春までの約束
初雪の晩もガレスは稽古のあとで書斎に寄った。
あの晩から毎晩そうしている。俺が稽古場でガレスに見てもらいながら素振りを二十本して、汗が冷えないうちに二人で書斎へ上がる。セバスが湯を置いて下がり、扉が閉まってから俺が話す。話せる分だけ話せと言ったのはガレスで、話せない分は話せないと言うと決めたのは俺だった。
ガレスは窓際の椅子に座って、硝子の向こうで落ちてくる雪を見ていた。
「で、今夜は何だ」
「冬のことだ」
俺は机の引き出しから手帳を出した。表紙の裏まで日本語で埋まっている手帳で、ガレスには一字も読めない。初めて見せた晩、ガレスは頁を斜めにしたり逆さにしたりしてから、虫の足跡だな、と言って返してきた。
冬の頁には行が四つしかない。
「向こうの話の終わりに、公爵の娘の罪が読み上げられる場面がある。俺が覚えているのはその読み上げの文句だけだ。冬のところは、四つある」
一つずつ指でなぞりながら読んだ。
「冬至の晩餐で、光の乙女に毒を盛った。光の乙女に脅し文を送った。禁じられた術を手元に置いた。冬の狩りで、王太子を射させた」
ガレスは窓から顔を戻さなかった。
「全部、お嬢がやったことになってるのか」
「話の中ではな。いつ、どこで、誰が本当にやったのかは出てこない。読み上げの文句と、読み上げている王太子の顔と、娘が何も言わずに立っている絵だけだ」
「冬至の晩餐ってのは」
「学院の冬至の行事だと思う。ただ、今年の学院に晩餐はない。あるのは冬至の茶会で、保護者を招く」
ガレスがようやくこちらを見た。
「当たるのか、外れるのか」
「分からない。秋の実習は当たった。起き方は違ったが、術具は暴れた。階段は時期も中身も外れた。教科書は当たった。当たったものは、作った者がいたから当たった」
言いながら、喉の奥が少し狭くなった。
当たるほど怖くなるというのは、前の会社でも覚えのある感覚だった。障害の起きそうな日付だけが分かっていて、どこが落ちるのかが分からない日は、何を見ても怪しく見えた。
「茶会をやめさせりゃいい」
「学院の行事だ。やめさせる理由が言えない。それに、茶会をやめさせても冬至は来る。茶会の外で起きるかもしれない」
「光の乙女に言うか」
「言えない。言えば、なぜ知っているのかを聞かれる。言ったところで、何を避ければいいのか、俺にも分からない」
ガレスは鼻を鳴らした。
「じゃあ、何ができる」
「言える理由で、できることだけをやる」
俺は手帳の余白に書いておいたことを読んだ。
「冬至の茶会の日に、医務室の先生に広間にいてもらうよう学院長に頼む。毒菓子の件のあとだから、食べ物の出る催しが怖い。親の我がままだと言って頼む。それは嘘ではない」
「それで」
「学院長にはもう一つ頼む。持ち寄りの物は受け取る時に寮監の帳面に付ける。杯は学院の物だけを使って、朝のうちに数えておく。給仕は前の日までに名簿を出させて、口入れの帳面と照らす。毒菓子の件のあとなら、どれも言える」
「それなら言えるな。ほかには」
「侍医に、俺が三日寝た春のことを書き出してもらう。倒れる前にどこが痺れていたのか、見つかった時に息がどうだったのか。十年前の秋に侍医は、昔一度だけ毒を盛られた者を診たと言った。その者の記録も出してもらう」
ガレスの眉が動いた。
「自分の毒の話を、人のために使うのか」
「俺の話じゃない」
口に出してから、それが正しいのかどうか分からなくなった。痺れているのは俺の左手だ。痺れさせられたのはこの手の前の持ち主だ。
「……この身体の話だ。使えるものは使う。最後は、茶会に俺が行く。保護者は後ろの席に入れる」
ガレスはしばらく黙って雪を見ていてから、椅子の背にもたれた。
「お嬢には」
「冬至に気をつけろとは言えない」
「言えねえことは言えねえでいい。前にもそう言った」
ガレスは自分の膝を一度叩いた。
「だが、お嬢の冬の予定を、お前は聞いたのか。茶会でお嬢が何をするつもりなのか。誰と座って、何を持っていくのか」
俺は手帳の頁を見下ろした。冬至、茶会、医務室、侍医、保護者席。娘の名前はどこにも書いていなかった。
「聞いていない」
「だろうな」
ガレスは立ち上がって上着の前を合わせた。
「あいつも、奥方が死んだあとはそういう帳面を作ってた。誰にも見せねえやつだ。お前のは読めねえだけましだな」
扉の前で振り向いた。
「休みの日に、お嬢が帰ってくるんだろう。聞け」
*
娘が帰ってきたのは、雪が三日降り続いて止んだ朝だった。
