第4話 悪女辺境伯の傷
イザベラから渡された手袋は、やはり大きかった。
指先が余る。
包帯を取ろうとすると布に引っかかるし、薬瓶の蓋を開ける時も邪魔になる。正直に言えば、治療室で使うにはあまり向いていない。
それでもリリアは、毎朝その手袋をつけた。
治療室へ向かう廊下は冷える。
石壁の城は、王宮のようにどこもかしこも暖められてはいない。北方の城らしく、必要な場所に必要な火があるだけだ。
だから手袋は役に立った。
役に立った。
そういうことにしておいた。
「それ、辺境伯様のですよね」
治療室で若い兵士に言われ、リリアは包帯を落としかけた。
「え」
「手袋。見覚えがあります」
「古いものだと、うかがいました」
「いや、あれは……」
「黙って腕を出しなさい」
ベルンが横から言った。
兵士は慌てて口を閉じる。
リリアは何も聞かなかったふりをして、兵士の腕に触れた。
小さな切り傷。
血は滲んでいるが、深くはない。
リリアが祈ると、血はすぐ止まった。傷口は少し落ち着き、兵士の顔から力が抜ける。
「助かります」
兵士が言った。
「午後の訓練、これなら出られそうです」
「無理はしないでください」
「それは辺境伯様にも言ってください」
何気ない言葉だった。
リリアは顔を上げる。
「イザベラ様も、無理をされるのですか」
兵士とベルンが、そろって微妙な顔をした。
答えを聞く前に、分かった。
「されるんですね」
「この城で一番聞き分けが悪い患者だ」
ベルンがため息をつく。
「患者、なのですか」
「本人は認めないがな」
その日の夕方、リリアはその意味を知った。
◇
治療室の扉が乱暴に開いた。
兵士が二人入ってくる。
その後ろから、イザベラが歩いてきた。
いつも通りの足取りだった。
背筋は伸びている。
表情も変わらない。
黒い上着には、雪の粒が残っている。
けれど、左腕の袖が裂けていた。
布の下から血が滲んでいる。
リリアは立ち上がった。
「イザベラ様」
「大げさね。掠っただけよ」
ベルンが眉をひそめる。
「掠っただけでその血なら、相手は熊か何かですか」
「熊ならまだ可愛げがあったわ。霜牙竜よ」
治療室の空気が、一瞬止まった。
リリアはその名を知らなかった。
けれど、兵士たちの顔色が変わったことで、それがただの獣ではないのだと分かった。
「霜牙竜ですか」
ベルンの声が低くなる。
「若い個体だったけれど、牙だけは立派だったわ。おかげで上着が一枚駄目になった」
「上着で済んでよかったと言うべきでしょうね」
「私もそう思っているわ」
イザベラは平然と椅子に座った。
その動きで、袖口から血が一筋落ちる。
リリアは息を呑んだ。
傷は浅くない。
裂けている。
刃ではない。牙か、鋭い爪のようなもので引き裂かれた傷だった。
腕の外側に、長く赤い線が走っている。
「ベルン」
イザベラが言う。
「処置を」
「もちろんです。ですが、次からは霜牙竜を“掠っただけ”とは呼ばないでください」
「では何と呼べばいいの」
「重傷です」
「まだ腕は動くわ」
「あなたの基準は医療に向いていません」
ベルンが道具を取る。
その時、イザベラの視線がリリアに向いた。
「あなたも見る?」
「え」
「傷の勉強になるでしょう。王宮では、竜に噛まれた傷を見る機会なんてなかったでしょうから」
勉強。
そう言われて、リリアは返事に詰まる。
見たい、とは思わない。
けれど目を逸らしたくもなかった。
「……はい」
「なら、近くに来なさい」
リリアは椅子の横へ立つ。
ベルンが袖を切り開いた。
傷が露わになる。
赤い。
思ったより深い。
リリアの喉がひゅっと鳴った。
イザベラはその音を聞き逃さなかった。
