第3話 傷が残っても、十分だと言った
治療室には、薬の匂いが満ちていた。
王宮の医療室とは違う。
あちらは白く、清潔で、静かだった。薬草の匂いも、湯気も、血の匂いも、どこか薄く整えられていた。
けれど、ここは違う。
棚には包帯、薬瓶、針、清潔な布。暖炉の近くでは湯が沸いている。壁際には使い込まれた椅子が並び、寝台の上では数人の兵士が手当てを受けていた。
血の匂いがする。
薬の苦い匂いがする。
ここでは傷が、隠されていない。
リリアは入口で足を止めた。
イザベラが隣から声をかける。
「怖い?」
リリアは少し迷った。
嘘をつけば、すぐ見抜かれる気がした。
「……少し」
「そう」
イザベラはそれ以上、笑わなかった。
責めもしなかった。
「怖いまま見なさい。傷を見て怖くない人間の方が、私は信用できないわ」
その言葉に、リリアは顔を上げた。
イザベラはもう治療室の奥へ歩き出していた。
医師らしい老人が顔を上げる。
「辺境伯様」
「この子を見せに来たわ」
「例の?」
「ええ」
老人の目がリリアへ向く。
リリアは反射的に頭を下げた。
「リリア・ノルンです」
「医師のベルンだ。無理はしなくていい」
無理はしなくていい。
ここに来てから、その言葉を何度聞いただろう。
それでも、聞くたびに落ち着かない。
無理をしないなら、何で自分はここにいるのだろうと思ってしまう。
イザベラが近くの寝台を指した。
「浅い傷はある?」
「あります。昨日の見回りで腕を切った者が」
ベルンが若い兵士を呼んだ。
兵士は緊張した顔で袖をまくる。
腕に切り傷があった。
王宮で見せられたものより、少し深い。だが命に関わるほどではない。
リリアの指先が冷たくなる。
まただ。
また、傷を消せと言われる。
傷が残れば、失望される。
偽物だと、ここでも思われる。
「リリア」
イザベラが呼んだ。
リリアは顔を上げる。
「消せとは言わない」
「……え」
「あなたができることを見せなさい。できないことは、できないと言えばいい」
リリアは言葉を失った。
そんな試し方をされたことはなかった。
本物ならできるはずだ。
聖女なら証明しろ。
王宮では、いつもそうだった。
リリアは兵士の前に立つ。
「触っても、いいですか」
「あ、はい」
兵士はぎこちなく頷く。
リリアは傷へ手を添えた。
祈る。
強くではない。
血が止まるように。
痛みが少しでも和らぐように。
傷が悪くならないように。
温かさが広がる。
兵士の肩から力が抜けた。
「あれ」
「痛みは?」
「さっきより、だいぶ楽です」
ベルンが傷を覗き込む。
「血も止まったな。熱も少し引いている」
リリアは手を離した。
傷は残っていた。
赤い線。
薄いかさぶた。
いつも通り。
「すみません」
口から勝手に出た。
部屋の空気が少し止まる。
リリアは続ける。
「これ以上は、できません。傷は、残ります」
兵士は目を丸くした。
「いや、謝られることでは」
「でも」
「痛みが引きました。助かります」
助かります。
リリアはその言葉を、すぐには理解できなかった。
傷が残っているのに。
消えていないのに。
ベルンが頷いた。
「十分だ」
「……十分?」
「出血が早く止まり、痛みが引く。それだけで治療はかなり楽になる。化膿の兆しも弱まるなら、なおさらだ」
ベルンはリリアの手を見た。
「王宮は、これを何と?」
リリアは小さく答える。
「偽物、と」
治療室に、嫌な沈黙が落ちた。
イザベラが笑った。
楽しそうではなかった。
「王宮の目は節穴でできているのね」
リリアは驚いてイザベラを見る。
「ですが、私は傷を消せません」
「消す必要がどこにあるの」
イザベラは兵士の腕を顎で示した。
「その子は明日、腕を失う?」
「いえ」
「痛みで眠れない?」
兵士が慌てて首を振る。
「眠れそうです」
「なら十分よ」
リリアの胸に、何かが落ちた。
冷たいものではなかった。
温かいものでもなかった。
ただ、重かった。
十分。
その言葉を、リリアは初めて自分の力に向けられたものとして聞いた。
◇
その日から、リリアは治療室へ通うようになった。
最初は見学だけ。
次に、ベルンの補助。
それから、浅い傷への処置。
リリアの力は、やはり弱かった。
