お前、本当にアルベルトか
ガレスが来たのは、屋敷の灯りの半分が消えたあとだった。
セバスが書斎へ通すと、ガレスは椅子に座らずに扉のほうを顎で示した。セバスは俺の顔を一度見てから下がり、扉が閉まった。
いつもの杯は出さなかったし、ガレスも欲しいとは言わなかった。窓際の椅子の背に手を置いて立ったままだった。
「十年、喉に刺さってた」
ガレスは言った。
「お前が三日寝て起きた年だ。宿の朝飯で椀が置かれたら、手を胸の前で合わせた。一瞬だけな。坂のあとの稽古では型の名前が出てこなかった。それは熱のせいにできた。堀の話は、できなかった」
俺は机の前に立ったまま聞いていた。
「士官学校の三年の夏に堀に落ちたのは俺だ。馬は手前で止まって、俺だけが飛んだ。あいつは岸の上で俺の馬の手綱を取って、腹を抱えて笑ってた。馬ごと落ちたろうと聞いたら、お前は、ああ、あったなと言って、腕を擦りむいたとまで足した」
ガレスの声は低かったが、怒っているようには聞こえなかった。椅子の背を掴んだ指だけが、話すたびに白くなっていった。
「ありがとうと言う。頼むと言う。……子供相手の稽古で、打ちこむ手首を止める。あいつは子供相手でも手を抜かなかった。それから、院で先生が斬られた晩だ。俺の前で、俺が表しか見ていなかったと言った。私じゃなくて俺だった。あとは、なんだ。考えごとをすると、ここで指が動く。何もねえところを押し上げる」
ガレスは自分の鼻の付け根を指で叩いた。
「それから今夜だ。パンを持って手を合わせて、何か言った。聞いたことのない言葉だった。この国の言葉じゃねえ」
窓の外で風が鳴った。ガレスは椅子の背から手を離した。
「お前、本当にアルベルトか」
嘘をつくことは、たぶんできた。十年そうしてきたのだから、熱で抜けたと言えばいい。この国の言葉ではない言葉も、子供の頃に乳母に教わったと言えば済む。
ただ、ガレスは十年それを飲みこんできたのだ。その十年の上に、俺はもう一つ嘘を積むことになる。
「違う」
声は思ったより静かに出た。
「俺は、アルベルトじゃない」
ガレスは動かなかった。
「ここではない場所にいた。この国でも海の向こうでもない。別の世界と言うしかない。そこで勤め人をしていた。帳面を作って会議に出て、夜遅くに帰るだけの男だ。最後のところは、よく覚えていない。気づいたらこの身体だった。熱の三日目の朝だ」
「……それで」
「それで、十年経った」
ガレスは笑わなかったし、鼻で笑いもしなかった。
「あいつは、どこへ行った」
「分からない。俺が起きた時には、もういなかった」
言うべきことを順に並べようとして、うまく並ばなかった。
「あの熱で死んだのだと思う。熱の前に毒を盛られていたと俺は思っている。左手が痺れるのはその残りだ。……確かめたわけじゃない」
ガレスは窓のほうを向いて、しばらく何も言わなかった。窓硝子に日焼けした顔と頬の古傷が映っていた。
「あいつの最後の言葉、知ってるか」
「知らない」
「倒れるひと月前だ。雪の残ってた頃に詰所へ一人で来た。もし私に何かあったら、娘を、と言いかけて、忘れろと言った。俺は縁起でもねえことを言うなと笑った」
ガレスの肩が一度だけ上がって下りた。
「知らないと言うんだな。堀の時は話を合わせたくせに」
「あの時は合わせた。悪かった。今夜は合わせない」
ガレスは窓に映った自分の顔を見たまま、短く息を吐いた。それが笑いだったのかどうかは分からなかった。
「もう一つある」
俺は机の端に手を置いた。
「向こうで、この国に似た話を知っていた。妹が夢中になって読んでいた話だ。王太子がいて、光の乙女がいて、公爵の娘がいる。公爵の娘は学年の終わりの舞踏会で罪を問われて家を追われ、そのあと崖の道で馬車が落ちる」
