かまどの灰
ねむれませんでした。
お人形はわたくしのおなかの上にいます。背中がひらいたままです。中のわたが少し出ています。
お茶会のあと知らない侍女がここに指を入れました。ブローチを出すためです。わたくしはそれを見ていました。見ているしか、できませんでした。
それからセバスとその侍女が、お人形の背中を見て紙に何か書きました。書きおわったら棚に戻してくれました。お嬢様のお持ち物ですから、とセバスは言いました。だからわたくしが持ってきても、いいのだと思います。
わたくしはひらいたところを何回も指でなぞりました。
くやしい、と思いました。
こわい、よりも、くやしいのほうが大きかったです。だれかが、わたくしのお人形をあけてそこにブローチを入れました。わたくしのお人形をです。
お父様は聞く、とおっしゃいました。みんなに何を見たのか聞くそうです。
わたくしは何を見たでしょう。
お茶をこぼしたこと。着替えたこと。ミーナが前掛けからお部屋の鍵を出したこと。
それから。
わたくしは天井を見ながらお茶会をはじめから数えました。お客様は九人。お茶は九人に二回ずつと、三回め。お菓子は薔薇の砂糖漬け。すみれではありません。
ドーラ。
ドーラはお茶会のはじめは手袋をしていませんでした。わたくしはそれを見ました。決まりどおりです。銀のお茶道具はあとのお茶まで出しません。だから手袋はいりません。
ドロステ様がショールを替えに行って戻っていらしたあとで、ドーラは手袋をはめました。
「銀の茶器をお出しいたします」と言いました。
でも銀は出てきませんでした。ドーラは手袋のまま、「替えのナプキンを」と言ってお部屋を出ていきました。ナプキンは布です。銀ではありません。
わたくしがお茶をこぼして、着替えて、戻ってきた時も銀はまだ出ていませんでした。ドーラは手袋をしたままでした。
侍女が手袋をするのは銀の茶器を扱う時だけです。
手袋をしたのに銀をさわらない侍女は、何をさわったのでしょう。
へんなの、と思いました。
あの手袋は今どこにあるのでしょう。
使った手袋は洗わないで、厨房の籠に入れます。朝のかまどで燃やします。銀の曇りが移るからです。クラウディア先生が茶会のおけいこの時にそうおっしゃいました。女主人はそこまで知っておくものです、と。覚えたことはわすれません。
朝の火で燃やすなら、朝の火の前に行けばまだ籠の中にあります。
ミーナに言おうと思いました。でも言いませんでした。
お部屋の鍵はミーナが持っていました。だからミーナしか入れません。
ミーナがそんなことをするとは思いたくありません。でも鍵はミーナが持っていました。
わたくしはひとりで行くことにしました。
夜は部屋から出ません。公爵令嬢ですから。
だから窓が白くなるまで待ちました。お人形を棚に戻して、ひらいたところが見えないように壁のほうへ向けました。それから自分で着替えました。ボタンはうしろの一つだけ、とめられませんでした。
ミーナのお部屋の前をそっと通りました。寝息が聞こえたので息を止めて通りすぎました。
朝の廊下はしんとしていました。昨日お客様がいらしたサロンの扉はしまっていて、お茶の匂いももうしませんでした。
ドーラがやった、と思ったのではありません。
ドーラのことはよくわかりません。ただ手袋がへんだっただけです。
昨日お父様が大きな声を出した時はこわかったです。お部屋じゅうが、しんとしました。
でも夜に来たお父様は、何があったか教えてくれ、とおっしゃいました。一人ずつ聞く、とも。
お父様に聞かれたら、ちゃんと答えたいです。だから手袋がどこへ行ったのか自分の目で見に行きます。
*
厨房にはもう火が入っていました。
かまどの上の大きなおなべから湯気が出ていました。わたくしが入っていくと、パンをこねていた女の人の手から粉がぱらぱらと落ちました。
奥で料理長がふりかえりました。太った男の人です。お父様がおかゆをつくった日に厨房でこしをぬかした、とミーナが言っていた人です。
「お、お嬢様。こんなに朝早くどうなすって」
わたくしは背筋をのばして、お客様の前と同じようにまっすぐ立ちました。
「よごれた手袋の籠を見せなさい」
料理長がまばたきをしました。パンの女の人も、かまどの前の男の人も、玉杓子を持った女の子も、わたくしを見ていました。
