第10話 傷跡は残る
処置が終わった時、リリアは床に座り込んでいた。
倒れた、というより、座らされたのだと思う。
体に力が入らない。
手のひらは熱を持っているのに、指先は冷たい。
ベルンがイザベラの容体を確かめている。
マルタが血に濡れた布を片付けている。
兵士たちは息を潜めるように立っていた。
イザベラは眠っていた。
胸が上下している。
小さく。
けれど、確かに。
「生きて、いますか」
リリアの声は掠れていた。
ベルンがこちらを見る。
「ああ」
その一言で、リリアの肩から力が抜けた。
「生きている」
ベルンはもう一度言った。
「君が繋いだ」
リリアは首を振る。
「私は、治せていません」
「治したとは言っていない」
ベルンは静かに言った。
「繋いだと言った」
リリアは寝台を見る。
イザベラの肩から胸にかけて、厚い包帯が巻かれている。脇腹にも。白い布の下には、深い傷がある。
痕は残るだろう。
きっと、はっきりと。
リリアはそれを思って、唇を噛んだ。
でも今度は、ごめんなさいとは言わなかった。
言ったら、イザベラに怒られる気がしたから。
「リリアさん」
マルタが膝をつく。
「少し休みましょう」
「ここにいます」
「ですが」
「ここに、いたいです」
マルタは何か言いかけて、やめた。
代わりに、リリアの肩へ外套を掛ける。
黒い外套ではない。
城の誰かの予備の外套。
それでも温かかった。
「では、倒れないように座っていてください」
「はい」
リリアは寝台の横に座った。
イザベラの手が、布の上に出ている。
血は拭かれていた。
けれど爪の間に少し残っている。
リリアはそっと、その手に触れた。
許可はない。
けれど、今だけは。
ほんの少しだけ。
イザベラの指は冷えていた。
リリアは両手で包む。
力はもうほとんど残っていない。
痛みを和らげるほどの温かさも、たぶん出せない。
それでも、握っていたかった。
「戻るって、言いましたから」
小さく言う。
「ちゃんと、戻ってきてください」
イザベラは答えない。
けれど胸は上下している。
それだけを見て、リリアは夜を越した。
◇
イザベラが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
リリアは寝台の横で、半分眠りかけていた。
手はまだ握っていた。
いつの間にか、握り返されていた。
ほんのわずかに。
気のせいかと思うくらいに。
「……顔がひどいわ」
かすれた声がした。
リリアは跳ね起きた。
「イザベラ様」
「声もひどい」
「目が覚めたんですか」
「見れば分かるでしょう」
いつもの言い方だった。
リリアの目から、涙が落ちた。
ぽろりと。
我慢する暇もなかった。
イザベラが眉を寄せる。
「泣くなら」
「包帯はもう巻き終わっています」
リリアは震える声で言った。
イザベラが一瞬黙る。
それから、ほんの少し口元を緩めた。
「そうね」
「本当に、死ぬかと」
「死んでいないわ」
「知っています」
「なら泣かなくていい」
「無理です」
リリアはイザベラの手を握ったまま、俯いた。
「傷が、残ります」
「でしょうね」
「深く、残ります」
「そうでしょうね」
「私、やっぱり、治せませんでした」
言ってしまった。
イザベラはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり指を動かす。
リリアの手を、弱く握る。
「リリア」
「はい」
「私は、生きているわ」
リリアは顔を上げる。
イザベラの顔色はまだ悪い。
唇も白い。
それでも目は、まっすぐだった。
「あなたは、私を死なせなかった」
リリアの喉が震える。
「それでも足りない?」
「……足ります」
「なら、謝らない」
「はい」
「泣くのは、少しなら許すわ」
リリアは笑いそうになって、また泣いた。
イザベラは困ったように息を吐く。
けれど手は離さなかった。
◇
王宮から正式な使者が来たのは、その三日後だった。
イザベラはまだ寝台から起き上がれなかった。
それでも執務室へ行こうとして、ベルンとマルタとリリアの三人に止められた。
結果、使者は静養室へ通された。
王宮の紋章をつけた男は、リリアを見るなり、わずかに表情を変えた。
リリアは寝台の横に立っていた。
イザベラの包帯を替えたばかりだった。
その手には、まだ薬の匂いが残っている。
「リリア・ノルン殿」
使者が言った。
「王太子殿下より正式な命が下りました。あなたを王宮へ召還いたします」
召還。
静養室の空気が冷える。
イザベラが寝台の上で目を細めた。
「呼び方だけは立派ね」
使者は少し顔を強張らせる。
「王国東部、西部、南境においても魔物被害が増加しております。王宮医療班はすでに各地へ派遣され、深刻な人手不足に陥っています。リリア殿の治癒能力は、戦地治療において有用であると判断されました」
有用。
リリアはその言葉を静かに聞いた。
聖女ではなく。
本物でもなく。
有用。
王宮はやはり、リリアを道具として必要としている。
「殿下は寛大にも、過去の件を不問にすると」
「寛大」
イザベラが低く言った。
リリアは一歩前に出た。
イザベラが何か言う前に。
「私は、王宮には戻りません」
声は震えなかった。
自分でも少し驚いた。
使者が眉をひそめる。
「意味を理解しておられますか」
「はい」
「王国の兵を見捨てるおつもりですか」
その言葉は刺さった。
リリアは一瞬だけ黙る。
治療室の兵士たちを思い出す。
血を流す腕。
噛まれた脚。
痛みに歪む顔。
王宮の兵士にも、同じ人たちがいる。
見捨てたいわけではない。
けれど。
リリアは静かに息を吸った。
「見捨てません」
使者が目を細める。
「ならば」