学院の休みの日に一晩だけ屋敷へ戻ってよいと、寮監の届けが出ていて、カイルが門まで付き添ってきた。娘は玄関で外套の雪を払いながら、もう帳面を出していた。
「お父様。冬のことで、ご相談があります」
ガレスの顔が浮かんだので、俺はうなずいて娘を書斎へ通した。
娘は暖炉の前の椅子に座って、帳面を膝の上で開いた。手のひらの真ん中の桃色はまだ少し光っていたが、ペンを持つ指はもう震えていなかった。
「冬至の茶会のことです。保護者の方をお招きする茶会で、寮ごとに卓を組みます。わたくしの卓は五人です。リリアさんと、ヘルミーネ様と、北の男爵家の方と、騎士爵のお家の方」
春に娘が開いた茶会と同じ顔ぶれだった。
「卓ごとに、一人一つずつ持ち寄ります。ヘルミーネ様は焼き栗で、北の男爵家の方は北の干し林檎です。リリアさんは、おうちのお店の冬至のパンを。冬至の日はお店がいちばん忙しいので、ご両親はいらっしゃれないそうです。パンだけ、朝のうちに荷車で届けてくださるって」
「お前は」
「お茶を。屋敷の冬のお茶を持っていきたいのです。ミーナに缶へ詰めてもらって、前の日に持っていきます」
娘は帳面から顔を上げた。
「それから、お父様にいらしていただきたいのです。保護者の席へ」
頼まれる前に行くと決めていた。
「行く」
「よかった」
娘は帳面の茶会の行の横に小さな丸を付けた。
「私からも一つ言っておく。茶会の日に、医務室の先生に広間にいてもらえないかと学院長に頼んである」
娘の手が止まった。
「どうしてですか」
「毒菓子の件があったからだ。食べ物の出る催しは、まだ怖い。親の我がままだと言って頼んだ。持ち寄りの物も、寮監の先生の帳面に付けてから受け取ってもらう」
「わたくしに先に言ってくださって、ありがとうございます」
娘はそう言ってから少し笑った。
「お父様のことですから、毒見の方を連れていらっしゃるかと思いました」
「連れていかない。学院には毒見の決まりがない」
「決まりがあったら、連れていらっしゃるのですね」
俺が答えないでいると、娘は笑ったまま帳面の頁をめくった。
次の頁は冬の休みで、その次は年明けの授業だった。娘は頁をめくる手を一度止めてから、ずっと先の頁を開いた。春の頁だった。
「それと、これは相談ではないのですけれど」
娘の耳の先が赤くなった。
「王宮で開かれる学年末の舞踏会で、殿下と一曲踊りたいのです。三年の方の送別も兼ねていて、殿下は今年で卒業なさいます。一曲だけ、と殿下へのお手紙に書きました。お返事は、まだです」
俺は暖炉の火を見た。
春の学年末の舞踏会。読み上げの文句の最後の場所だった。妹の画面で、娘はその広間の真ん中に一人で立っていた。誰も隣にいなかった。
「……そうか」
思ったより低い声が出て、娘が帳面から目を上げて俺の顔を見た。
「お父様は、お嫌ですか」
「嫌ではない」
嫌ではなかった。怖いだけで、怖いのは娘の一曲ではなかった。
「殿下が下手な冗談を言ったら、足を踏んでいい」
「踏みません。わたくしのほうが、たぶん下手です」
娘は帳面の春の頁に「一曲」と書いた。書いてから、ペンの先を紙から上げたまま俺を見た。
「お父様は、春に何をなさりたいですか」
聞かれるとは思っていなかった。俺の手帳の春の頁には読み上げの場面の一行しかなく、その後ろは白いままだ。
「庭で朝飯を食いたい」
口から先に出た。
「お前の母上の庭だ。春になれば、西の畝の端に何か咲くだろう。あそこに卓を出して、二人で朝飯を食いたい」
「いつですか」
「舞踏会の次の朝」
娘は少し驚いた顔をしてから、春の頁の「一曲」の下に一行書いた。
――舞踏会の次の朝、お母様の庭で朝ご飯。お父様と。
「パンは、リリアさんのお店のにしましょう。冬至のパンとは形が違って、春のは丸いのだそうです」
「そうしよう」
「卓は、庭師のおじいさんに聞きます。お茶は、わたくしが淹れます」
娘はその行の横にも小さな丸を付けた。丸は「一曲」の丸より少し大きかった。
*
娘が寝たあと、書斎で手帳を開いた。
春の頁の読み上げの一行の下に、日本語で一行足した。
――翌朝、庭で朝飯。パンはアーヴェルの店。茶はエレノア。
書き足してから冬の頁へ戻った。冬至の行の横に、娘の卓の五人の名と持ち寄る四つの物を書いた。並べてみても、どれが危ないのかは分からなかった。
窓の外では、止んだはずの雪がまた少し落ちはじめていた。左手の指先が冷えて少しだけ痺れた。俺は手帳を閉じ、春の頁に指を一本挟んだまましばらく暖炉の前に座っていた。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