ガレスの首がゆっくりこちらへ回った。
「全部は覚えていない。覚えていたことも、この十年でずいぶん外れた。教科書も階段も話のとおりには起きなかったし、起きたことも起き方が違った。それでも、春の学年末の舞踏会のことは、まだ外れたと言えない」
「お嬢が、罪を」
「話の中ではな。誰かが罪を作る。今年の春から、作ろうとしている者がいる」
ガレスは目を細めて俺を見ていた。何かを測る時の顔だった。
「その話の中で、坂の馬車は」
「坂では落ちない。話の中で落ちるのは、もっとあとだ」
ガレスは長い息を吐いた。
「だからお前は坂で跳べたのか」
「坂のことは知らなかった。あれは身体が勝手に跳んだ」
ガレスは少しだけ眉を動かした。身体が勝手に、のところで何かを思ったようだったが、何を思ったのかは言わなかった。
「お嬢は知ってるのか」
「知らない。言っていない」
「言うのか」
「いつかは言う。今じゃない」
「それは、お前とお嬢が決めることだ。俺は口を出さねえ」
ガレスはそう言ってから言い足した。
「セバスの爺さんは」
「話していない」
「そうか」
ガレスは窓際の椅子にようやく腰を下ろした。両手を膝の上で組んで床を見ていた。
「警護は続ける」
床を見たまま、ガレスは言った。
「お嬢のためだ。坊主のためでもある。お前を信じるかどうかとは別の話だ。そっちはまだ決めてねえ。あいつのことも、今夜は決めねえ」
「分かった」
分かったと言ってから、言わなければならないことがもう一つ残っているのに気づいた。十年のあいだ一度も口にしなかったことだった。
「ガレス」
「なんだ」
「頼みがある」
ガレスが顔を上げた。
「助けてほしい。俺一人では娘を守りきれない。この冬にも、春の学年末にも何かが来る。何が来るのかを全部は知らない。知っている分は話す。話せない分は話せないと言う」
言い終えると、喉の奥が乾いていた。前の会社では、手が足りないと上に言えたことが一度もなかった。
ガレスは長いあいだ黙っていた。
「あいつは」
低い声だった。
「それを一度も言わなかった。イザベルが死んだ冬も、そのあとも。一人で抱えて一人で冷たくなって、最後に忘れろと言った」
ガレスは立ち上がって扉の前まで歩き、取っ手に手を掛けたところで止まった。
「明日、また来る」
扉が閉まり、廊下でセバスに何か言う声がして遠ざかった。
俺は机の前に立ったまま閉まった扉を見ていた。断られたのかどうかも分からなかった。
*
翌朝、ガレスはカイルの報告を持っていつもの刻に来た。
報告を机に置き、セバスが下がって扉が閉まるのを待ってから、俺のほうを向いた。目の下が少し黒かった。
「一晩考えた」
ガレスは言った。
「あいつがいねえのは、まだ飲みこめねえ。たぶんずっと飲みこめねえ。それはそれで抱えとく」
ガレスは机の上の報告の封を指で一度叩いた。
「お前のことは、こう決めた。あいつの代わりに俺が見届ける。お前があいつの娘をどう守るのかをな。見届けて、駄目なら殴る」
「……ああ」
「冬と春に何が来るのか、話せる分だけ話せ。今夜、稽古のあとで聞く」
ガレスはそれだけ言って出ていきかけ、戸口で振り向いた。
「それと、あの言葉は何だ。パンの前の」
「いただきます、だ。食べる前に言う。食べ物と、作った人に」
「……そうか」
ガレスは少し考えてから、口の中で一度繰り返した。うまく言えていなかった。言えていないまま廊下へ出ていった。
足音が廊下の角を曲がるまで、俺は扉の前を動かなかった。それから机に戻ってカイルの報告を開いた。いつもの二行だった。
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