第1話 偽物聖女は雪に沈む
その傷は、どう見ても浅かった。
若い騎士の腕に走る、細い切り傷。訓練用の刃でついたものだろう。深くはない。血も、もう半分ほど止まりかけている。
大聖堂の中央。
白い石床の上に立たされたリリア・ノルンは、その傷を見つめていた。
「さあ」
王太子エリオットが言った。
「見せてみろ」
大聖堂には貴族たちが集まっていた。
神官たちもいる。騎士たちもいる。侍女たちも、壁際に並んでいる。
誰もがリリアを見ていた。
聖女候補リリア・ノルン。
十五の頃から王宮で育てられた少女。
けれど今日、その肩書きは失われようとしていた。
リリアは騎士の前へ進む。
指先が震えていた。
騎士は気まずそうに目を逸らす。彼に罪はない。傷を差し出すよう命じられただけだ。
「失礼します」
リリアは小さく言って、傷口に指を添えた。
皮膚は冷たい。
傷の周りだけが、少し熱を持っている。
目を閉じる。
祈る。
強くではない。
この傷が悪くならないように。
血が止まるように。
痛みが少しでも和らぐように。
指先に温かさが集まる。
光ではなかった。
眩い奇跡でもなかった。
冬の日向に手をかざした時のような、ほんの少しの温もり。
騎士が息を吐いた。
「あ……」
滲んでいた血が止まる。
赤く開いていた傷口が、少しだけ落ち着く。
痛みも引いたのだろう。騎士の眉間から力が抜けた。
けれど。
傷は消えなかった。
細い赤い線が残っている。
薄いかさぶたが浮かんでいる。
誰の目にも分かった。
治っていない。
大聖堂に沈黙が落ちた。
そして、誰かが笑った。
小さな笑いだった。
けれど静かな場所では、よく響いた。
「終わりか」
エリオットの声は冷たかった。
リリアは唇を噛む。
「……はい」
「傷は残っている」
「ですが、痛みは」
「傷は残っている」
言葉を遮られる。
リリアは俯いた。
分かっている。
ずっと言われ続けてきた。
聖女なら傷を消せ。
聖女なら跡を残すな。
聖女なら、誰の目にも分かる奇跡を見せろ。
けれどリリアにはできなかった。
血は止められる。
痛みも、ほんの少し和らげられる。
傷が膿みにくくなることもある。
でも、傷は残る。
どんな小さな擦り傷でも。
必ず。
「ミレーユ」
エリオットが呼んだ。
金髪の少女が前へ出る。
ミレーユ・ラナン。
数日前に王宮へ招かれた、新たな聖女候補。
彼女は両手を胸の前で重ねた。
次の瞬間、淡い光が溢れた。
息を呑む声。
歓声。
拍手。
白く美しい光が、大聖堂を満たしていく。壁に反射し、祭壇の金細工を照らし、貴族たちの顔を明るく染めた。
リリアも、思わず見惚れてしまった。
綺麗だった。
本当に。
それだけは、認めるしかなかった。
「これこそ聖女の証だ」
エリオットは断言した。
ミレーユは傷を癒やしてはいない。
騎士の腕には、まだリリアが残したかさぶたがある。
けれど、誰もそこを見ていなかった。
人々は光を見ていた。
光は分かりやすい。
誰にでも。
「リリア・ノルン」
その声を聞いた瞬間、リリアは悟った。
終わったのだと。
「お前は偽物だ」
大聖堂が静まり返る。
「お前の力は奇跡ではない。ただのまやかしだ」
まやかし。
リリアは自分の指先を見た。
まだ少し温かい。
あの騎士の痛みは、たぶん引いている。
血も止まっている。
でも、それは奇跡ではないのだと言われた。
「真の聖女はミレーユ・ラナンである」
ミレーユが少し顔を伏せた。
彼女は笑っていなかった。
それが救いなのか、余計に苦しいのか、リリアには分からなかった。
「本日をもって、お前を聖女候補の任から解く」
誰も反対しなかった。
神官も。
貴族も。
騎士も。
誰も。
リリアはただ頭を下げた。
「申し開きはあるか」
長い沈黙。
言葉はいくつも浮かんだ。
訓練場で転んだ見習い騎士の膝。
厨房で包丁を滑らせた下働きの指。
兵舎で夜通し痛みに唸っていた負傷兵の肩。
全部、傷は残った。
でも、血は止まった。
痛みは少し引いた。
熱を持つ前に済んだものもあった。
言えることはあった。
けれど、どれも証明にならない。
傷が消えなければ、意味がない。
王宮では、そうだった。
「……ございません」
そう答えた。
エリオットは頷いた。
「では、王都から去れ。聖女を騙った罪は重い。本来なら牢に入れるべきところだが、これまで王宮に仕えていたことを考慮し、追放に留める」
「……ご慈悲に、感謝いたします」
自分で言って、胸の奥が少し冷えた。
ご慈悲。
そう呼ぶしかなかった。
リリアはもう一度頭を下げる。
拍手が起きた。
ミレーユを祝福する拍手だった。
リリアを追い出すための拍手ではない。
たぶん。
そういうことにしておいた。
◇
王宮を出る時、持たされた荷物は小さな鞄一つだった。
着替え。
古い外套。
少しの硬いパン。
それだけ。
祈祷書は没収された。
傷の記録をつけていた帳面も没収された。
王宮の財産だから、という理由だった。
帳面には、誰のどの傷がどれくらいで塞がったかを書いていた。
血が止まるまでの時間。
痛みが戻るまでの時間。
かさぶたが剥がれるまでの日数。
役に立たない記録だと、何度も笑われた。
