第7話 悪女辺境伯の古傷
裁きが終わった後、リリアは治療室へ戻るつもりだった。
けれど足は別の方向へ向いた。
執務室。
扉の前で立ち止まる。
ノックする前に、なぜ来てしまったのだろうと思った。
包帯がずれていたから。
理由はそれでいい。
きっと。
「誰」
中から声がした。
「リリアです」
「入りなさい」
扉を開ける。
イザベラは机の前に立っていた。上着を脱ぎかけたところだったらしく、左腕の包帯が少し見えている。
やはり、ずれていた。
「どうしたの」
「包帯が」
リリアは自分でも驚くほど早く言った。
「ずれています」
イザベラは自分の腕を見る。
「そう?」
「そうです」
「よく見ているわね」
「治療係ですから」
「便利な理由が増えたわね」
また、それだ。
リリアは少しだけ唇を結ぶ。
イザベラはその表情を見て、目を細めた。
「怒った?」
「怒っていません」
「嘘が下手」
「……怒ってはいません」
「では?」
リリアは答えられなかった。
広間でのイザベラを思い出す。
怖かった。
冷たかった。
でも、穀物を抜かれた子どもたちのためでもあった。
優しいと言えば違う。
残酷と言えば、それも少し違う。
この人は、たぶん、守るために怖くなる。
リリアは包帯を用意する。
「少し、怖かったです」
言った瞬間、部屋が静かになった。
イザベラはリリアを見ている。
リリアは続けた。
「でも、包帯がずれていました」
「……それは関係あるの?」
「分かりません」
自分でも分からなかった。
怖かった。
でも放っておけなかった。
遠い人に見えた。
でも傷が開いたら嫌だった。
イザベラはしばらく黙ってから、椅子に座った。
「見なさい」
「はい」
リリアは包帯をほどく。
傷口は少し赤くなっていた。広間で長く座っていたせいかもしれない。
「痛みますか」
「少し」
「それは、どれくらいですか」
「怒っている時のあなたくらい」
リリアの手が止まる。
「私は怒っていません」
「そうだったわね」
イザベラの声に、少しだけ笑いが混じる。
リリアは包帯を巻き直した。
「イザベラ様は」
「何」
「怖い人です」
「そうね」
否定しなかった。
リリアは顔を上げる。
イザベラは穏やかでも、優しげでもない顔でこちらを見ていた。
「失望した?」
「分かりません」
「正直ね」
「でも」
リリアは指先に温かさを集める。
少しだけ、痛みが引くように。
「怖い人でも、痛いのは嫌です」
言ってから、変な言い方だと思った。
けれどイザベラは笑わなかった。
ただ、まばたきを一度した。
「そう」
声が、少しだけ低かった。
「なら、気をつけるわ」
「本当ですか」
「あなた、本当に疑うのが早いわね」
「前にも同じことをおっしゃいました」
「覚えがいいわ」
リリアは包帯の端を結ぶ。
今日は曲がらなかった。
「できました」
「ありがとう」
礼を言われることには、まだ慣れない。
それでも以前ほど、体が固まらなくなった。
リリアは道具を片付ける。
帰ろうとした時、イザベラが言った。
「リリア」
「はい」
「怖いなら、無理に近づかなくていいわ」
リリアは扉の前で止まった。
振り返る。
イザベラは机の上の書類を見ていた。こちらを見ていない。
その横顔は、少しだけ疲れて見えた。
「近づきたくないわけでは、ありません」
リリアは小さく答えた。
イザベラの手が止まる。
リリアはそれ以上言えなかった。
扉を開けて、廊下へ出る。
胸がうるさい。
怖い人。
痛みを隠す人。
礼を言う人。
外套を貸してくれた人。
全部、同じ人だった。
リリアは自分の手を見る。
指先に、まだイザベラの傷の温かさが残っている気がした。
◇
その夜、リリアはマルタからイザベラの昔話を聞いた。
聞こうとしたわけではない。
夕食の片付けを手伝おうとして、また寝ていろと叱られ、その代わりに暖炉の前で膝掛けを渡された。
マルタは針仕事をしながら、ぽつりと言った。
「辺境伯様はね、昔からああだったわけではないんですよ」
リリアは顔を上げる。
「そうなんですか」
「昔は、もう少し笑う方でした」
想像しようとして、少し失敗した。
イザベラが笑うところは見たことがある。
ほんの少しだけ。
でも、よく笑うイザベラは想像しにくい。
「先代様が亡くなられてから、親族が一斉に領地を食い物にしようとしましてね」
マルタの針が布を通る。
「王都の貴族も混じっていました。税を上げろ、兵を減らせ、倉の穀物を売れ。そういう話ばかり」
「それで、イザベラ様は」
「切りました」
マルタは穏やかに言った。
「親族も、王都の息のかかった商人も、役人も。容赦なく」
リリアは広間での裁きを思い出す。
冷たい声。
跪く商人。
切り捨てる言葉。
「あの方は悪女と呼ばれるようになりました。でも、兵士は冬を越せた。孤児院の子どもたちも、飢えずに済んだ」
マルタは糸を切る。
「王都は、守るために怖くなる人間が嫌いなんですよ。自分たちが怖がらされるから」
リリアは黙って聞いていた。
「……傷も、その頃に?」
「ええ。全部ではありませんが」
マルタはリリアを見る。
「辺境伯様は、自分の傷をあまり人に見せません」
「でも、私は」
「あなたには見せている」
リリアは言葉に詰まった。
「治療だからです」
「そうですね」
マルタは笑う。
何もかも分かっているような笑い方だった。
「そういうことにしておきましょう」
リリアは膝掛けを握った。
暖炉の火が頬を温める。
