ミーナの鍵
三日たってもエレノアとミーナのあいだの隙間は埋まらなかった。
朝エレノアの髪を編んでいたのは別の若い侍女で、編み方がきつすぎたのか、エレノアは食堂へ来るまでに二度こめかみに手をやった。ミーナは壁際でその手を見ていた。昼の休みに庭へ出る時はエレノアがミーナの三歩前を歩き、ミーナは三歩うしろを黙ってついていった。言いつけたわけでもないのに、二人ともその三歩を守っていた。
これはエレノアとミーナの話だ。父親が横から入れば、娘はミーナにではなく父親に向かって謝ることになる。俺は朝食の席で、編み目のきつい髪を見ないようにした。
*
四日目の夕方、娘の部屋の扉を叩くと、エレノアは机の前で待っていた。砂時計の隣には、十五分の一日目以来の話題の紙が一枚置いてあった。
「お父様。今日はお願いがあります」
俺が椅子に座るとエレノアは紙を見ながら言った。
「ミーナにお話があります。お父様もいてください。でも何も、言わないでください」
俺は紙を見た。一、ミーナ。二、お父様はいる。三、お父様はしゃべらない。そう書いてあった。
「分かった。いる。しゃべらない」
エレノアは頷いて砂時計を返し、扉のところへ行って廊下に向かって「ミーナ」と呼んだ。すぐに来たミーナは、椅子に座っている俺を見て少しだけ足を止めた。
「お呼びでございますか、お嬢様」
エレノアはスカートの裾をつまんでいつものきちんとした礼をし、頭を下げたまま言った。
「ミーナ」
声がそこで揺れた。
礼の形が崩れた。膝が伸び、頭が上がり、つまんでいた裾が指から落ちた。
「……ミーナがやったって思いました」
ミーナの手が前掛けの上で止まった。
「鍵を持ってたのはミーナだったから。だから、ミーナしか入れないって思いました。お父様にそう言いました。……思ったのはわたくしです。ごめんなさい」
ミーナは前掛けの上で手を組んだまましばらく立っていたが、やがて床に膝をついてエレノアと目の高さを合わせた。侍女が令嬢の前でする姿勢ではなかったが、本人は気にしていないように見えた。
「お嬢様。鍵を持っていたのは本当でございます。お嬢様はご覧になったことから考えただけです」
「でも、ミーナはやってないのに」
「はい。やっておりません」
ミーナはそこで一度口を閉じた。言葉を選んでいる顔だった。
「……あの朝書斎の戸口でお嬢様のお顔を見て、私を疑っておいでだと分かりました。少し悲しゅうございました。それは、本当です」
エレノアの唇がきゅっと結ばれた。
「でもお嬢様はご自分で、ご自分の言葉で言いに来てくださいました。ですからお許しします。お嬢様の分はこれでおしまいでございます」
エレノアの肩から少しだけ力が抜けた。
ミーナは膝をついたまま今度は俺のほうを見た。
「旦那様。お嬢様の前で私の分も申し上げてよろしいでしょうか」
俺は紙の三の行を見てから、黙って頷いた。
「茶会の日ドーラが手袋をはめた時、私もへんだと思いました。銀の茶器が出る前に手袋をする侍女はおりません。お嬢様と同じことを私も思ったんです」
手袋の時にミーナが一瞬眉を寄せたのを、俺は見ていながら意味が分からなかった。
「でも申し上げませんでした。あの日も、次の日旦那様に一人ずつ呼ばれた時も」
ミーナの声が低くなった。
「前に奥様付きのアンナさんという侍女がおりました。私に仕事を一から教えてくれた人です。奥様が亡くなって七日目に旦那様の書斎に呼ばれて、戻ってきた時には荷物をまとめておりました。紹介状もなしでございました。理由は誰にも言われませんでした」
この身体の前の持ち主のしたことで、俺は知らなかった。知らなかったと、ここで言うことはできなかった。
「それから旦那様に何か申し上げるのはやめようと決めました。申し上げて、もし外れていたら。外れていなくても旦那様のお気に召さなかったら。……次は私の番だと思いました。それで黙っていたら、今度はなぜ今まで黙っていたのかと聞かれるのが怖くなりました」
