第5話 包帯を巻く理由
翌日。
イザベラは本当に腕を使わなかった。
少なくとも、朝のうちは。
昼過ぎに治療室へ来た時には、包帯の端が少しずれていた。
リリアはすぐ気づいた。
「イザベラ様」
「何」
「腕を使われましたね」
「少し」
ベルンが奥から顔を出す。
「辺境伯様」
「書類に署名しただけよ」
「左手で?」
「右手は字が汚いの」
「傷が開いたら字どころではありません」
リリアはイザベラの腕を見つめる。
包帯の一部に、薄く血が滲んでいた。
「替えます」
「ベルンが」
「私がやります」
言ってから、自分で驚いた。
イザベラも少し目を見開いた。
リリアは慌てて言葉を足す。
「あの、私が昨日、処置に関わったので。状態を見た方がいいかと」
「そう」
イザベラは椅子に座った。
「なら、お願いするわ」
お願い。
命令ではなかった。
リリアは包帯と薬を用意する。
手袋を外す。
イザベラが腕を差し出す。
昨日より落ち着いている。
でも、やはり傷はある。
リリアは包帯をほどいた。
白い布がゆるりと外れる。
傷口は縫われ、赤みは少し引いていた。だが端の方が開きかけている。
「痛みますか」
「少し」
「少し、は信用できません」
言ってから、リリアは固まった。
自分が昨日、イザベラに言われた言葉だった。
イザベラはしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「覚えがいいわね」
リリアの顔が熱くなる。
「すみません」
「今のは謝らなくていい」
リリアは傷の周りに手を添える。
温かさを流す。
血の滲みが止まる。
痛みが少し和らぐ。
イザベラの肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
リリアはそれを見て、なぜか安心した。
「痛み、引きましたか」
「ええ」
「よかった」
小さく呟いた声は、自分でも思ったより柔らかかった。
イザベラがリリアを見る。
視線に気づいて、リリアは慌てて包帯を取った。
巻く。
丁寧に。
きつすぎないように。
緩すぎないように。
包帯の下には傷がある。
けれど、その傷を覆う時間が、リリアには不思議と嫌ではなかった。
「上手ね」
イザベラが言った。
「ベルン先生に教わりました」
「王宮では?」
「……傷が残るので、手当ての後はすぐ下がるように言われていました」
「そう」
イザベラの声が少し低くなる。
「馬鹿な場所ね」
リリアは包帯の端を結びながら、小さく首を振った。
「王宮にも、理由はあったと思います」
「あなたを偽物と呼ぶ理由?」
「分かりやすい奇跡が、必要だったのだと思います」
「それで、傷を残してでも人を生かす力を捨てた」
イザベラは鼻で笑う。
「綺麗な棺桶でも作りたかったのかしら」
ひどい言い方だった。
でも、なぜかリリアの胸は少し軽くなった。
リリアは包帯の結び目を整える。
「終わりました」
「ありがとう」
その一言で、指先が止まる。
リリアは顔を上げられなかった。
「……はい」
「どうしたの」
「いえ」
「礼を言われ慣れていない?」
返事に詰まる。
イザベラはため息を吐いた。
「慣れなさい」
「……はい」
「あなたの力で助かる人間はいる。礼を言われることもある。いちいち固まっていたら、治療室で石像になるわ」
リリアは思わず笑いそうになった。
今度は少しだけ、笑えた。
イザベラはそれを見て、何も言わなかった。
ただ、包帯を巻かれた腕を軽く上げる。
「悪くないわ」
リリアは、その言葉を胸のどこかにしまった。
王宮で求められた言葉ではない。
本物だとも、聖女だとも言われていない。
ただ、悪くない。
それだけ。
なのに、その日は一日中、手のひらが落ち着かなかった。
◇
それから数日、リリアはイザベラの包帯を替えた。
朝と夕方。
時には昼も。
ベルンが忙しい時は、リリアが呼ばれる。
最初は治療の一環だった。
けれどいつからか、リリアは廊下の足音を聞き分けるようになっていた。
イザベラの歩き方は迷いがない。
踵の音が一定で、少し速い。
治療室の前でそれが止まると、リリアは包帯を用意する前に、もう手袋を外していた。
「待っていたの?」
ある日、イザベラが言った。
「包帯を替える時間ですので」
「そう」
「はい」
「便利な理由ね」
リリアは返事に困った。
イザベラは椅子に座る。
左腕を差し出す。
リリアは包帯をほどく。
傷は少しずつ塞がっていた。
もちろん、痕は残るだろう。
細い線ではない。
はっきりとした傷跡になる。
リリアはそれを見るたび、胸の奥が少し痛んだ。
でも以前のように、ごめんなさいとは言わなくなった。
イザベラが嫌がるから。
それに。
この傷は、この人が生きているから残る。
そう思えるように、少しだけなっていた。
「今日は痛みますか」
「少し」
「その少しは、どれくらいですか」
「あなた、だんだんベルンに似てきたわね」
「それは、良いことですか」
「私にとっては悪いことね」
