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第6話 返すものではない


 執務室は広かった。


 壁一面の書棚。

 大きな机。

 地図。

 積まれた書類。


 暖炉の火は小さく、部屋全体は少し冷えている。


 イザベラは机に向かっていた。


 左腕はまだ包帯を巻いている。

 その手で書類を押さえ、右手で署名していた。


「あの」


「言いたいことは分かるわ」


 イザベラは羽根ペンを置かない。


「腕を使わないでください」


「右手よ」


「左手で書類を押さえています」


「細かいわね」


「傷が開きます」


「もうほとんど閉じているわ」


「それを判断するのはベルン先生です」


 イザベラはようやく顔を上げた。


 少し驚いたような顔をしている。


 リリアも、自分の言葉の強さに気づいて固まった。


「す、すみません」


「謝らなくていい」


 イザベラは椅子の背にもたれた。


「怒ったの?」


「怒っては」


「いるわね」


 リリアは口を閉じる。


 怒っている。


 たぶん。


 なぜかは分からない。


 イザベラが傷を大事にしないことが、嫌だった。


 自分が消せない傷を、この人が簡単に扱うのが嫌だった。


「……傷が、悪くなったら困ります」


「誰が?」


 イザベラが聞く。


 リリアは答えようとした。


 領地が。

 兵士たちが。

 ベルン先生が。


 理由はいくつもあった。


 けれど最初に浮かんだのは、どれでもなかった。


 リリアは答えられない。


 イザベラはしばらく待っていた。


 急かさない。


 笑いもしない。


 その沈黙が、余計に苦しかった。


「……私が」


 ようやく出た声は、小さかった。


「私が、困ります」


 言ってから、リリアは顔を伏せた。


 何を言っているのだろう。


 治療係として当然のことだ。


 そう思えばいい。


 でも、声はそう聞こえなかった。


 イザベラは何も言わない。


 長い沈黙。


 暖炉の火が小さく鳴る。


「そう」


 やがて、イザベラが言った。


「なら困らせないようにするわ」


 リリアは顔を上げた。


「本当ですか」


「疑うのが早い」


「すみません」


「そこは謝らなくていい」


 イザベラは左手を机から離した。


「これでいい?」


「……はい」


「それで、呼んだ理由だけれど」


 イザベラは机の端に置かれていた封筒を取る。


「王宮から問い合わせが来た」


 リリアの体が冷えた。


「王宮、から」


「あなたがこちらにいるか確認したいそうよ」


「……」


「今のところ、正式な返還要求ではない。ただの確認。言い方だけは丁寧だったわ」


 返還。


 その言葉に、リリアの指が震えた。


 物のようだと思った。


 でも王宮にいた頃から、そうだったのかもしれない。


「私は」


 声がかすれる。


「戻らなければ、いけませんか」


 イザベラはリリアを見た。


 鋭い目。


 怖い目。


 でも、リリアから逸らさない目。


「あなたは戻りたいの?」


 リリアは即答できなかった。


 戻りたい。


 そう思う部分が、どこかにあるのかもしれない。


 王宮は怖い。

 苦しい。

 偽物と呼ばれた。


 それでも、十五からいた場所だ。


 置いていかれた痛みはある。


 捨てられた場所でも、呼ばれたら応えなければならない気がする。


 沈黙が落ちる。


 イザベラは何も言わない。


 代わりに、封筒を暖炉へ放った。


 火が紙を舐める。


 リリアは息を呑んだ。


「イザベラ様」


「確認には答えたわ」


「何と」


「私の領内で保護している、と」


「それだけですか」


「ええ」


 イザベラは燃える封筒を見ている。


「返せと言われたら?」


 リリアの声は、自分でも驚くほど弱かった。


 イザベラは振り返る。


「返さないわ」


 迷いのない声だった。


「どうして」


「あなたは拾った荷物ではないから」


 リリアは息を止めた。


「自分で戻りたいと言うなら止めない。けれど、王宮が返せと言ったから返すものではない」


 イザベラは立ち上がる。


 左腕を使わないように、今度は本当に気をつけていた。


「それに」


「それに?」


「私の外套をまだ返してもらっていないもの」


 リリアは一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 それから、部屋の隅に掛けられた黒い外套を思い出す。