それでも、リリアにとっては大事なものだった。
最後まで返してはもらえなかった。
裏門の前で、騎士が言う。
「北へ行け」
「……はい」
「もう戻るな」
門が閉まる。
重い音だった。
リリアはしばらく立ち尽くした。
王宮の白い壁を見上げる。
十五から過ごした場所。
笑ったこともある。
泣いたこともある。
けれど振り返って思い出すのは、誰かの傷を手当てしていた時間ばかりだった。
それが少しおかしかった。
リリアは小さく息を吐いた。
そして、歩き出す。
北へ。
国境山脈へ続く街道の方へ。
悪女辺境伯が治める、グランヴェイル領の方へ。
◇
雪が降り始めたのは、昼過ぎだった。
最初は小さかった。
けれど時間が経つほど強くなる。
風も冷たい。
外套は薄い。
靴は王宮の廊下を歩くためのものだ。雪道には向いていない。
それでも歩いた。
立ち止まったら、もう動けなくなる気がした。
夕方。
街道脇で小さな声が聞こえた。
「た、助けて……」
旅人だった。
荷車の横に倒れている。
足を怪我していた。
リリアは足を止める。
裂傷。
深くはない。
でも泥が入っている。放っておけば悪くなる。
もう聖女ではない。
偽物なのだ。
勝手に人を癒やしていいのかも分からない。
それでも、放ってはおけなかった。
リリアは膝をつく。
「少し触ります」
旅人は震えながら頷いた。
リリアは傷へ手を添える。
温かさが指先に集まる。
血が止まる。
痛みが少し引く。
傷口の赤みが、ほんの少しだけ落ち着く。
けれど傷は残る。
かさぶたになる。
それだけ。
「……すごい」
旅人が呟いた。
リリアは首を振る。
「全然です」
「いや、痛くなくなった」
「でも、治ってはいません。なるべく早く町で手当てを受けてください。布を替えて、傷を洗って、それから……」
言いかけて、口を閉じた。
もう、自分には何もない。
薬も、道具も、王宮の医療室もない。
リリアは外套の裾を少し裂いた。
手がかじかんで、うまく結べない。
それでも何とか足を固定する。
旅人は何度も礼を言った。
「あなたは、聖女様ですか」
リリアは息を止める。
雪が、二人の間に落ちていく。
「……違います」
そう答えた。
旅人は不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。
彼が杖代わりの枝をついて南へ戻っていくのを、リリアは見送った。
外套の裾から、冷たい風が入ってくる。
馬鹿だな、と思った。
自分の外套を裂く余裕なんて、どこにもなかった。
でも。
あの人の血は止まった。
それだけは、たしかだった。
◇
夜になる頃、限界が来た。
寒い。
足が痛い。
指先の感覚がない。
雪はますます強くなる。
道も見えない。
リリアは木にもたれかかった。
そのまま、ずるずると座り込む。
少しだけ。
少しだけ休もう。
そう思った。
瞼が重い。
眠ってはいけない。
それだけは分かる。
けれど体が動かない。
雪が肩に積もる。
冷たい。
はずなのに、だんだん分からなくなる。
遠くで音がした。
馬。
蹄。
人の声。
「止めなさい」
女の声だった。
低く、よく通る声。
誰かが近づいてくる。
黒い影が視界に入った。
長い外套。
黒い手袋。
雪の中でも乱れない姿勢。
「……まだ生きてるわね」
女が言った。
「辺境伯様」
後ろから別の声がする。
「この者は」
「行き倒れでしょう」
「放っておきますか」
「馬鹿ね」
女は即答した。
「目の前で凍られると寝覚めが悪いわ」
ひどい言い方だった。
けれど次の瞬間、リリアの肩に重いものが掛けられた。
毛布ではない。
冷えた革の匂い。
雪の匂い。
かすかに混じる、火と鉄の匂い。
誰かの外套だった。
「辺境伯様、それは」
「黙っていなさい」
「ですが、その外套は」
「この娘より外套の心配をするなら、あなたを馬車の外に吊るすわよ」
女の声は冷たい。
でも、肩に掛けられた外套は厚かった。
リリアの体が、少しだけ重みに沈む。
「名前は」
女が聞く。
リリアは答えようとした。
声が出ない。
「まあいいわ」
女はため息を吐いた。
「死ぬなら領地の外で死になさい。面倒だから」
また、ひどい言葉。
なのに、リリアの体は抱き上げられた。
鞄も拾われる。
リリアは馬車へ運ばれる。
座席に寝かされる。
黒い外套が、もう一度体の上に掛け直される。
冷えていたはずなのに、内側には少しだけ温もりが残っていた。
女が腰を屈める。
鋭い目が近づいた。
「飲める?」
唇に、水筒の口が触れる。
ぬるい水だった。
リリアは少しだけ飲んだ。
喉が痛む。
「よし」
女が短く言う。
「寝なさい」
命令だった。
けれど王宮で聞いたどんな命令より、拒めないほど静かだった。
リリアは目を閉じる。
意識が沈んでいく。
最後に見えたのは、馬車の灯りと、黒い外套の持ち主の横顔だった。
噂の悪女辺境伯。
イザベラ・グランヴェイル。
北の毒婦。
冷血女傑。
国境山脈の魔物すら退ける女。
その人は、外套を失くした肩を雪に晒したまま、リリアを見下ろしていた。
悪女は、人を拾わないはずなのに。
そう思ったところで、リリアの意識は途切れた。




