疑われる側の朝
(エレノア)
夜半の鐘で医務室の先生に寮へ帰された。
帰りなさいと言われた時、わたくしはまだここにいたいと言った。先生は首を振らなかった。代わりに、あなたが寝ないと、明日あなたの話を聞く人が困ります、と言った。わたくしはそれで立った。
寮の扉の前にはカイル様が立っていた。わたくしが通る時に三歩下がり、扉が閉まると外でまた元の場所へ戻る足音がした。
眠ったのかどうか分からない。窓が白くなりはじめたころ、寮監の先生が部屋の扉を叩いた。
「医務室からです。息は続いていて、夜明け前に少し深くなったそうです。目はまだ覚めていません」
「ありがとうございます」
寮監の先生は扉を閉めかけて、もう一度開けた。
「食堂へは行けますか」
「行きます」
行かなければ、行かなかったことが一つ増える。
着替える前に、胸元にしまったままだった手紙を出した。小さな印の封はまだ切っていなかった。リリアさんが目を覚まさないうちに、これを開けて嬉しくなってしまうのが怖かった。嬉しくないことが書いてあったら、それを受け止める場所も今のわたくしにはなかった。
手紙は机の端の木の小鳥の下に置いた。
*
食堂はいつもより静かだった。
わたくしが扉を入ると、入口に近い卓の話し声が一つ止まった。止まった声は、わたくしが通り過ぎると、また始まった。いつもの席の隣が二つ空いていた。昨日まで座っていた方たちは窓際の卓に移っていて、こちらを見なかった。
何が話されているのかは知らない。わたくしは見たことだけを数えた。止まった声が一つ。空いた席が二つ。こちらを見ない方が四人。
パンを取って席に着くと、向かいにヘルミーネ様が座った。
「おはよう」
「おはようございます。……昨夜は、ありがとうございました」
「わたしは何もしてないわ。手を引かれて寮へ連れて帰られただけ」
ヘルミーネ様の前には湯気の立つ杯が一つあった。ヘルミーネ様はその杯を両手で包んでいたが、口へは運ばなかった。
「飲めないの」
わたくしが杯を見ているのに気づいて、ヘルミーネ様が言った。
「あなたのせいだと思ってるんじゃないのよ。八年前も思わなかった。手が勝手にこうなるの。持つまではできるのに、上げようとすると止まる」
ヘルミーネ様は杯を卓に戻した。指の先が白くなっていた。
「リリアさんが倒れた時、わたし、八つの春の芝を見てたの。倒れた椅子の脚と、生垣の騎士の頬。あの時わたしを横に向けてくれたのは、あなたのお父様だったってあとで聞いたわ。その手が冷たかったことまで、急に思い出したの」
何と言えばいいのか分からなかった。八年前に疑われたのはわたくしで、倒れたのはこの方だった。今度もわたくしの卓で、わたくしの缶だった。
「ヘルミーネ様。今日は、わたくしの隣に座らないほうが」
「座るわよ」
ヘルミーネ様はパンを千切った。
「隣じゃなくて向かいだもの。……ここがいいの。ここなら、あなたが食べてないのも見えるし、わたしが飲めてないのもあなたに見えるでしょう」
千切ったパンは小さすぎて、ヘルミーネ様は結局それも食べなかった。わたくしも食べなかった。二人でしばらく杯とパンを前にして座っていた。
ヘルミーネ様は八年前のことを、わたくしの前で一度も話したことがなかった。話さなかったのは忘れていたからではなかったのだと、今朝になって分かった。
*
父は面会室で待っていた。
昨日と同じ黒い上着で、髭は剃ってあった。客舎で眠らなかった顔だった。わたくしが入ると父は立ち上がり、何か言いかけてから椅子を示した。
「お話しすることがあります。順に申し上げます」
わたくしは座って帳面を出した。夜のうちに書いておいた頁だ。
「缶のことです。ミーナが屋敷で詰めて、蓋に紙を巻いて封をしました。紙の字はミーナの字です。茶会の前の日の昼にミーナが寮まで届けてくれました。受け取ったのは寮監の先生のお部屋で、先生が帳面に付けました」
父は黙って聞いていた。
「それから、わたくしの部屋の鍵のかかる戸棚に入れました。鍵はわたくししか持っていません。茶会の朝に出して、自分で広間へ運びました。封は卓でわたくしが切りました。リリアさんも見ていました」
「それで」
「給仕の方に渡しました。給仕の方は缶を湯沸かしの台へ持っていきました。台は卓から二十歩ほどで、人の背の向こうでした。缶がわたくしの目を離れていたのは、お湯を注ぐあいだです。缶はポットと一緒に卓へ戻ってきました」
