主人公登場(1)
「バタン」と、目の前の視界が激しく揺れて、歪んだ茶色の地面が迫ってきた。
2026年、7月。
うだるような暑さの体育の授業中、俺――鈴木永人は唐突に倒れた。
(は? 何だこれ。何が起きてる……!?)
心臓を、いや、体内の奥深くを未知なるものにぐちゃぐちゃにかき乱されるような、経験したことのない激痛が襲う。
「おい、大丈夫かよ!」
一緒に走っていたクラスメイトの声が遠くで聞こえる。
だが、答える余裕なんて微塵もない。
地面に突っ伏したまま、俺は心臓のあたりを必死に自らの手で押さえつけ、獣のように荒く短い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
「おい! 永人……! 誰か先生呼べ! 永人が倒れた!」
遠ざかっていく意識の底で、俺の脳裏を過ったのは激しい拒絶だった。
死ぬ?
俺が?
まさか、冗談じゃない。
俺は……俺には、絶対に叶えたい夢があるんだ。
こんな学校の校庭の片隅で、何もなさずに死んでたまるか。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
俺は、もっと先の世界を――もっと、長い時間を生きたいんだ。
激しい渇望を最後に、俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
◇◇◇
「……ん」
次に目が覚めた時、背中から伝わってきたのは、保健室の硬いベッドとは違う、ひどく上質でふわふわとした感触だった。
体を起こし、自分の両手を見つめる。
痛みの残滓はない。
「生きてる……」
感慨深そうにつぶやいた俺の耳に、場違いなほど優しく、そして冷徹な声が届いた。
「鈴木永人様。お目覚めですか」
振り返ると、そこにいたのは白衣の医師でも、心配そうな両親でもなかった。
仕立てのいい黒い高級スーツに身を包んだ、見知らぬ男が佇んでいた。
「親は……? というか、あなた看護師ですか?」
絶対に違うだろう。
心の中でそう突っ込みながら質問する俺に、男はビジネスライクな笑みを崩さずに告げた。
「いえ。私は日本政府の者です」
「は?」
あまりに突飛な単語に、思わず間抜けな声が出た。
男は動じず、手元のアタッシュケースからスッと一枚の書類を取り出し、ベッドの上の俺に差し出す。
「この度、鈴木様が倒れられた『真の原因』についてお話ししていきたいと思います。まずは、こちらの誓約書にサインをいただけますか」
手渡された紙に並ぶ、物々しい規約の文字を慎重に読み進める。
……なにこれ。
新手の詐欺?
いや、国が直接動くほどの『何か』が、起きているということか。
全く持って意味がわからない。
だが、何かが変わろうとしている。
それも、国家が隠蔽に走るほどの大事件が。
恐怖の裏側で、ゾクゾクとするような興奮が、期待となって胸の奥で跳ねた。
しかし、男の口から語られた「説明」は、期待外れだった。
期待して損したとはこのことだな。
まあ、そりゃそうか。
簡潔に言えば、
「お前の体内に未知の臓器がこれから形成されるよ」
ということ。
そして、
「現在はまだ実験・解析中のため、詳細なことは教えられないです」
ということだった。
「はぁ……」
だが、提示された条件は生易しいものではなかった。
さっきサインさせられた書類は完全な口止め用。
これから二ヶ月間、この病院の個室で経過観察となり、外部の人間――両親や友人との接触は一切禁止。
(なるほど。つまり今、俺は『ヤバい状況』に置かれているわけだ。受験生なのに二ヶ月隔離なんて……)
さらに、男は部屋を出る間際に、とんでもない爆弾発言を残していった。
「ああ、それと鈴木様。その心臓の痛みですが……あと六日間は断続的に続くと思われますので、ご覚悟を」
男が去り、電子ロックの音が響いた後、病室に静寂が戻った。
「はぁ……」
と、大きいため息をつく。
いきなりぶっ倒れた病人に、なんて酷い宣告をしていくんだ。
それにしても、ここから二ヶ月、何をすればいいっていうんだよ。
俺はあれこれと今後の計画について考えを巡らせながら、ふかふかとした上質なベッドに寝転がり、その感触に身を委ねた。
――そして後日。
あの黒スーツの男が言っていた「予言」は、最悪な形で的中することになる。
「が、あ、つぅ、ううううっ……!!」
二日目の夜、再びあの激痛が永人の体内をかき乱した。
ベッドのシーツを爪が剥がれるほどの力で握りしめ、のたうち回りながら激痛を堪える。
(なんなんだよ! 俺が何をしたっていうんだ……!)
