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【1万PV突破】悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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同じ痺れ

 リリアが膝の上で左手を握っては開くのを、俺は後ろの席から見ていた。三度目に開いた時、指が伸びきらずに半分で止まった。

 見下ろすと俺の左手も膝の上で同じ形をしていた。今日は痺れていないのに、指は霜の朝と同じ形で止まっていた。


 娘が立ち上がるより先に俺は立っていて、保護者の列を抜けながらストーブの脇の先生に言っていた。


「左の指先からです。次は舌と唇、そのあと息が浅くなって気を失う。侍医が昔診た人の記録に、そうあります。私も倒れる前に、左の指先が痺れていました」


 先生は何も聞き返さずに鞄を掴んだ。

 先生が床に膝をついてからのことを、俺は背中越しに聞いていた。娘の数える声と、先生の短い指図と、椅子の脚が床をこする音だ。俺は卓を見た。五つの杯と、ポットと、焼き栗の袋と、干し林檎の糸と、割った輪のパンと、蓋の開いた茶の缶があった。


「この卓の物に、誰も手を触れるな。杯もポットもそのままに」


 声が広間に響いた。ヘルミーネ嬢が杯を持ったまま固まっていて、北の男爵家の娘がその手から杯を取って卓に戻した。ヘルミーネ嬢の唇から色が引いていた。八年前の春、王妃の茶会で菓子を口に入れて倒れたのはこの子だった。

 湯沸かしの台の前に灰色の前掛けが三つ残っていた。娘の卓を受け持っていた頬の細い若い男の顔は、その中になかった。


「カイル。この卓の給仕を探せ。門に言って、灰色の前掛けの者を外に出すな」

「はっ」


 カイルが扉から走り出た。三歩の決まりはその時だけ破られた。

 学院長が人を掻き分けてきて、宮廷医を呼びに馬を出せ、と言った。特待生の手当は国の費えだ。俺は家の者を一人呼んで、屋敷の侍医を書付ごと連れてこい、と言った。初雪の晩の翌朝に頼んで書き出してもらった紙で、俺は十日前に読んでいた。


*


 リリアは医務室の寝台で浅い息を続けていた。


 灯りはもう消えていた。消えたのは医務室へ運ぶ途中だった。毒の回りがそれまで少し遅くなっていたのかもしれない、と先生は言った。かもしれない、と二度言った。

 娘は寝台の脇の椅子に座ることを許されて、リリアの左手を両手で包んでいた。数はもう数えていなかった。リリアの胸が上がって下がるのを娘は目で数えていた。


 日が落ちてから宮廷医が着いた。王宮にはおらず、使いは西の坂の上の往診先まで追いかけたのだという。坂は朝からの雪で馬が登れず、使いは途中から歩いた。

 外套の雪を払う間もなくリリアの手首を取ったのは白い髭の小柄な老人だった。八年前の春、薔薇園の芝に膝をついた老人だった。宮廷医は先生からどんな手当てをどの順にしたかを聞いた。聞き終えると、それでいいと言った。


「その場にあなたがいて、すぐ横に向けて息を見たのが何よりでした。今の手当ては、それしかありません。横に向けたまま温めて、息を見ていてください。飲ませたり吐かせたりはしない」


 しばらくしてアーヴェル夫妻が来た。

 店を閉めて荷車で来たのだという。父親は粉の付いた前掛けをしたままで、母親は寝台の脇に膝をついてリリアの手袋の手を握った。娘は椅子を立って母親に譲り、壁際へ下がった。

 父親は俺を見て何か言おうとした。俺は先に頭を下げた。下げたまま何を言えばいいのか分からなかった。


「……パンを、ありがとうございました。二つ入っていたと、娘が」


 頭を上げると、父親の顔が少し歪んでいた。それから黙って一度だけ頷いて、寝台のほうを向いた。


*


 医務室の隣の小部屋に卓の物が並べてあった。


 学院長と警備の長が卓から運んで、一つずつ札を付けてあった。杯は五つ。四つは学院の白い杯で、一つは取っ手の太い丸い杯だった。


「これは学院の物ではありません。学院の杯は白い細い取っ手の物だけで、今朝、卓ごとに数えて出しました」


 学院長はそう言って盆を一つ卓の端に置いた。


「湯沸かしの台の下に、白い杯が一つ伏せてありました。数を合わせると、この卓の分です」


 杯は数えさせた。持ち寄りの物は帳面に付けさせた。給仕の名は口入れの帳面と照らさせた。杯を一つ、前掛けのかくしから出されることは考えなかった。


 宮廷医は杯を一つずつ灯りにかざした。どの杯の底にも冷めた茶が少し残っていた。太い杯だけ、茶の面が当たっていた縁の内側に白い細い輪が付いていた。蝋を薄く垂らして固めたような輪だった。ほかの四つの杯にもポットの内側にも輪はなかった。

 宮廷医は銀の針を輪に当ててから灯りにかざした。針は白いままだった。


「銀に出ないのは、毒でないという意味ではございません。この根を外す理由にならない、というだけです」


 宮廷医は鞄から古い紙束を出して一枚をめくった。


「北の高い山にしか咲かない白い花の根だと、私の師の書付にあります。味も匂いもない。熱いうちは溶けて、冷めると縁に浮く。それから、もう一つ」


 小さな瓶から酢を一滴、匙の先で輪に落とした。輪の縁がじわりと薄紅に変わった。


「師の書付では、この根は酢で紅くなる。確かめられるのは、ここまでです」


 それから茶の缶を開けた。宮廷医は白い紙を三枚並べ、缶のいちばん上の葉を匙でそっとすくって一枚目に移した。そのあとで中ほどを二枚目に、底を三枚目に広げた。一枚目の葉に細かい白い粒がいくつか付いていた。二枚目にも三枚目にもなかった。