 洗われ、乾かされ、まだ自室に置かれている。


「す、すぐにお返しします」


「今はいいわ」


「でも」


「口実がなくなるでしょう」


 イザベラはさらりと言った。


 リリアは固まる。


 口実。


 何の。


 聞けなかった。


 イザベラはもう机の書類へ視線を落としている。


「包帯を替える時間では?」


「あ、はい」


「なら、お願い」


 リリアは近づく。


 包帯をほどく。


 イザベラの腕に触れる。


 傷はもう、だいぶ塞がっていた。


 けれど痕は残る。


 はっきりと。


 リリアはその傷を見つめる。


 王宮からの手紙は燃えた。


 けれど、戻らなくていいと言われた声は、まだ耳に残っている。


 返さないわ。


 その言葉が、手のひらの奥まで染み込んでいる気がした。


 リリアは傷の周りにそっと手を添えた。


 温かさが広がる。


 イザベラが少し息を吐く。


 その音を聞いて、リリアの指がかすかに震えた。


 震えた理由を、まだ言葉にはできなかった。


     ◇


 王宮からの手紙が燃えた日から、城の中の空気が少し変わった。


 兵士たちが何かを言うわけではない。


 侍女たちも、いつも通り廊下を行き来している。


 ベルンも、治療室で患者を叱っている。


 けれどリリアには分かった。


 扉の外に立つ護衛が一人増えた。

 門の巡回が少し多くなった。

 イザベラが執務室から出てくる時間が遅くなった。


 王宮。


 その言葉は、リリアの中に小さな棘のように残っていた。


 戻りたいのかと聞かれた時、すぐに否定できなかった。


 それが、少し苦しい。


 戻りたいわけではない。


 そう思う。


 けれど、王宮はリリアが十五から過ごした場所だった。廊下の冷たさも、大聖堂の鐘の音も、医療室の匂いも、まだ体のどこかに残っている。


 傷が消えないのと同じだ。


 痛みが引いても、痕は残る。


「また難しい顔をしているわ」


 声がした。


 リリアははっと顔を上げる。


 治療室の椅子に、イザベラが座っていた。


 包帯を替える時間だった。


 リリアは慌てて薬箱へ手を伸ばす。


「すみません」


「何に謝ったの」


「ぼんやりしていました」


「怪我人の前で?」


「……はい」


「それはよくないわね」


 イザベラの声は厳しかった。


 リリアは肩を落とす。


 けれどイザベラは、少し間を置いてから言った。


「けれど、私の腕は逃げないわ。落ち着いてやりなさい」


 リリアは手を止めた。


 叱られた。


 でも、突き放されたわけではなかった。


 それが分かるようになってしまったことに、リリアは少し戸惑う。


「はい」


 リリアは包帯をほどく。


 霜牙竜の傷は、ゆっくり塞がってきていた。


 縫われた跡。

 赤みの残る皮膚。

 周りに散る古い傷痕。


 最初に見た時ほど血の匂いはしない。


 けれど、傷はまだ生々しい。


「痛みますか」


「少し」


「その少しは信用できません」


「本当に少しよ」


「昨日もそう言って、ベルン先生が薬を足していました」


「余計なことを言う老人ね」


「必要なことです」


 リリアは傷の周りにそっと触れる。


 イザベラの肌は温かい。


 祈る。


 痛みが遠のくように。

 傷が悪くならないように。

 この人が、夜に眠れるように。


 指先に温かさが集まる。


 イザベラがわずかに目を伏せた。


 リリアは、その小さな変化を見逃さなくなっていた。


 痛みが引いた時。

 息が楽になった時。

 無理をしている時。


 イザベラは顔には出さない。


 でも、肩から力が抜ける。

 指先が少し動く。

 目元がほんの少し緩む。


 他の人は気づかない。


 たぶん。


 そう思った瞬間、リリアの胸が小さく跳ねた。


 それは、治療係としての誇りに似ていた。


 似ているだけで、少し違った。


「リリア」


「はい」


「手が止まっている」


「あ」


 包帯を持ったまま固まっていた。


 リリアは慌てて巻き直す。


 イザベラは何も言わなかった。


 けれど、口元がほんの少しだけ緩んでいた。


 また笑われた。


 そう思うのに、嫌ではなかった。


     ◇


 その日の午後、イザベラは城の広間で裁きを行った。


 リリアはマルタに連れられて、少し離れた場所からそれを見ることになった。


「見ておいた方がいいですよ」


 マルタはそう言った。


「この城の辺境伯様を知るなら、治療室だけでは足りませんから」


 広間には、商人が一人跪いていた。


 中年の男だった。

 上等な毛皮の外套を着ている。

 けれど顔色は悪い。


 イザベラは高い席に座っていた。


 黒い衣服。

 包帯の巻かれた左腕。

 冷たい表情。


 治療室で腕を差し出す時とは、まるで違う顔だった。


「倉の穀物を三割抜いたそうね」


 イザベラが言った。


 声は静かだった。


 静かだからこそ、怖い。


「誤解でございます、辺境伯様」


 商人は額を床にこすりつける。


「帳簿の不備でして」


「帳簿の不備で、兵士の冬の配給が三日分消えるの」


「それは」


「孤児院に回すはずの粉まで減っていたわ」


 商人の口が止まる。


 イザベラは机の上の書類を一枚めくった。


「あなたの店は閉じる。財産は没収。家族に罪は問わない。ただし、あなたは北門の労役場へ送る」


「お、お待ちください!」


 商人が顔を上げる。


「この寒さで労役など、死ねと言うようなものです!」


「死なない程度には食べさせるわ。あなたが食べさせなかった子どもたちよりは、温かいものをね」


 リリアは息を止めた。


 冷たい。


 怖い。


 けれど、間違っているとは言えなかった。


 商人は泣きながら連れていかれた。


 広間にはしばらく沈黙が残る。


 イザベラは次の書類を取る。


 何事もなかったかのように。


 リリアは自分の手を握った。


 怖かった。


 優しいだけの人ではない。


 リリアに外套を掛けた人。

 手袋を渡した人。

 傷が残っても十分だと言った人。


 でも同時に、誰かを切り捨てられる人。


 その両方が、イザベラなのだ。


「怖いですか?」


 マルタが小声で聞いた。


 リリアは少し迷って、頷いた。


「……少し」


「それでいいんですよ」


「いいんですか」


「辺境伯様は、怖くない人ではありませんからね」


 マルタは広間の奥を見た。


「あの方が怖くなくなったら、この領地はとっくに食い潰されています」


 リリアはイザベラを見る。


 高い席の上のイザベラは、遠かった。


 治療室で見せる横顔とは違う。


 近づいてはいけない人のように見えた。


 それなのに。


 左腕の包帯が少しだけずれていることに、リリアは気づいてしまった。

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