切り傷は消えない。
打撲も残る。
古傷にはほとんど効かない。
けれど兵士たちは嫌がらなかった。
「痛みが引くならありがたい」
「夜に眠れるだけで違う」
「血が止まるのが早いと、医師殿に怒られずに済む」
最後の言葉には、ベルンが眉を吊り上げた。
兵士たちは笑った。
リリアは笑えなかった。
笑っていいのか分からなかった。
それでも、少しだけ息がしやすくなった。
王宮では、傷が残るたびに空気が重くなった。
ここでは違う。
傷は残る。
包帯も巻く。
薬も塗る。
それでも、ありがとうと言われる。
夕方。
治療室の片付けをしていると、ベルンが声をかけた。
「リリア」
「はい」
「今日はここまでだ」
「まだできます」
「できる、は信用しないことにしている」
聞き覚えのある言い方だった。
リリアは少しだけ目を瞬かせる。
ベルンは薬瓶を棚へ戻しながら言った。
「辺境伯様も同じことを言うだろう」
「はい」
「なら、私も言う。休め」
「……はい」
リリアは小さく頷いた。
治療室を出る。
廊下は、もう夜の冷気を帯びていた。
石壁の城は、王宮のようにどこもかしこも暖められてはいない。北方の城らしく、必要な場所に必要な火があるだけだ。
歩くたび、借り物の靴が小さく音を立てる。
少し大きい。
でも、王宮から履いてきた靴よりずっと歩きやすかった。
廊下の先に、イザベラがいた。
窓辺に立ち、手袋を外している。
黒い革手袋。
片方を外し、もう片方を引き抜く。
その音を、リリアはなぜかはっきり聞いた。
「終わった?」
「はい」
「倒れなかったのね」
「倒れません」
「それはよかった」
言葉だけ聞けば冷たい。
でも、イザベラの視線はリリアの足元を見ていた。
靴擦れがないか、確かめているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「手を」
イザベラが言った。
「手?」
「見せなさい」
リリアは慌てて両手を出した。
イザベラはその指先を見る。
凍傷になりかけていた部分は、まだ少し赤い。
「痛む?」
「少しだけです」
「少し、は信用しないことにしているわ」
イザベラは自分の手袋を片方、リリアの手に押しつけた。
「え」
「明日から治療室に行く時は手を冷やさないこと」
「でも、これは」
「古いものよ」
どう見ても古くなかった。
革はしっかりしているし、縫い目も綺麗だ。
リリアが返そうとすると、イザベラが目を細めた。
「いらない?」
「い、いります」
「なら持っていなさい」
イザベラはそう言って、もう片方の手袋も渡してきた。
リリアは両手で受け取る。
革はまだ少し温かかった。
イザベラの手の形が、内側に残っている気がした。
なぜか、胸が変なふうに鳴る。
「顔が赤いわ」
「暖炉のせいです」
「ここに暖炉はないけれど」
「……歩いたので」
イザベラは少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
でも、すぐにいつもの顔に戻った。
「無理をしたら治療室への出入りを禁じるわ」
「はい」
「返事が早い人間ほど信用できない」
「……気をつけます」
「よろしい」
イザベラは歩き出す。
その背中を、リリアは見送った。
手の中には、黒い革手袋。
大きさは合わない。
少し余る。
けれど、なぜか手放せなかった。
◇
部屋へ戻ってからも、リリアはしばらく手袋を見ていた。
小卓の上に置いてみる。
また手に取る。
内側に指を入れて、すぐに抜く。
馬鹿みたいだと思った。
ただの手袋だ。
古いものだと、イザベラは言った。
けれど、古くは見えない。
それに。
ほんの少し前まで、あの人がつけていた。
そこまで考えて、リリアは慌てて手袋を小卓へ戻した。
胸がうるさい。
暖炉のせいではない。
歩いたせいでもない。
では何のせいなのか。
分からなかった。
リリアは寝台に腰掛け、自分の手を見る。
傷を消せない手。
王宮で偽物と呼ばれた手。
でも、今日初めて、十分だと言われた手。
助かると言われた手。
手袋は小卓の上で、静かに夜の明かりを受けている。
意味はない。
ただの手袋だ。
そう思おうとした。
けれど、指先に残った温かさが、なかなか消えなかった。