 宮廷医は粒だけを針の先で別の紙へ寄せて酢を落とした。粒は薄紅になった。

 最後にポットの茶殻を紙に空けた。白い粒はどこにもなく、酢を落としても色は変わらなかった。


「ポットに入れた葉と、缶に残った上の層が、同じ時に同じだったとは限りません」


 宮廷医はそれだけ言った。学院長は缶の蓋の紙を見ていた。ミーナの字で冬の茶とあった。

 俺は缶から目を離せなかった。缶はうちの物で、うちの茶で、注いだのは娘だった。


 侍医は宮廷医より少し遅れて着いた。写しが家の書庫の奥にしまってあったのだという。

 侍医は宮廷医に頭を下げてから革の書付入れを卓に置いた。


「三つございます」


 一枚目は十年前の春の診療の帳面だった。閣下は夜に書斎で倒れられ、夜更けにセバス殿が見回りで見つけて侍医を呼んだ。呼ばれた時にはもう意識がなく、息が浅く、唇の色が悪かった。熱が三日続き、目覚めたあとも左手の痺れが残った。

 二枚目は初雪の晩のあとで侍医が書き足した紙だった。倒れる前のひと月ほど、閣下は朝に左の指先が痺れるとこぼしておられた、とあった。前の持ち主が自分の記録に、疲れだろうと一行だけ書いていた痺れだ。

 三枚目は古い紙で、侍医が昔一度だけ診た北の砦の副官の記録だった。左の指先から痺れ、半刻ほどで舌と唇が利かなくなり、息が浅くなって気を失った。助かったが左手は戻らなかった。


「閣下の時の物は何も残っておりません。茶碗は翌朝には洗われておりました」


 侍医が言うと、宮廷医は三枚の紙を並べて、長いあいだ黙っていた。


「この子と副官の方は、手足の先から来る順が同じです。閣下のほうは、倒れる前の指先と倒れてからの息、それにあとに残った左手。そのあいだのことは、どなたにも分かりません」


 宮廷医は一枚ずつ指で叩いた。


「この杯の輪と缶の粒は、師の書付の根と見てよいと存じます。閣下の件は、記録と様子が合うので同じ類と見る。そこまででございます。同じ一つの瓶から出たものかどうかは申せません。誰の手かは、なおさら」


 宮廷医はそう言って俺の左手を見た。


「閣下の手も、今も時々痺れますか」

「時々」

「では、この子もそうなるかもしれません」


*


 医務室の廊下に娘が立っていた。


 ヘルミーネ嬢は北の男爵家の娘に付き添われて寮へ戻ったと、娘が言った。カイルは門から戻って、前掛けの若い男は厨房の裏の通用口から出たと報告していた。通用口の帳面には、昼過ぎに荷を運び出した者の行が一つあって、名の欄は今日雇われた給仕の名だった。出たのは広間で人が叫ぶ少し前の刻だった。

 その名は学院の名簿にも口入れの帳面にもあった。十年前に屋敷から消えた従僕のことを思い出した。名簿にあった名が、名簿の外では誰の名でもなかった。


「今夜、屋敷へ帰るか」


 俺は娘に聞いた。帰れと言いかけたのを喉で止めて、聞く形に直した。


「帰りたいか」

「ここにいたいです」


 娘はすぐに答えた。


「リリアさんが目を覚ました時に、近くにいたいのです。それに、明日、調べの方が来たら、缶のことはわたくしが自分で話したいです。缶をいつ屋敷から持ってきて、どこに置いて、いつ給仕の方に渡したのか」


 娘は自分の手を見下ろした。手のひらの桃色のところを反対の手の指でなぞった。


「今夜帰ったら、わたくしが逃げたと言う方がいます。それでも帰ったほうがいいと、お父様がお考えなら」

「いや」


 俺は首を振った。


「ここにいろ。私は客舎に泊まる。カイルを寮の扉に付ける」

「はい」


 娘は医務室の扉のほうを振り返った。


「お父様は、どうしてお分かりになったのですか。指の先からだと」


 答えはあった。言える分だけ言った。


「私が倒れる前も、指の先からだった」


 娘はしばらく俺の顔を見ていた。それから俺の左手に目を落とした。何か言うかと思ったが、何も聞かずに医務室の扉を開けて中へ戻っていった。


*


 客舎の部屋は暖炉の火が小さかった。


 手帳を開いて、日本語で三つの列を書きかけた。リリアと、副官と、俺。右の列のあいだの空白を知っているのは、夜の書斎の床に一人で倒れていたこの身体の前の持ち主だけだ。

 熱病だと思っていたものが、その男を殺した。それは俺だけが知っていることで、宮廷医の言葉ではない。


 鏡の前に立った。黒い髪の、眉間に皺のある、俺のものではなかった顔が映っていた。

 鏡の中の顔から目を離せなかった。この顔の男に毒を盛った者がまだどこかにいて、今度は娘のすぐ隣に手を伸ばした。そう思えてならなかった。


 左手を握った。痺れてはいなかった。痺れていないのに指はなかなか開かなかった。

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