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第2話 悪女辺境伯は優しくしない


 最初に感じたのは、柔らかさだった。


 背中が沈む。


 指先が痛い。


 痛い、と思えたことに、リリアは少し驚いた。


 雪の中では、痛みさえ遠くなっていた。体が自分のものではなくなって、寒いのか苦しいのかも分からなくなっていた。


 今は違う。


 指先がじんじんする。

 足の裏が熱を持っている。

 喉がひりつく。


 生きている。


 そのことだけが、やけにはっきりしていた。


 リリアはゆっくり目を開けた。


 知らない天井だった。


 王宮の白い天井ではない。装飾もない。石造りの部屋。壁には厚手の布が掛けられ、窓には重そうな帳が下りている。


 暖炉の火が燃えていた。


 ぱち、と薪の爆ぜる音がする。


 寝台の上だった。


 自分は寝台に寝かされている。


 そのことを理解した瞬間、リリアは跳ね起きようとした。


「起きない」


 声が飛んだ。


 低く、よく通る声。


 リリアの体が勝手に止まる。


 寝台の横。


 椅子に腰掛けていた女が、こちらを見ていた。


 黒い髪。

 鋭い目。

 背筋の伸びた姿勢。


 昨日、雪の中で見た黒い外套の女。


 けれど今、その外套は彼女の肩にはなかった。


 部屋の隅、椅子の背に掛けられている。雪で濡れたのだろう。暖炉の近くに置かれていた。


 リリアはそれを見て、ようやく思い出す。


 あの外套は、自分に掛けられていた。


「……申し訳、ありません」


 声がかすれた。


「何に対して?」


「外套を、汚してしまって」


 女は一瞬だけ黙った。


 それから、ひどく面倒そうに眉を寄せた。


「あなた、目が覚めて最初に言うことがそれなの」


「すみません」


「謝罪を重ねるな。病人の声は聞き取りにくいのよ」


 病人。


 リリアはその言葉に戸惑った。


 自分が病人として扱われている。


 働く者でも、聖女候補でも、偽物でもなく。


 ただの病人として。


「私は……」


「リリア・ノルン」


 女が先に言った。


 リリアは息を呑む。


「どうして」


「鞄の中に、王宮の退去証が入っていたわ。雑な紙だったけれど、名前くらいは読めた」


 退去証。


 追放状ではなく。


 退去証。


 王宮らしい言い方だった。


「あなたが、イザベラ・グランヴェイル様、ですか」


「そうよ」


 女は頬杖をつく。


「悪女辺境伯。北の毒婦。冷血女傑。好きな呼び名を選びなさい」


「そんな」


「王都の人間はそう呼ぶのでしょう」


 リリアは何も言えなかった。


 否定できない。


 実際に、聞いたことがある。


 イザベラは目を細めた。


「正直でいいわね」


「……すみません」


「また謝った」


 リリアは口を閉じる。


 イザベラは椅子から立ち上がった。


 背が高い。


 歩くだけで、部屋の空気が少し変わる。


 リリアの体がこわばった。


 叱られる。


 そう思った。


 けれどイザベラは、寝台脇の小卓から杯を取っただけだった。


「飲める?」


「はい」


「なら飲みなさい」


 差し出された杯を受け取る。


 中身は薄い薬湯だった。少し苦い。だが温かい。喉を通るたび、体の奥に熱が戻ってくる。


 リリアは両手で杯を包んだ。


 指先が震えている。


 それを見たイザベラが、少しだけ目を伏せた。


「手は凍傷になりかけていたそうよ。足も。しばらく無理はさせない」


「無理は」


「させないと言ったの」


 言い方は鋭い。


 けれど内容は、休めという意味だった。


 リリアは落ち着かなかった。


「でも、私、働けます」


 イザベラの視線が止まる。


「何?」


「傷なら、少しだけ癒やせます。完全には無理ですけど、血を止めたり、痛みを少し和らげたりなら。だから、ここに置いていただけるなら、何か」


「寝ていなさい」


 言葉は短かった。


 リリアは肩を震わせた。


「すみません。出過ぎたことを」


「違うわ」


 イザベラはため息をつく。


「今のあなたにできる仕事は、寝ることだけだと言っているの」


「……寝ることが、仕事ですか」


「ええ。下手そうだけれど」


 リリアは返す言葉を失った。


 王宮では、熱があっても祈った。

 足を痛めても歩いた。

 眠れなくても朝は来た。


 寝ることを仕事だと言われたことは、一度もなかった。


 イザベラは小卓に空の杯を置く。


「食事を運ばせる。食べられる分だけ食べなさい。吐くなら無理をしなくていい」


「はい」


「部屋の鍵は内側からかけられる。外には護衛を置くけれど、あなたを閉じ込めるためじゃない。王宮の追手が来ないとも限らないから」


 リリアは思わず顔を上げた。


「追手、ですか」


「追い出したものを惜しくなる人間はいるわ」


 イザベラの声に、かすかな棘が混じった。


「特に王宮はね」


「でも、私は偽物です」


「そう」


 イザベラは否定しなかった。


 リリアの胸が少し痛む。


 そうだ。


 この人も、まだ何も知らない。


 自分がどれほど役に立たないか。


 擦り傷ひとつ、綺麗に消せないことを。


「なら、偽物は寝ていなさい」


 イザベラはそう言った。


 リリアは瞬きをする。


「偽物でも、凍れば死ぬわ」


 イザベラは扉へ向かう。


 出ていく直前、椅子の背に掛けられた黒い外套へ視線を向けた。


 外套の裾は濡れている。雪と泥で汚れていた。


 リリアはまた謝りそうになった。


 けれど、言えば怒られそうだった。


 唇を噛んで黙る。


 イザベラはそれに気づいたのか、気づかなかったのか。


「外套より、あなたの方が乾きにくそうだったわ」