リリアは小さく笑った。
包帯を巻き直す。
その間、イザベラは静かだった。
リリアは傷の周囲に触れる。
力を使う必要は、もうほとんどない。
けれど、痛みが残っているなら少しだけ和らげたい。
そう思って、指先に温かさを集める。
イザベラがふと息を吐いた。
リリアは顔を上げる。
「痛みましたか」
「逆よ」
「逆?」
「少し、楽になった」
それだけの言葉なのに。
リリアはなぜか、胸の奥を掴まれたような気がした。
自分の力は弱い。
傷は消せない。
それでも、この人の痛みをほんの少し遠ざけられる。
そのことが、嬉しかった。
嬉しいと思った。
思ってしまった。
「リリア」
「はい」
「結び目」
「あ」
包帯の結び目が曲がっていた。
リリアは慌てて直す。
イザベラが小さく笑った。
「珍しいわね」
「何がですか」
「あなたが手元を間違えるの」
「すみません」
「だから、謝らなくていいと言っているでしょう」
リリアは俯く。
包帯を直しながら、心臓の音が少しうるさかった。
イザベラの手袋が机に置かれる音。
椅子を引く音。
腕を差し出される時の、布の擦れる音。
そんなものばかり、最近よく聞こえる。
治療室には他にも音があるのに。
兵士の声。
薬瓶の触れる音。
ベルンの咳払い。
それなのに、イザベラに関わる音だけが、やけにはっきり耳に届く。
リリアは包帯の端を整えた。
「できました」
「ええ」
イザベラは腕を見る。
「綺麗ね」
傷ではなく、包帯の巻き方のことだろう。
それでもリリアは、なぜかまともに顔を上げられなかった。
「ありがとうございます」
声が小さくなる。
イザベラは何も言わなかった。
ただ、外した手袋を取る前に、リリアの手元へ視線を落とした。
「手、冷えているわ」
「大丈夫です」
「大丈夫、も信用していない」
イザベラは自分の右手で、リリアの指先に軽く触れた。
本当に、確かめるだけの触れ方。
すぐ離れる。
それだけだった。
なのに、リリアは動けなくなった。
指先が冷たいのか、熱いのか分からなくなる。
イザベラは何事もなかったように手袋をはめた。
「暖炉に当たりなさい」
「……はい」
「返事が遅い」
「はい」
「よろしい」
イザベラは立ち上がり、治療室を出ていく。
その背中を見送ってから、リリアはようやく息を吐いた。
ベルンが奥から咳払いをした。
「暖炉に当たりなさい」
「はい」
「辺境伯様に言われたからではなく、医師としての指示だ」
「はい」
リリアは暖炉の前に立った。
火は温かい。
でも、指先に残っている熱は、火のせいだけではない気がした。
そんなはずはない。
ただ、少し驚いただけ。
そういうことにした。
◇
その日の夜。
リリアは自室で、机の上に広げた包帯を畳んでいた。
ベルンから練習用にもらったものだ。
端を揃える。
しわを伸ばす。
巻き直す。
何度も繰り返す。
包帯を上手に巻けるようになりたいと思った。
治療のためだ。
そう思う。
怪我人のため。
治療室のため。
ベルンの手伝いのため。
理由はいくつもあった。
けれど、どうしても一人の腕が浮かぶ。
白い肌。
古い傷跡。
新しい裂け目。
包帯を巻かれた左腕。
リリアは手を止めた。
だめだ。
また考えている。
イザベラの傷を。
イザベラの手を。
指先に触れた、一瞬の温かさを。
リリアは深く息を吐いた。
小卓の上には、イザベラから渡された黒い手袋が置いてある。
部屋の明かりの下で見ると、やはり古くは見えない。
大切に使われていたものだ。
リリアはそっと手袋に触れた。
革はもう冷えている。
それなのに、受け取った時の温かさをまだ覚えている気がした。
「……返した方が、いいですよね」
小さく呟く。
誰も答えない。
返した方がいい。
借りたものなのだから。
けれど返そうとすると、いらないのかと聞かれる気がする。
いらなくはない。
むしろ、少し困るくらい、手元にあると落ち着く。
そこまで考えて、リリアは手袋から指を離した。
胸がうるさい。
暖炉もないのに、顔が熱い。
「変です」
自分に言い聞かせるように言った。
変だ。
ただの手袋だ。
ただの包帯だ。
ただの治療だ。
そう思えば思うほど、どれもただのものではなくなっていく。
リリアは畳みかけの包帯を見下ろした。
結び目は、また少し曲がっていた。
◇
数日後。
治療室の前で、リリアは見知らぬ侍女に声をかけられた。
「リリア様」
「様は、やめてください」
「では、リリアさん」
侍女はにこりと笑う。リリアより少し年上だろうか。茶色の髪を後ろでまとめている。
「辺境伯様が、お呼びです」
「イザベラ様が?」
「はい。執務室へ」
執務室。
リリアは少し緊張した。
治療室や自室以外へ呼ばれるのは初めてだった。
侍女に案内され、廊下を進む。
城の奥。
重い扉の前で、侍女が軽くノックする。
「入って」
中から声がした。
リリアは息を整えた。
胸が鳴っている。
それは、執務室に呼ばれたからだ。
きっと。
そういうことにして、リリアは扉の中へ入った。