心の中で恨み言を叫び、脂汗を流しながら、俺はただ耐え続けた。
この一週間は、地獄のような時間の長さだった。
だが、後にその出来事は永人の人生を大きく変えることになる。
あの地獄のような激痛がピタッと止まったのは、校庭でぶっ倒れてからちょうど一週間が経った日のことだった。
嵐の去った病室で、俺は自分の体に起きた「明確な異変」に気づく。
ベッドから床に足を下ろした瞬間、自分の肉体が羽毛のように軽く感じられたのだ。
試しに、その場で軽く足首を回してみる。
関節の可動域、筋肉のバネ。
そして何より、体の中に「未知の力」があることがハッキリと分かった。
その力は血管を流れている血のように、あるいは川のように、全身を脈打って流れていることを知覚できたのだ。
(本当に臓器が増えただけか? もっと違う何かがありそうだぞ……)
本能がそう告げていた。
五感が、脳が、世界の法則が書き換わったことを察知して、なんとも言えない高揚感が込み上げてくる。
――コンコン。
その時、静寂を破ってドアが叩かれた。
直後、電子ロックが『ピッ』と小気味いい音を立てて解除される。
入ってきたのは、あの黒スーツの政府の男だった。
手には、何らかの測定データが印刷されたタブレットを持っている。
「鈴木様、体調はいかがですか」
「快調ですよ」
俺がベッドに腰掛けて答えると、男はタブレットの画面を俺に向け、ビジネスライクな口調で説明を始めた。
「結論から言いましょう。貴方の心臓の裏にできた新器官は、生命力をブーストする未知なるエネルギーを生成しています」
「端的に言えば、貴方の身体能力は今後、オリンピックの金メダリストを遥かに凌駕するレベルまで向上します」
「それに伴い、その速度に脳が追いつくよう、『動体視力』などの知覚処理速度も劇的に向上しています。科学的な数値データでも実証済みです」
「……身体能力が、上がるだけですか?」
「ええ。驚くべきことですが、それだけです。走れば世界の誰よりも速く、跳べば誰よりも高く。国としては、貴方方のような存在を未来の国力として管理・育成していく方針です。では、また後日」
男はそれだけ言うと、満足そうに一礼して部屋を出て行った。
パタン、とドアが閉まり、再び電子ロックがかかる。
「……ハッ」
誰もいなくなった室内に、俺の乾いた笑い声が響いた。
大人の科学者は、自分たちの手持ちの計測器で測れる「数値」しか見ていない。
未知の力だと言いながら、今まで観測できなかったのに、科学の延長線上でしかこの力を解釈できていないのだ。
だが、新器官が発現したこの俺の肉体は、彼らの間抜けな説明を真っ向から否定していた。
ただ肉体が強くなるだけのはずがない。
もしそうなら、この内側でトクトクと脈打つエネルギーに、なぜこれほどまでの可能性を本能で感じるのだ。
これはただの筋肉のブースト機能じゃない。
もっと緻密で、もっと自由な、何にでもなれる代物だ。
「よし……」
俺はベッドの上に胡座をかき、そっと目を閉じた。
今までとは違う力。
国が気づいていないこの本質を、この監禁されている二ヶ月で掴んでやろうじゃないか。
この力は世界を変えられるかもしれない。
そして……俺自身の未来を、夢である「不老」を可能にできるかもしれない。