 それだけ言って、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 リリアはしばらく、その扉を見ていた。


 怖い人だった。


 声も、目も、言葉も。


 なのに。


 胸の上に残った薬湯の温かさが、なかなか消えなかった。


     ◇


 食事は、本当に運ばれてきた。


 温かいスープ。

 柔らかいパン。

 煮込んだ野菜。

 薄く切った肉。


 王宮の食事より豪華ではない。


 けれど、ずっと食べやすかった。


 運んできた侍女は、ふくよかな中年の女性だった。名前をマルタといった。


「食べられる分だけでいいですよ」


 マルタはそう言って、寝台の横に椅子を引いた。


「辺境伯様から、無理に食べさせるなと申しつかっていますからね」


「……イザベラ様が」


「ええ。あの方、言い方はあれですけどね。中身まであれだったら、私たちとっくに逃げてますよ」


 マルタはからりと笑った。


 リリアはスープを口に運ぶ。


 温かい。


 ただそれだけで、喉が詰まりそうになった。


「泣くなら、食べてからにした方がいいですよ」


「泣いてません」


「そうですか。では、湯気のせいですね」


 マルタは何も見なかったように言った。


 リリアは俯いたまま、スープを飲んだ。


 泣くつもりはなかった。


 ただ、湯気が目にしみた。


 そういうことにしておいた。


     ◇


 三日間、リリアは部屋から出されなかった。


 正確には、出ようとすると止められた。


 熱がある。

 足が腫れている。

 指先の色が悪い。


 理由はいくつもあった。


 リリアはそのたびに、何度も謝った。


 マルタはそのたびに、はいはい、と笑った。


 イザベラは一日に一度だけ部屋に来た。


 長居はしない。


 体調を聞く。

 薬湯を飲んだか確かめる。

 食事の量を聞く。

 外套のことを謝ろうとすると、目だけで黙らせる。


 マルタは、イザベラが来るたびに少しだけ面白そうな顔をした。


 リリアには、その理由が分からない。


 イザベラは怖い。


 冷たい。


 言葉もきつい。


 けれど、その人が来た日は、薬湯が少し飲みやすい温度になっている。食事の量も、前日より少しだけ少なく調整されている。


 きっと、マルタが気を利かせているのだろう。


 そう思うことにした。


 四日目の朝。


 リリアはようやく寝台から下りる許可をもらった。


 足元には新しい靴が置かれていた。


 黒い革の、丈夫そうな靴。


「私のでは」


「あなたのよ」


 マルタが言った。


「辺境伯様が用意されました」


「そんな、困ります。お返しできるものが」


「では、ちゃんと履いて歩いてください。それが一番のお返しです」


 リリアは靴を見下ろした。


 王宮から履いてきた靴は、どこにもなかった。


「古い靴は」


「捨てました」


「捨て」


「穴が開いていましたから」


 マルタは当然のように言う。


「雪道をあれで歩かせた人間の顔を、一度見てみたいものです」


 リリアは何も言えなかった。


 靴に足を入れる。


 少し大きい。


 けれど厚手の靴下を履けば、ちょうどよかった。


 歩ける。


 そのことが、少し怖かった。


 歩けるなら、働かなければならない。

 働けるなら、役に立たなければならない。


 リリアは立ち上がる。


「何か、お仕事はありますか」


 マルタが困った顔をした。


「そう来ましたか」


「私は、ここに置いていただいています。だから」


 扉が開いた。


 イザベラだった。


 黒い上着。革の手袋。腰には細身の剣。


 朝からどこかへ出ていたのか、肩に雪が残っている。


「ちょうどいいわ」


 イザベラはリリアを上から下まで見た。


「立てるのね」


「はい」


「なら、来なさい」


 リリアは背筋を伸ばす。


「仕事ですか」


「見学よ」


「見学」


「あなたが本当に傷を癒やせるのか、私の目で見る」


 リリアの喉が鳴った。


 来た。


 そう思った。


 また試される。


 傷を消せず、失望される。


 分かっているのに、足は動いた。


 イザベラの後ろについて、部屋を出る。


 廊下は王宮ほど明るくない。


 石壁。古い燭台。厚い絨毯。窓の外は雪。


 城というより、砦に近かった。


 ここは国境山脈へ続く道を守るグランヴェイル領。


 王都の貴族たちが、寒く、荒く、血の匂いがする土地だと笑っていた場所。


 リリアはその廊下を、借り物の靴で歩いていた。


 途中で兵士たちとすれ違う。


 彼らはイザベラを見ると姿勢を正した。


「辺境伯様」


「巡回は」


「北門、異常ありません」


「南の倉は」


「雪下ろしを始めています」


「遅い。昼までに終わらせなさい」


「はっ」


 言葉は厳しい。


 だが兵士たちの顔に怯えはなかった。


 王宮でイザベラの噂をしていた貴族たちの方が、よほど彼女を怖がっていたかもしれない。


 リリアはそんなことを思った。


 やがて、薬の匂いがする部屋に着いた。


 イザベラが扉の前で足を止める。


「ここが治療室よ」


 リリアは息を呑んだ。


 傷。


 血。


 包帯。


 そして、また自分の力を見られる場所。


 指先が冷たくなる。


 イザベラは扉に手をかけたまま、振り返った。


「先に言っておくわ」


「はい」


「傷を消せとは言わない」


 リリアは顔を上げた。


 イザベラの目は、まっすぐだった。


「あなたができることを見せなさい。できないことは、できないと言えばいい」


 そんな試し方をされたことはなかった。


 だからリリアは、すぐには返事ができなかった。


 イザベラはそれ以上何も言わず、治療室の扉を開けた。


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