鍵と帳面と留め金
扉を叩く音は三回だった。
夜明けから書斎にいて、昨夜並べた名前の紙を前に誰から聞くかの順番を三度書き直していた。扉を開けるとエレノアが立っていて、その半歩うしろに前掛けを粉で白くした女が布の包みを両手で持って控えていた。
エレノアの髪と指先は灰で白く、背中のボタンが一つ外れたままだった。
「お父様。見たことを申し上げに参りました」
俺は包みより先に膝をついて娘の手を取り、手のひらを返して指を一本ずつ見た。火ぶくれはなく、灰が付いているだけだ。そこまで確かめてからようやく息ができた。
「どこへ行っていた」
「厨房です。窓が白くなってから行きました。夜は、出ていません」
包みを持った女が一歩前へ出て、料理長からほどかずに旦那様へ渡すよう言いつかったこと、見つけたのはお嬢様で拾ったのは料理長であること、帳面にも書いてあることを告げた。俺は包みを受け取って机に置き、開けずに礼を言った。女は粉のついた手で前掛けを握り、頭を下げて出ていった。
「話してくれ。見た順に」
エレノアの話は昨夜よりずっと順番が整っていた。銀を出すと言いながら銀に触らなかった手袋のこと。先生に教わった籠のこと。籠になかったこと。厨房の女の子が言ったこと。料理長が灰をかきわけてくれたこと。
「わたくしは二歩はなれて見ていました。さわっていません。……それから、ドーラに会いました。左手の指に布を巻いていたので、どうしたのと聞きました。パンを切りました、と言いました」
ドーラが盗んだとは一度も言わなかった。
ドーラが手袋をはめるところは俺も見ていたのに、何も思わなかった。この子は決まりを知っていたから気づけたし、決まりから外れたあとでドーラが何をしたかまで順番に覚えていた。
「よく見ていた。よく、話してくれた」
言ってからもう一つ足した。
「次からは、何かを確かめに一人で行く前に、朝でも私の扉を三回叩いてくれ。寝ていたら起こしていい」
「……朝も、ですか」
「朝もだ。部屋を出るたびにではない。今朝のように、何かを確かめに行く時だけだ」
エレノアは少し考えてから「はい」と言った。
廊下を走ってくる足音がして、ミーナが戸口に現れた。息が切れ、前掛けの紐が片方ほどけていた。
「お嬢様が、お部屋にいらっしゃらなくて」
エレノアがミーナを見て、肩をかすかに固くした。ミーナはそれを見て、何も言わずに戸口で深く頭を下げた。
*
聞き取りには書斎の隣の小部屋を使った。窓が一つに卓が一つ、椅子が四脚ある。一人ずつ入ってもらい、セバスが書いてガレスが同席し、俺は聞く。決めたのはそれだけだった。
最初に物を見た。
ガレスはブローチを布ごと窓際の光に傾けた。留め金の針は受け金から外れて開いたままで、根元の茶色い点は日の下では乾いた血の色に見えた。包みを開いて焼け残りの指先を並べると、内側のしみと同じような色をしていた。
そこへセバスがドロステ家から戻り、夫人の返事を差し出した。控えの間でショールを替える時にブローチを外し、針は受け金に戻さず開いたまま小卓に置いた。外した時、針には何も付いていなかった。自分は指を刺していない。終わりに一行だけ足してあった。
――お調べの結果はわたくし自身の耳で伺いとう存じます。本日の午後お伺いいたします。
会うかどうかは夫人が決める、とセバスは言っていた。夫人は来ると決めた。
「夫人が外してから人形の中で見つかるまでのあいだに、誰かがこの針で指を刺したのかもしれん」
ガレスが布を卓に戻した。
「開いたまま置いてあったなら、慌てて掴めば刺さる。だが、この点が血かどうかも、針で付いたのかどうかも、まだ言えん。指の傷と、そいつの話と合わせてからだ」
ミーナは椅子を勧めても座らず、立ったまま話した。茶会の始まる前の十三時半ごろ、知らない客が大勢来る日はいつもそうするように寝室の廊下側の扉に鍵をかけ、鍵を前掛けの隠しに入れた。茶会のあいだも着替えの時も鍵はそこにあり、昨日部屋を改める時まで一度も誰にも渡していない。
セバスが書きながら二つ付け加えた。廊下側の合鍵は鍵箱から出ていないこと。寝室の窓には内から掛け金がかかっていて、ドロステ夫人の侍女もそれを見ていること。
ミーナは出ていく前にためらってから、勉強部屋の棚の古い書き取り帳が何冊か足りないように思う、いつからかは分からない、と言った。俺はそれを手帳の端に書いた。
セバスが鍵の帳面を開き、一行の上で指を止めた。
「リネン室の合鍵。借りた者、ドーラ。用向き、替えのナプキン。借りた時刻、十四時二十五分。返した時刻、十四時四十分」
名前の欄はドーラ本人の字だった。時刻の欄と確かめの印は、いつもならセバスが書く。昨日は茶会でセバスが手を離せず、代わりに帳面の番をしていた家政婦長の字と印だった。リネン室にはお嬢様の寝室へ通じる使用人用の扉があり、敷布を運ぶためのその扉は寝室の側から鍵がかからないのだとセバスは言った。