まちがえた、と思いました。
どこをまちがえたのかはわかりませんでした。でもみんなのお顔が、お茶会でブローチが出てきた時のお客様のお顔にすこし似ていました。
お父様は料理長に何と言ったでしょう。
鍋を一つと、かまどを一つ、借りたい。そうおっしゃったと、あとでミーナが言っていました。
「……見せて、ください。おねがいします」
小さい声になりました。
料理長はしばらくわたくしを見ていましたが、やがて戸口のわきの籠を持ってきて、わたくしの前で中を一枚ずつ出してくれました。ナプキン。ふきん。お茶のしみのついた布。
手袋はありませんでした。
「手袋ならきのうは一つも入っておりませんな」
「ドーラさんなら」
玉杓子の女の子が言いました。言ってから自分の口を押さえました。
「……ゆうべ遅く火を落とす前に、自分でかまどに何かくべてました。籠に入れときゃ朝に燃やすのにって思ったんです」
料理長がむずかしいお顔をしました。
「ゆうべの灰なら今朝火を入れる前に、奥の口へ寄せてございます。まだ捨てちゃおりません」
料理長はかまどの横の火かき棒をとりました。
「熱うございますよ。お嬢様はそこから前へお出になりませんように。見るだけになさいまし」
料理長はわたくしを炉から二歩はなれたところに立たせて、灰をかきわけてくれました。
白い灰と、黒い灰がありました。まきの燃えのこりと、野菜のくずの黒いのと。
わたくしは言われたところから動かないで目だけでさがしました。
「……そこ」
灰の中に白いものがのぞいていました。わたくしが指でさすと料理長が火かき棒の先でそれを引っぱり出しました。灰がふわっと舞ってわたくしの髪にかかりました。
手袋の指でした。
指の先のところだけが焼けのこっていました。白い布のふちが茶色くこげています。
料理長はそれを火ばさみでつまんで、きれいな布の上に置きました。それから壁の時計を見て、献立の帳面のすみに何か書きました。
「朝の六つの鐘のあと、西のかまどの奥の口、ゆうべの灰の中。見つけたのはお嬢様。拾ったのはわたしでございます」
書いたことを声に出して読んでくれました。
指の内がわに茶色いしみがありました。かわいて、かたくなっていました。
厨房の人たちがうしろからそっとのぞきこんでいました。だれかが小さく「まあ」と言いました。
ころんでひざをすりむいた時、包帯にこういう色がつきます。
「……血のように、見えますな」
料理長が低い声で言いました。
「確かなことは旦那様方がお調べになります」
うしろで戸が開く音がしました。
水桶を持って入ってきたのはドーラでした。
ドーラはわたくしを見て止まり、それから料理長の手もとの白い布を見ました。水桶を床に置きました。
左手の指に白い布が巻いてありました。
わたくしはドーラを見ました。
こわかったです。足がうしろへ下がりそうになりました。でも下がりませんでした。お人形の背中のことを考えました。
「その指、どうしたの」
「パンを切りました」
ドーラはふつうの声で言いました。いつものお辞儀をして、巻いた布の手を前で重ねました。
それだけでした。
パンを切ったのかもしれません。わたくしには、わかりません。わたくしにわかるのは、ドーラが手袋をしていたのに銀をさわらなかったことだけです。
料理長は焼けのこりを布ごと包んでひもを結びました。それからパンの女の人を呼んで包みをその人の両手にのせました。
「お前さんが持ってお嬢様と旦那様のところへ。ほどかずに、そのまま旦那様にお渡ししな。何を見たかはお嬢様がお話しになる」
それから、ふりかえらずに言いました。
「ドーラ。水はそこへ置いときな。今朝はここで、かまどの番を頼む」
*
わたくしは走りませんでした。
公爵令嬢は廊下を走りません。
でも、いつもよりずっと早く歩きました。
となりをパンの女の人が包みを持って歩いていました。わたくしの髪には灰がついていて、うしろのボタンは一つ、とまっていないままでした。
書斎の扉の前で止まりました。
扉をたたこうとして自分の髪に手をやりました。指が灰で白くなりました。
お父様は聞く、とおっしゃいました。
だから、わたくしも見たことを言います。
わたくしは扉を三回たたきました。
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