何があったか、教えてくれないか
ガレスは日が落ちる前に来た。
騎士団の上着のまま書斎に入ってくるなり扉を後ろ手に閉めた。この前のように練兵場へ引っぱっていこうとはしなかった。
「セバスから聞いた。お前、客の前で怒鳴ったんだってな」
「怒鳴った。ドロステ夫人は誰も責めていなかったのに、許さないと言った。あれであの部屋の誰も口をきけなくなった」
先に言うとガレスは少し眉を上げ、椅子を引いて座った。
「分かってるなら話が早い。で、どうする」
分かっているのは自分が何を壊したかまでだった。壊したあとに何をすればいいのかは、この世界の作法を知らない俺には分からない。
「まずドロステ夫人だ。どう詫びればいい」
セバスが答えた。いつもと変わらない、平らな声だった。
「今夜のうちに旦那様ご自身のお手でお手紙を。お言葉の非礼をお詫びし、ブローチは必ず調べてお返しすると。明日の午前わたくしがお届けにあがります。お会いになるのは夫人がお望みになってからでございます」
「公爵が出向いて頭を下げるのではだめか」
「閣下がお屋敷の前に馬車をお着けになれば、夫人はお断りになれません。お詫びのつもりがもう一度お声を重ねることになります」
そういうものか、と思った。謝る側が、相手の断る自由まで取り上げてはいけないらしい。
「それと噂だ」
ガレスが言った。
「ブラント夫人がいただろう。あの方のサロンは王都でいちばん話の回りが早い。明日の昼には公爵令嬢の部屋から盗まれたブローチが出た、公爵は客を怒鳴りつけた、って話がどこの屋敷にも届く。それは止められん。止められるのは調べがいいかげんだったって話のほうだけだ」
「どう調べる」
「一人ずつだ。茶会で動いた者を全員集めて問いただせば、今日のお前の声がまだ耳に残ってる連中は何も言わん。言わなかった者が一番怪しく見える。それじゃ調べにならん」
セバスが今日の午後に自分がしたことを短く話した。客が帰る前に控えの間に鍵をかけさせたこと。茶会で働いた使用人には明日まで屋敷の外へ出ないよう言い渡したこと。客の名と席を、覚えているうちに書き留めたこと。
俺が玄関で突っ立っている間に全部終わっていた。
「人形は」
「お客様がお帰りになる前に、ドロステ様の侍女どのと二人で改めて書き留めました」
セバスは一枚の紙を机に置いた。
――背の縫い目、指二本分開く。糸の端は切れ口がそろい、ほつれではない。詰め物に濡れ・汚れなし。外側の布に新しい傷なし。
その下に侍女とセバスの名が並んでいた。
「書き留めたあとはお嬢様のお持ち物ですので、棚へお戻ししました。縫い目には誰も手を入れておりません」
ガレスがブローチの包みを開いた。古風な金のブローチで、裏の留め金は針が受け金から外れて開いたままになっている。ガレスは指を触れずに布ごと傾けて灯りにかざした。
「針の根元に何か付いてる。茶色い点だ。灯りの下じゃ色がはっきりしない。明日、日の光でもう一度見る。……セバス、ドロステ夫人への手紙に一行足してくれ。外した時にご自分で指を刺さなかったか、その時針に何か付いていなかったか」
「かしこまりました」
俺はペンを取った。夫人への手紙はヘルマンにもセバスにも書かせず自分で書いた。字は身体のものだったが、何を詫びるかは俺が選んだ。
書き終えてから明日誰に何を聞くかを紙に並べた。ミーナ。ドーラ。給仕に出た者。控えの間の近くにいた者。一人ずつ別の部屋で。
*
娘の部屋の前にミーナが立っていた。
扉の脇の壁に背をつけ両手を前掛けの上で組んでいたが、俺を見ると壁から背を離した。昼間のことを何か言われると思ったが、ミーナは低い声でこう言っただけだった。
「お嬢様がお一人にしてほしいとおっしゃいました」
「……そうか」
「お夕食も召し上がっておりません」
「クラウディアは帰る前に娘に何か言っていったか」
ミーナは短く首を横に振った。
「先生はお嬢様には何も。……お嬢様はお部屋に戻られてから、ずっとご自分で隅にお立ちです。お座りくださいと二度申し上げましたがお座りになりません。スープもお下げになりました。半刻ごとに扉を開けて、お顔を見ております」