わたくしは頁をめくった。
「杯のことです。杯は給仕の方が並べました。わたくしは選んでいません。リリアさんの杯だけ取っ手の太い杯で、手袋のお方にはこちらを、と給仕の方が言って置きました。お茶は同じポットから、わたくしが五つの杯に注ぎました」
ここから先は書くのに時間がかかった行だった。
「わたくしは自分の杯に口をつけていません。朝に受け取った手紙のことを考えていたからです。飲まなかったことがどう見えるかは分かっています。それも調べの方にそのまま申します」
父の左手が膝の上で一度握られて開いた。開いたあと、指が少し遅れて伸びた。昨夜もそうだった。
わたくしは見たが、聞かなかった。聞けば父は答える。答えられる分だけ答えて、答えられない分の顔をする。今はその顔をさせる時ではなかった。
「以上です」
父はしばらく帳面のわたくしの字を見ていた。
「よく書いた」
「書いただけです」
「書いておくと、あとで自分が助かる」
父はそう言ってから少し黙った。
「医務室の隣で分かったことがいくつかある。まだお前には言えない。言っていいかどうかを調べの方と決めてからにする」
「はい」
言えないと言われるほうが、言われないよりずっと楽だった。
「もう一つあります」
わたくしは胸元に手をやった。昨日の朝の二通のうち、開けたほうの手紙だ。
「殿下からお知らせがありました。差出人のない紙が王太子府の門の箱に入っていて、わたくしの名に関わることが書いてあったそうです。殿下は燃やさずに封をして、王妃様付きの調査官の方にお渡しになったと。何が書いてあったかは調査官の方から聞くようにと」
父の眉が少し動いた。
「いつだ」
「お手紙の日付は茶会の三日前です」
「中身は」
「書いてありませんでした。殿下は、なさったことだけを書いておられました」
父は目を閉じて、それから開けた。
「分かった。それも調べの方に話す」
父は立ち上がりかけて、もう一度座った。
「エレノア。今日は屋敷へ帰らなくていいのか」
「昨夜お答えしました」
「そうだったな」
父は今度こそ立った。扉の前で振り向いて、一曲のお返事は、と言いかけてやめた。わたくしの顔を見て、何でもないと言って出ていった。
*
医務室の前で先生に止められた。
「今日は会えません」
先生は扉の前に立ったまま言った。
「宮廷医の先生が、静かにと決めていかれました。目を覚ましても、しばらくは人の声が疲れるはずです。中にいるのはご両親だけです」
「顔を見るだけでも、いけませんか」
「いけません」
先生ははっきり言ってから、少しだけ声を落とした。
「目を覚まして話せるようになったら、誰に会いたいかを本人に聞きます。あなたの名前が出たら、わたしが呼びに行きます」
「分かりました」
わたくしは帳面から紙を一枚切った。名前の行だけ書いてペンを止め、少し迷ってから次の行を足した。
――エレノアが来ました。
――パンの干し葡萄は、まだ食べていません。
「読める時で構いません。目を覚ましてから渡していただけますか」
先生は紙を受け取り、畳まずに胸のかくしへ入れた。
*
寮へ戻ると、玄関の机の前で門番が寮監の先生に封筒を一通渡しているところだった。
「今朝、門の手紙の箱に。差出人がありませんので、警備の長様に見せてからお持ちしました」
先生は受け取った封筒を表に返し、裏に返し、もう一度表に返した。白い封筒で、宛名はリリア・アーヴェル様とだけあった。裏には何も書いていなかった。
先生がそこでわたくしに気づいた。封筒を伏せかけて、途中で手を止めた。もう見えてしまったものを隠しても仕方がないという手だった。
「あなた宛てではありません」
「はい」
「学院長様にお預けします。開けるかどうかは、アーヴェルさんのご両親にお聞きしてからです」
先生はそれだけ言うと、門番に何か短く言いつけ、封筒を持って廊下の奥へ歩いていった。
わたくしは宛名の字をもう見ないようにした。
先生の背中が角を曲がるのを見ていた。部屋の机の小鳥の下にある、まだ開けていない手紙のことを思った。
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