ミーナはエレノアの髪を見た。調べの日の昼に灰を払った場所だった。
「お嬢様がおひとりで灰の中を探しに行かれる前に、私が申し上げるべきでした。申し訳ございませんでした」
エレノアはしばらく黙っていた。
それからミーナがさっき言ったのと同じ言い方で、小さく言った。
「……ミーナのことも、ゆるします」
ミーナの目元が一瞬だけ崩れて、すぐに戻った。
十五分の砂は半分ほど落ちていた。
「もうしゃべってもいいか」
エレノアに聞くと、エレノアは紙を見て三の行を指でなぞってから「はい」と言った。
俺はミーナに向き直った。
アンナのことは、今ここで弁明できることではない。前の持ち主が何を考えて暇を出したのか、俺は知らないのだ。知らないことは調べるしかないし、その前に、これから先のことは今決められる。
「ミーナ。気づいたことを言ってくれても、罰することはしない。確かでなくてもいい。外れていてもいい。言うのが遅れても遅れたことは罰しない」
ミーナは膝をついたまま俺を見ていた。冷たい目ではなかった。かといって温かくもなく、何かを量っているような目だった。
「口で言うだけではたぶん足りないな」
俺は机の上のペンを借りてエレノアの紙の裏に書いた。
一つ。屋敷の者は気づいたことを、セバスか家政婦長に言ってよい。確かでなくてよい。
二つ。言ったことを理由に叱らない。暇も出さない。言うのが遅れたことも理由にしない。
三つ。言われたことで誰かを罰する前に、その本人から必ず話を聞く。
四つ。セバスは毎晩聞いたことを当主に伝える。当主はそれを読み、何をしたかを言った者に返す。
書いてから読み返した。四つ目を書いたのは、言っても何も返ってこない場所では誰もそのうち言わなくなるからだ。前の職場でも目安箱はそうやって埃をかぶっていった。
「清書して、署名して、印を押す。明日使用人ホールに貼る。読めない者にはセバスに読んでもらう」
ミーナは紙を見た。読み終えるまでずいぶん時間がかかった。
「……次は、申し上げます」
ミーナは言った。
「旦那様が書いたものを守ってくださるのを見てから、もっと申し上げます」
紙に書いただけのものを、この人はまだ信じられないのだろう。それでいい、と思った。
「それでいい。見ていてくれ。……それから、アンナのことはセバスに調べてもらう。暇を出した時の記録と、今どこにいるのか。分かったことは、分かった分だけ話す」
ミーナは目を見開き、少し遅れて「はい」と言った。
ミーナは立ち上がってエレノアの背に一度だけ手を添えた。エレノアは逃げなかった。それからミーナは礼をして部屋を出ていった。
扉が閉まる前にエレノアが言った。
「ミーナ。……明日の朝、髪を編んでください」
扉の向こうで少しの間があった。
「かしこまりました」
砂時計の砂は残りわずかだった。エレノアは紙の裏の四つの決まりを指で一つずつなぞってから、顔を上げた。
「お父様。お聞きしてもよろしいですか」
膝の上で手を重ね、背筋を伸ばして俺を見ていた。
「……ああ」
「お父様は、なぜわたくしの言うことを聞いたのですか」
「お前が、盗っていないと言ったからだ。それを信じた」
それは本当だった。けれど、それだけでは足りない気がした。足りないところを、俺はまだ一度も言葉にしたことがなかった。
「ほかにも、ある。そっちは、うまく言えるまで少し待ってくれ」
エレノアは瞬きをして「はい」と言った。
砂が落ちきった。エレノアは「十五分です」と言い、紙を裏返しにして決まりの書いてあるほうを上にして机に置いた。
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