「怖い?」
「……少し」
「正直ね」
「すみません」
「謝るところではないわ」
ベルンが傷を洗う。
イザベラの眉がわずかに動いた。
ほんの少し。
他の人なら見逃したかもしれない。
けれどリリアには分かった。
痛いのだ。
当たり前だ。
痛くない傷などないと、この人は言った。
「リリア」
ベルンが呼ぶ。
「君の力を使えるか」
「私が、ですか」
「血が止まりやすくなるなら助かる。傷が深い。縫う前に少し落ち着かせたい」
リリアはイザベラを見る。
イザベラは何も言わなかった。
ただ、左腕を少しこちらへ向ける。
許可。
それだけで、リリアの胸が落ち着かなくなった。
「失礼します」
リリアは手袋を外した。
イザベラの手袋ではなく、今はリリアの手を守っていた手袋。
外すと、冷えた空気が指先に触れた。
それでも、傷へ触れる手は熱かった。
イザベラの腕は細くはない。
剣を握る人の腕だった。
白い肌の上に、古い傷跡がいくつも走っている。薄く残った線。少し盛り上がった痕。消えなかった傷の記憶。
リリアはそこに触れないように、新しい傷の周りへ指を添えた。
祈る。
血が止まるように。
痛みが少しでも遠のくように。
この人の腕が、これ以上冷えないように。
温かさが広がる。
傷口の血が、少しずつ落ち着いた。
イザベラの呼吸がわずかに深くなる。
それだけで、リリアはほっとした。
けれど傷は消えない。
やはり、消えない。
赤い裂け目がそこにある。
リリアの力では、閉じきれない。
「……ごめんなさい」
気づいた時には、言っていた。
ベルンの手が止まる。
イザベラがリリアを見る。
「何を謝ったの」
「傷が、残ってしまいます」
「でしょうね」
イザベラは当然のように言った。
「この深さで残らなかったら、その方が気味が悪いわ」
「でも」
「でも?」
「私は、聖女なのに」
言ってから、リリアは唇を噛んだ。
違う。
もう聖女ではない。
王宮でそう言われた。
「……聖女では、ありませんでした」
声が小さくなる。
イザベラは腕を差し出したまま、しばらく黙っていた。
ベルンも何も言わない。
治療室の奥で、湯の沸く音だけがした。
やがて、イザベラが口を開く。
「リリア」
「はい」
「傷が残るくらいで済むなら、十分よ」
リリアは顔を上げた。
イザベラは自分の腕を見ていた。
血の止まりかけた傷。
これから縫われる裂け目。
そして周囲にある古い傷跡。
「私は戦場で、傷が残ることに文句を言う人間を見たことがないわ」
「……」
「死ななかった。腕が動く。明日も剣を握れる。それなら十分」
リリアは何も言えなかった。
王宮では、傷が残ることは失敗だった。
ここでは違う。
傷が残るくらいで済むなら、十分。
その言葉が胸の内側に沈む。
痛いほどではない。
けれど、簡単には消えそうになかった。
「続けて」
イザベラが言う。
「はい」
リリアはもう一度、傷に手を添えた。
消えない。
分かっている。
それでも、血は止まる。痛みは少し引く。縫いやすくなる。
それでいいのだと、この人は言った。
リリアは祈り続けた。
誰かに証明するためではなく。
目の前の人の痛みが、少しでも遠くなるように。
◇
処置が終わる頃には、窓の外は暗くなっていた。
イザベラの腕には白い包帯が巻かれている。
ベルンの縫合は丁寧だった。リリアの力で出血が抑えられたこともあり、傷は安定しているらしい。
「今日はその腕を使わないでください」
ベルンが言う。
「善処するわ」
「絶対に使わないでください」
「善処する」
「辺境伯様」
「あなたは昔からしつこいわね」
「昔からあなたが聞かないからです」
リリアは二人の会話を聞きながら、包帯の端を見ていた。
