣いていません」
手が勝手にうごいてお父様の上着の袖をつかみました。調べの日にすそをつかんだ手です。こんどは袖をぎゅっとにぎりました。
お父様の腕が少しうごきました。
それから下におりました。お父様は袖をにぎらせたままにしてくださいました。
「うん」
お父様も前を見たまま、おっしゃいました。
「泣いてないな」
わたくしの肩が一回だけ大きくふるえました。袖をにぎる手にもっと力が入りました。声は出しませんでした。息だけがしばらく、へんなふうになりました。
反省文のことはおっしゃいませんでした。
ガラスのむこうでお日さまが、お庭の木のかげにしずみかけていました。
わたくしは、もうかたほうの手でほっぺたをふきました。
「お父様」
「ん」
「……日が、しずみます。夜は部屋から出ません」
「そうだな。戻ろう」
わたくしはベンチからおりました。袖ははなしませんでした。
温室の外でミーナが待っていました。わたくしの顔を見て袖をにぎったままの手を見ました。何も言わないで扉を大きくあけてくれました。
お屋敷の玄関につくまで、わたくしは袖をはなしませんでした。お父様もはなしなさいと、おっしゃいませんでした。
*
クラウディア先生がおやめになったのはそれから五日あとでした。
お勉強のお部屋で先生はわたくしの前に立ちました。指示棒は持っていませんでした。お父様とミーナはかべのそばに立っていました。
「本日をもちまして、お嬢様の家庭教師を辞させていただきます」
先生の声はいつもと同じでした。
わたくしはまばたきを一つして礼をしました。先生に教わったとおりの礼です。ひざのまげ方も、頭の下げ方も先生の数えたとおりです。
「長いあいだ、ありがとうございました。先生」
先生はわたくしの礼をさいごまで見ていました。
先生がわたくしに「よろしい」とおっしゃったのは二回だけです。一回めは四つの時に、はじめて礼ができた日でした。二回めは去年の冬、書き取りを一つもまちがえなかった日でした。わたくしはその二回をずっとおぼえていました。
先生は今日「よろしい」とはおっしゃいませんでした。
扉のところで一度だけふりかえりました。
「お嬢様。背筋はそのままで」
「はい、先生」
扉がしまりました。
わたくしは背中をのばしたまま扉を見ていました。
先生の足音がろうかの向こうへ小さくなっていきました。もう明日の朝、あの足音は来ません。背中の板も、もう出てきません。
よかった、と思いました。
それから、さびしい、と思いました。
どうして両方なのか、わかりませんでした。わからないまま、となりのミーナの手をだまってにぎりました。
わたくしの手は、まだふるえていました。ミーナはにぎりかえしてくれました。お父様はかべのそばで、こっちを見ないようにしていました。
その夜お人形を枕元に持ってきました。
背中はミーナがぬってくれました。ぬい目が少しだけ見えます。でも、ちゃんととじています。
先生がいたらお人形はいりません、とおっしゃったと思います。先生はもういません。でも、もしまた先生が来たらと思うとまだ少しこわいです。こわいのに、さびしいのも、まだあります。
*
次の日の十五分にお父様がおっしゃいました。
「ドロステ夫人がお前に会いたいと言っている。会うかどうかはお前が決めていい」
わたくしはドロステ様のお顔を思い出しました。
ブローチがなくなった時のまっ白なお顔。お父様の大きな声を聞いた時の、もっとまっ白なお顔。調べの日にわたくしの前でひざをまげかけた時のお顔。
それからお茶会のことを数えました。
お客様は九人。お茶は九人に二回ずつと、三回め。三回めはブラント様のところでこぼしました。着替えて戻って続きから注ぎました。
ドロステ様の三回めはまだでした。注ぐ前にブローチがなくなったからです。
「お会いします」
わたくしは言いました。それからもう一つ言いました。
「ドロステ様のお茶が、とちゅうでした。……もう一度お出ししたいです」
お父様は少しだけ目を大きくしました。
それから「そうか」とおっしゃいました。そうか、のあとにもう一つおっしゃいました。
「出そう。お前が出したいように」
砂時計の砂が落ちきりました。
わたくしは「十五分です」と言いました。言ってから明日も、とは聞きませんでした。聞かなくてもお父様は来ます。それはもう知っています。
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