匿名の告発状
(レオンハルト)
菩提樹の下で本を読んだのは、灯火の儀から六日目の休みの日だった。
日を決めたのは彼女だった。行きたいと思える日はわたくしが決めます、と初夏に書いてきてから、夏が過ぎて秋も深まっていた。
北の国の旅の記を、私は自分の写しで、彼女は図書館の本で読んだ。並んで別々に読むという約束のとおりだった。葉はもうほとんど落ちていて、枝のあいだから晩秋の薄い日が差していた。
彼女が頁をめくる時に、手のひらが見えた。真ん中が薄い桃色で、皮が少し光っていた。私が見たのに気づいても、彼女は手を返さなかった。
「もう痛くはありません。突っ張るだけです」
それだけ言って、彼女は次の頁へ進み、私も進んだ。昼の鐘から次の鐘までのあいだに話したのは三度だけで、どの国の旅の記にも書いていないくらいいい半日だった。
*
四日後の朝に、侍従が王太子府の執務室へ朝の書状を運んできた。
いつもと同じ厚さの束を上から順に読んだ。領地の陳情があり、学院の行事の知らせがあり、典礼係の季節の挨拶があった。いちばん下に、ほかと形の違う封が一つ挟まっていた。
宛名は王太子殿下御親展とだけあって、差出人の名はなかった。蝋には印がなく、指で押しつぶしただけの平らな形をしていた。
「これは」
「今朝、門の願い出の箱に入っておりました。誰が入れたのかを門番は見ておりません」
侍従はそれ以上は言わなかった。御親展と書かれた書状を、侍従は開けない決まりになっている。
私は封を切った。
紙は二枚あった。一枚目には役所の書記が書くような癖のない字がびっしりと並んでいた。
ヴァレンシュタイン公爵令嬢が学院で取り巻きの者に命じて術具に手を入れさせ、光の乙女を傷つけたこと。奉献の日の階段の件も同じ指図によること。令嬢は救った者の役を自分に振り、学院の査問を父の威をもって退けたこと。殿下は欺かれておいでだ、と結んであった。
一度読んだだけで胸の奥が熱くなった。熱いまま、もう一度読んだ。
暖炉には朝の火が入っていて、紙を持つ手が火のほうへ半分動いた。
師ならここで量れと言うだろう。私はずっとそう教わってきた。
天秤の片方に燃やしたい気持ちを載せ、もう片方に燃やしたあとのことを載せた。燃やせばこの紙は初めからなかったことになる。なかったことになった紙について、私は誰にも何も言えなくなる。言えないことを抱えたまま、来年の春の舞踏会で彼女の手を取ることになる。
私は手を机の上へ戻した。
二枚目は小さな紙で、四つに折ってあった。開くと短い字が三行あった。
――例の箱のこと、手筈どおりに。
――わたくしの名は、決して出さぬよう。
―― E
彼女の字に似ていた。
机の引き出しから木の箱を出した。母上にいただいて、彼女の手紙を入れている箱だ。何通あるのかを数えたことはない。
いちばん上の一通は菩提樹の日の翌々日に届いた手紙だった。
――追伸は二つ分、と初夏にお願いしました。今日のお手紙に二つあったので、こちらも二つにします。
小さな紙をその横に並べた。
字の形はよく似ていた。「わたくし」の「わ」の丸め方も「く」の短さも、彼女の手紙を長く見てきた人が書いたように見えた。
それでも並べると違った。手紙の字は読む人のほうへ少し前に傾いているのに、小さな紙の字はまっすぐに立っていた。手本を見ながら書いた字のように、どの字も同じ高さで並んでいた。
奉献の日の朝のことを思い出した。私の道筋を変えるという書付が、侍従の次官の名で学院の車寄せに届いた。次官はあとで私にもその書付を見せて、最後の払いが短くて筆が止まっている、私はそこで止めない、と言った。似せた字は、似せたいところでは似ていて、似せようと思わなかったところで止まるのだという。
小さな紙の終わりにはEとだけあった。彼女は私への手紙に、いつも名を全部書く。誰か別の人への指図なら頭の字だけで済ませるのかもしれない。
彼女の手のことも思い出した。演習のあとしばらく、彼女の手紙はミーナの字で届いた。手が使えないのでミーナが書きます、と一行目にあった。七日目からの手紙は彼女の字に戻ったが、行の終わりが少し下がっていた。
小さな紙の字は行の終わりまで少しも下がっていない。
違うところは、いくつか言えた。それが別の人の手だからなのか、急いだ日と落ち着いた日の違いなのか、いつ書かれた紙なのか。そこは言えなかった。私は字の見分けを習ったことがない。
侍従を呼んで受付の帳面に書いておいてもらうことにした。
「今朝、門の願い出の箱に、差出人のない御親展の書状が一通あった。私が封を切った。紙は二枚。中身は書かなくていい」
侍従は帳面に刻を添えて書き、終わりに自分の名を書いた。
私は二枚の紙を来た時の折り目のまま元の封筒へ戻した。それを新しい封筒に入れて私の印で封をし、封の上に侍従にもう一度名を書いてもらった。
「殿下。どなたかに、お見せになりますか」
「今はしない」
侍従は頷いて下がった。
封筒は手紙の木の箱には入れずに、机のいちばん下の鍵のかかる引き出しにしまった。同じ箱に入れておいたら、いつかどちらかの字を読み違える気がした。
*
昼の鐘のあと、学院の回廊から中庭が見えた。
一年の女子が三人、噴水の縁に腰かけてパンを分けていた。一人は銀の髪で、一人は手袋をしていた。手袋の子が何か言い、銀の髪の子が笑った。声は届かなかったが、肩が揺れるのが見えた。
私は回廊の柱の陰で立ち止まり、少しして歩きだした。立ち止まっていたのを誰かに見られていたら、また何か書かれるのだろうと思った。
午後の講義のあいだ、下の引き出しのことを何度か考えた。
誰が書いたのか。なぜ私に送ったのか。査問のことは彼女が手紙に書いてきていた。教授会は記録を見て当番に責任を認める証拠はないと言い、父君は壁際で黙っていたという。父の威で退けたという一行は、あの手紙のどこにも合わない。
合わないところを拾っているうちに気づいた。私は紙を量っていたのではなかった。最初から、合わないところを探していた。
王族は私情で裁かないと師は教えたが、私は今、私情で紙の合わないところを探している。
それでも燃やさなかった。それだけは私情ではなかったと思いたかった。
*
夜に部屋で日記の帳面を開いた。いつもは一日に一行しか書かない帳面だ。
――差出人のない書状。紙二枚。原本は封をして下の引き出し。受付の帳面に侍従の名と刻。
――二枚目の字は、彼女の字に似ている。
書いてから、もう一行足した。
――私でない誰かに確かめてもらうなら、誰に。
その答えは、まだ書けなかった。
木の箱の蓋を開けて、菩提樹の翌々日の手紙をもう一度読んだ。追伸の二つ目はこうだった。
――旅の記は三十二頁まで読みました。北の国では、冬に窓の霜で日を数えるそうです。殿下はどこまでですか。追いつかないでください。
私はまだ三十頁だった。
蓋を閉めて灯りを消した。下の引き出しの鍵は、その晩は枕の下に置いて眠った。
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