昨日のうちに書き留めた紙も出てきた。客の名と席を書いた余白に使用人の出入りが小さな字で並んでいて、そこに一行あった。ドロステ様が控えの間からお戻りになる少し前、ドーラは下げた茶碗を持ってサロンを出ている。配膳室への道は控えの間の前を通る。
厨房の者には俺のほうから出向いた。料理長は献立の帳面の今朝の行を読み上げ、玉杓子の娘は、ゆうべ九つの鐘の少し前にドーラが一人でかまどの前にしゃがんでいたと話した。
「籠に入れときゃ朝に燃やすのに、って思いました。でも言いませんでした。ドーラさんはあたしより先輩なので」
最後にドーラを呼んだ。
ドーラは布を巻いた左手を隠さずに小部屋へ入り、俺がセバスの紙の時刻を一つずつ読んで尋ねるたびに、落ち着いて答えた。
「指は配膳室でパンを切っていて切りました。お客様の前で血が出たら失礼なので手袋を。銀を出すと申し上げたのは、そう言えばはめていても咎められないと思いまして。手袋は血で汚れましたので、夜に自分で燃やしました。籠に入れて誰かが血を見たら騒ぎになると思いましたので。リネン室にはナプキンを取りに入っただけで、寝室の扉には触っておりません」
筋は通っているように聞こえた。
「その指を見せてくれるか」
ガレスが命じる口調でなく言うと、ドーラは少しのあいだ布の端を握っていたが、やがてほどいた。左手の人差し指の腹に小さな丸い穴があり、周りが赤く腫れていた。
「パン切りの、刃の先が刺さったんでございます」
「書いといてくれ。左の人差し指、腹に小さな丸い穴。周りが腫れてる。今朝この時刻で」
パン切りの刃の先で丸い穴が開くのかどうか、俺には分からなかったので、分からないまま紙に書いた。ドーラを下がらせてから厨房へ使いを出し、午後に屋敷のパン切りを一本持ってきてほしいと料理長に頼んだ。
*
昼前、書斎の机に紙を一枚広げた。
分かっていることだけを時刻の順に並べ、分からないところは空けておく。前の世界で障害が起きるたびにやっていたことだ。
十三時半ごろ(ミーナ)。寝室の廊下側の扉に鍵。鍵は前掛けに。
十四時を少し過ぎたころ(夫人の手紙)。夫人、控えの間でブローチを外し小卓へ。針は開いたまま。汚れはなし。
同じころ(セバス)。ドーラ、茶碗を下げてサロンを出る。控えの間の前を通る道。
夫人が戻ってほどなく(エレノア、俺)。ドーラ、手袋をはめる。銀の茶器は出ず。
十四時二十五分(鍵の帳面)。ドーラ、リネン室の合鍵を借りる。
その後(茶会にいた全員)。エレノア、茶をこぼしミーナと階下の衣装の間へ。
十四時四十分(鍵の帳面)。ドーラ、合鍵を返す。
十五時(サロンの置き時計)。夫人、紛失に気づく。
茶会の夜九つの鐘の少し前(厨房の娘)。ドーラ、かまどに何かをくべる。
翌朝六つの鐘のあと(料理長の帳面)。焼け残りが見つかる。
鍵はミーナが、帳面と出入りはセバスが、留め金はガレスが、灰は料理長と厨房の娘が、手袋はエレノアが出した。俺一人では一行も埋まらなかった表だった。
寝室に入る道は、廊下側の扉と窓とリネン室の扉の三つあった。窓には掛け金がかかり、廊下側の合鍵は鍵箱から出ていないから、廊下側から入れたのはミーナの鍵だけだ。そしてリネン室の扉からも入れた。
ミーナしか入れなかったのではなかった。
残っているのは衣装の間でのことで、それを知っているのはミーナのほかに一人しかいない。
エレノアは朝食のあと書斎の隅の椅子に戻ってきていた。顔は洗ってあったが、ミーナが髪を直しましょうと言ったのを断ったとかで、髪の灰は残っていた。俺は紙を持ってそばへ行き、表を一行ずつ読んで聞かせてから聞いた。
「着替えのあいだミーナはずっと一緒にいたか」
エレノアは膝の上で手を握ったりほどいたりしてから、小さな声で言った。
「……いました。うしろのボタンをとめてくれました。髪も、なおしてくれました」
言ってから自分の背中に手を回しかけた。今朝一つだけとめられなかったボタンのあたりで、手は途中で止まり、膝の上へ戻った。
俺がリネン室の行を指で示すと、エレノアはそこを見て、それからミーナの鍵の行を長いあいだ見ていた。
昼過ぎ、書斎を出ると廊下にミーナが控えていた。
エレノアは俺のうしろからミーナの前へ出て止まり、顔を上げかけて、上げられずに床を見た。
ミーナは黙って手を伸ばし、エレノアの髪に残っていた灰を指先でそっと払った。エレノアの肩がびくりと揺れた。それでも逃げずに、払われるあいだじっと床を見ていた。
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