イザベラは、自分の傷をあまり人に見せない。
なのに、リリアには腕を差し出す。
許可もなく触れられるわけではない。
でも、許してくれる。
痛みを預けてくれる。
そのことを考えると、胸の奥が落ち着かなくなる。
「マルタさん」
「はい」
「人の傷が気になるのは、変でしょうか」
「治療係なら普通ですよ」
「治療係ではない時も」
マルタの手が少し止まった。
それから、何も聞かずに針を動かす。
「変ではありません」
「そうですか」
「ただ、大事にした方がいいです」
「何を?」
「気になる、と思ったことを」
リリアはよく分からなかった。
けれど、その言葉は胸に残った。
◇
夜半。
リリアは水を飲みに部屋を出た。
廊下は静かだった。
燭台の火は小さく、窓の外では雪が降っている。
厨房へ向かう途中、かすかな物音がした。
呻き声。
リリアは足を止める。
治療室ではない。
執務室の方だ。
胸が嫌なふうに鳴った。
リリアは音のする方へ歩いた。
扉が少し開いている。
中に灯りがあった。
「イザベラ様?」
声をかける。
返事はない。
リリアは恐る恐る扉を押した。
イザベラは椅子に座っていた。
机に片手をつき、肩で息をしている。
顔色が悪い。
左腕ではない。
右手が、脇腹のあたりを押さえていた。
「イザベラ様!」
リリアは駆け寄る。
イザベラが顔を上げた。
「……騒がないで」
「騒ぎます」
「夜中よ」
「関係ありません」
自分でも驚くほど強い声が出た。
イザベラは少し目を見開いた。
リリアはすぐにベルンを呼ぼうとする。
だがイザベラが手首を掴んだ。
「古傷よ」
「古傷?」
「天気が悪いと、痛むだけ」
「だけ、ではありません」
リリアはイザベラの手をそっと外させる。
服の上からでも分かる。
脇腹のあたりに古い傷がある。
霜牙竜の傷ではない。
もっと古い。
もっと深そうな傷。
「見せてください」
言ってから、リリアは固まった。
脇腹。
服を緩めなければ見られない場所。
治療として必要だとしても、簡単に言っていいことではない。
リリアの顔が熱くなる。
「す、すみません。今のは」
「いいわ」
イザベラは静かに言った。
リリアは顔を上げる。
「見るだけでしょう」
「はい」
「なら、見なさい」
イザベラは上着の留め具を外した。
リリアは慌てて視線を逸らす。
「逸らしたら見られないわよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……分かって、います」
声が頼りない。
イザベラが少し笑った気配がした。
リリアは息を整えてから、視線を戻した。
白い肌。
その脇腹に、古い傷跡があった。
長い。
深い。
消えなかった傷。
皮膚が少し引きつれている。
見ただけで、当時の痛みが想像できてしまう。
リリアは指を伸ばしかけて、止めた。
「触れても、いいですか」
「ええ」
許可を聞いてから触れる。
いつもより慎重に。
古傷は冷えていた。
リリアは力を流す。
古傷にはあまり効かない。
分かっている。
それでも、痛みが少しでも遠くなるように。
イザベラの呼吸が、ゆっくり落ち着いていく。
リリアは顔を上げた。
「痛みは」
「少し楽になったわ」
「本当ですか」
「疑うのが早い」
「イザベラ様が少しとおっしゃるので」
「それは私のせいね」
リリアは手を離さなかった。
古傷の上に、指先を置いたまま。
イザベラも、何も言わなかった。
夜の執務室。
小さな灯り。
雪の音。
自分の指先の下にある、イザベラの傷。
リリアは、息をするのが少し難しくなった。
治療だ。
そう思った。
痛みを和らげているだけ。
でも、こんな場所の傷を知っている人は、きっと多くない。
そう思った瞬間、指先が震えた。
「リリア」
「はい」
「くすぐったいわ」
「す、すみません」
リリアは慌てて手を離す。
イザベラは服を整えながら、少しだけ目を細めた。
「泣きそうな顔をしている」
「していません」
「そう」
「……痛そうだったので」
「もう痛くないわ」
「嘘です」
「今日はよく言い返すわね」
イザベラの声は柔らかかった。
リリアは俯く。
「すみません」
「謝らない」
「……はい」
イザベラは上着を直し、椅子に座り直した。
「ありがとう。助かったわ」
リリアは胸の奥が苦しくなった。
ありがとう。
助かった。
何度聞いても、慣れない。
でも今夜のそれは、いつもより深いところに落ちた。
「お部屋まで、戻ってください」
リリアは言った。
「命令?」
「お願いです」
「そう」
イザベラは立ち上がる。
少しふらついた。
リリアはすぐに手を伸ばす。
今度は、イザベラも避けなかった。
リリアの手に、ほんの少し体重を預ける。
ほんの少し。
それだけなのに、リリアの心臓はひどくうるさかった。
「あなた、意外と頑固ね」
イザベラが言った。
「そうでしょうか」
「ええ。王宮は見る目がなかったのね」
リリアは顔を上げる。
イザベラは前を向いていた。
横顔しか見えない。
「傷を消せないから偽物、なんて」
イザベラは小さく息を吐いた。
「誰かの痛みにここまでしつこく手を伸ばせる人間を、私は偽物とは呼ばないわ」
リリアは足を止めそうになった。
けれど止まらなかった。
止まったら、何かがこぼれそうだった。
廊下の窓の外で、雪が降っている。
静かな夜だった。
リリアはイザベラを支えながら歩く。
触れている腕が温かい。
その温かさばかり気になって、部屋に着くまで何も言えなかった。