綺麗に巻かれている。
でも、その下に傷はある。
自分の力では消えなかった傷。
イザベラは椅子から立ち上がる。
その瞬間、わずかに体が傾いた。
「イザベラ様」
リリアは反射的に手を伸ばした。
イザベラの右手を掴む。
手袋を外したままの手。
冷たいと思っていた。
けれど、触れた手は温かかった。
イザベラがリリアを見る。
リリアは慌てて手を離そうとした。
「す、すみません」
「今の謝罪は許すわ」
「え」
「助かったから」
イザベラはそう言って、リリアの手を離さなかった。
ほんの少しの間。
指先と指先が触れている。
リリアは息をするのを忘れた。
それからイザベラが先に手を離す。
「部屋まで送って」
「私が、ですか」
「他に誰がいるの」
治療室にはベルンも兵士もいた。
でもイザベラは、リリアを見ていた。
リリアは頷く。
「はい」
廊下へ出る。
城の中は夜の冷気を帯びていた。
燭台の火が壁に影を作る。
リリアはイザベラの少し横を歩いた。
支えるほどではない。
けれど倒れたらすぐ手を伸ばせる距離。
イザベラは何も言わない。
リリアも何も言えない。
包帯の白さばかり気になった。
あの下に傷がある。
自分が消せなかった傷。
けれど、自分が少しだけ痛みを遠ざけた傷。
「まだ気にしているの」
イザベラが言った。
リリアは肩を震わせる。
「何を、ですか」
「傷」
「……はい」
「しつこいわね」
「すみません」
「謝る癖も、なかなかしつこい」
リリアは口を閉じる。
イザベラは窓の外を見た。
雪が降っている。
細い雪だった。
「私の背中にも傷があるわ」
突然の言葉に、リリアは足を止めかけた。
「え」
「肩にも。脇腹にも。太腿にも」
「……」
「あなたの力で全部消したい?」
リリアは答えられなかった。
消せるなら。
そう思った。
でも、できない。
「消せません」
「そうでしょうね」
イザベラは淡々と言う。
「でも、あの時死ななかったから残っている」
リリアはイザベラの横顔を見る。
「傷跡は嫌いですか」
「邪魔な時はあるわ」
イザベラは少し考えるように間を置いた。
「でも、嫌いではないわね」
「どうして」
「私を殺し損ねたものだから」
言い方は物騒だった。
リリアは一瞬言葉に詰まる。
それから、少しだけ笑いそうになった。
笑っていいのか分からず、下を向く。
イザベラがこちらを見る。
「何」
「いえ」
「笑った?」
「笑ってません」
「そう」
イザベラはそれ以上追及しなかった。
けれど口元が少しだけ緩んでいた。
たぶん。
燭台の明かりのせいかもしれない。
◇
その夜、リリアはなかなか眠れなかった。
寝台に横になっても、治療室の光景が浮かぶ。
イザベラの腕。
古い傷跡。
血。
白い包帯。
そして。
傷が残るくらいで済むなら、十分よ。
その言葉。
リリアは自分の手を見る。
傷を消せない手。
王宮で偽物と呼ばれた手。
でも、イザベラはその手を拒まなかった。
触れさせてくれた。
痛みを少しだけ預けてくれた。
それが、なぜか落ち着かなかった。
嬉しい、とは違う。
怖い、でもない。
胸の奥に、小さな棘が引っかかったような感じだった。
取ろうとすると、余計に気になる。
リリアは寝返りを打つ。
椅子の上には、イザベラから渡された黒い手袋が置いてある。
明日、返した方がいいだろうか。
でも、返すと言ったら、いらないのかと聞かれそうだ。
いらなくはない。
そこまで考えて、リリアは布団を少し引き上げた。
何を考えているのだろう。
ただの手袋だ。
ただの借り物。
ただ、指先にまだ温かさを覚えているだけ。
それだけ。
そう思おうとしても、眠りはなかなか来なかった。