ミーナは前掛けの上で組んだ手に力を入れた。
「旦那様をお呼びしに行こうと思っていたところでした」
それだけ言ってミーナは脇へ退いた。
扉を叩いても返事はなかった。もう一度叩いてからそっと開けた。
エレノアは部屋の隅に立っていた。
昼間の黄色い服のまま壁のほうを向き、背筋を伸ばして両手を前で重ねている。誰に言われたのでもなく、この子は自分でここに立っていた。
棚の上の人形は背中の縫い目が開いたまま壁にもたれていた。
俺は娘の隣まで歩いていった。何を言えばいいのか分からないまま壁に背をつけ、膝を立てて床に座った。廊下で一晩過ごした夜と同じ格好だった。
エレノアが横目で俺を見た。公爵が床に座っている、という顔をしたが、隅に立ったまま動かなかった。
「……昼間は、悪かった」
まずそれを言った。
「お前が盗っていないと言ったのは聞いた。でもそのあと何も聞かずに大声を出した」
エレノアは何も言わなかった。少し間を置いて俺は言った。
「何があったか、教えてくれないか」
エレノアは壁を見たままだった。窓の外でどこかの犬が一度だけ吠えた。
「……お茶を、こぼしました」
小さな声だった。
「お袖にかかりました。ミーナと下のお部屋に着替えに行きました。黄色いお洋服にしました。戻りました。……お人形の服がほどけてました。ほどけてるのは、知りませんでした。朝はほどけてませんでした」
話は戻ったところでぷつりと途切れた。着替えて戻った話のすぐあとに人形の話が来て、そのあいだのことは一言もなかった。俺は口を挟まずに聞いていた。
「知りません。わたくしは、知りません」
エレノアは息を吸ってさっきよりもっと小さな声で言った。
「お部屋の鍵はミーナが持ってたの」
この子の口からこんなふうに崩れた言い方を聞くのは初めてだった。
「だからミーナしか、入れないの」
俺はすぐには答えなかった。
鍵を持っていた人しか入れない。五歳の理屈としてはまっすぐだった。まっすぐなぶん、一番近くにいる人のところへ行ってしまう。
ミーナは今、扉の外に立っている。この子が熱を出した夜、俺を部屋から追い出して朝まで看病した人だ。
違う、と言うのは簡単だった。俺はミーナが盗ったとは思っていない。それでも鍵のことも茶会のあいだのことも、まだミーナに何も聞いていなかった。昼間聞く前に怒鳴って場を決めてしまったのと同じことを、今度はミーナのためにやるわけにはいかなかった。
「……そうか」
前の世界の父の口癖がまた出た。それで終わらせないように俺は続けた。
「鍵をミーナが持っていたのはお前が見たことだな」
「……はい。前掛けから出しました」
「ミーナしか入れない、というのはお前が考えたことだ」
エレノアの眉が少し寄った。叱られたのかどうか、確かめる顔だった。
「考えたことも教えてくれてよかった。それが本当かどうかはまだ誰も知らない。明日一人ずつ聞く。ミーナにも、セバスにも、お茶会で働いていた者にも。何を見たのか」
エレノアがこちらを向いた。
壁から身体を離して初めてまっすぐに俺を見た。目が少し赤かったが、泣いてはいなかった。
「……お父様は、聞くのですか」
手を挙げずにこの子は聞いた。
「聞く」
俺はそれだけ答えた。それ以上の言葉を足すとまた何かを間違えそうだった。
エレノアはしばらく俺を見ていたが、やがて隅に立っていた足を一歩だけ部屋の真ん中のほうへ動かした。
俺は立ち上がって扉へ向かった。振り返るとエレノアは棚の前に立って背中の開いた人形を見上げていた。手を伸ばしかけて止め、もう一度伸ばした。
扉を閉める前に見えたのはそこまでだった。
廊下ではミーナがさっきと同じ場所に立っていた。
「何か軽いものを。食べられそうなら」
ミーナは部屋の中で何があったのかを確かめるような目で俺の顔を見た。何かを察したのかどうか、俺には分からなかった。
「……お持ちします」
ミーナは厨房のほうへ歩いていった。その足音が遠ざかるのを聞きながら、俺は明日誰に何を聞くのかを頭の中で一つずつ数えていた。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