「私がここで学んだ処置を、記録してお渡しできます。血を止める方法。傷を洗う方法。包帯の巻き方。私の力がなくても、助かる人を増やせるやり方を」
「そのようなものでは」
「私一人を連れ戻すより、ずっと多くの人を救えるかもしれません」
リリアは自分の手を見る。
傷を消せない手。
でも、繋ぐことはできた手。
「私が出せるのは、それだけです。でも、私は王宮には戻りません」
「あなたには王宮への義務が」
「追放された時に、その義務は終わりました」
自分の声が、思ったより静かだった。
使者が言葉に詰まる。
そこで、イザベラが口を開いた。
「必要なら、グランヴェイルから治療師と物資を出すわ」
寝台の上からの声は弱い。
けれど、領主の声だった。
「ただし貸しではない。王宮には、リリア・ノルンへの正式な謝罪文と、北方への補給路の優先開放を求める」
「辺境伯閣下、それは」
「王国各地が困っているのでしょう」
イザベラは薄く笑った。
「なら、こちらも王国の一部として協力するわ。条件付きで」
「そのような条件を、私の一存では」
「でしょうね。なら持ち帰りなさい」
使者は口を閉じた。
リリアはその横顔を見ていた。
イザベラは、リリアの代わりに怒ったのではない。
領主として、交渉している。
リリアが言えないことを言い、リリアにできないことを決めている。
そのことが、ひどく心強かった。
使者は低い声で言う。
「これは王太子殿下の命です」
「では、王太子殿下にお伝えください」
リリアは顔を上げる。
「私はもう、傷を消せないことを恥じていません」
使者の表情が変わった。
「私は私にできることをします。でも、私を偽物と呼んだ場所へ、自分を戻すことはしません」
静養室に沈黙が落ちる。
やがて、イザベラが言った。
「聞こえたでしょう」
声は弱い。
けれど、いつもの鋭さがあった。
「私の客人は戻らないそうよ」
使者の顔が赤くなる。
けれど、それ以上は言わなかった。
深く礼をして、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
リリアはその場に立ったまま、息を吐いた。
膝が少し震えている。
「よく言ったわ」
イザベラが言った。
リリアは振り返る。
「怖かったです」
「でしょうね」
「でも、言えました」
「ええ」
イザベラは手を伸ばす。
まだ力の入らない手。
リリアはすぐに近づいた。
その手を取る。
「偉かった、と言った方がいい?」
「いえ」
「言われたい顔をしているわ」
「していません」
「そう」
イザベラの指が、リリアの手を軽く撫でた。
「偉かったわ、リリア」
リリアは俯いた。
顔が熱い。
「……ありがとうございます」
「慣れなさい」
「無理です」
「では、少しずつ」
イザベラは目を閉じる。
疲れているのだろう。
リリアは手を離そうとした。
けれど、イザベラの指がわずかに残った。
「離してもいいですか」
「駄目と言ったら?」
リリアは固まる。
イザベラは薄く目を開けた。
「冗談よ」
「イザベラ様の冗談は分かりにくいです」
「よく言われるわ」
それでも、手は離さなかった。
◇
春の初め。
北方の雪が少しずつ溶け始めた。
イザベラはまだ完全には回復していない。
ベルンに剣を取り上げられ、執務時間を制限され、リリアに包帯を確認される日々を送っている。
本人は不満そうだった。
けれど、本気で逆らうことはなくなった。
少なくとも、リリアの前では。
「傷を見ます」
リリアが言うと、イザベラは黙って上着を緩めた。
肩から胸にかけての傷は、もう塞がっている。
けれど痕は残った。
深く、はっきりと。
リリアはその傷跡にそっと触れる。
古い傷ではない。
自分が繋いだ傷。
消せなかった傷。
でも、死なせなかった傷。
「やっぱり、残ってしまいました」
小さく言う。
イザベラは窓の外を見ていた。
雪解けの光が、彼女の横顔を照らしている。
「残したのよ」
リリアは顔を上げる。
「これは、あなたが私をこちらに引き戻した証でしょう」
リリアの胸が詰まる。
「私の力は、傷を消せません」
「知っているわ」
「これからも、きっと」
「それも知っている」
「それでも、いいんですか」
イザベラはリリアを見る。
「いいも何も、私は生きているわ」
リリアは言葉を失う。
イザベラは少しだけ笑った。
「それに、この傷は嫌いではないの」
「どうして」
「私を殺し損ねたものだから」
以前と同じ言い方だった。
けれど今は、それだけでは終わらなかった。
「そして、あなたが私を離さなかったものだから」
リリアの指先が震えた。
傷跡の上で。
イザベラがそれに気づく。
「くすぐったいわ」
「すみません」
「謝らない」
「……はい」
リリアは手を離そうとした。
けれど、イザベラがその手を取った。
包帯を巻くためではない。
傷を見るためでもない。
ただ、手を取られた。
「リリア」
「はい」
「王宮へ戻らなかったことを、後悔している?」
リリアは少し考えた。
嘘はつきたくなかった。
「少しだけ、怖いです」
「そう」
「王宮にいた時間が、全部なくなるわけではないので」
「ええ」
「でも、戻りたいとは思いません」
リリアはイザベラの手を握り返した。
「ここに、いたいです」
イザベラは目を細める。
「いてもいいか、とは聞かないのね」
リリアは一瞬黙った。
それから、小さく首を振る。
「聞いたら、怒られる気がしました」
「ええ。怒るわ」
イザベラは言った。
「いてもいい、ではないもの」
リリアの胸が静かに鳴る。
イザベラは、リリアの手を離さなかった。
「私が、あなたにここにいてほしいの」
リリアは目を伏せた。
泣きそうだった。
でも、もう泣くより先に、伝えたいことがあった。
「イザベラ様」
「何」
「私、あなたの傷を見ていると、怖くなります」
「でしょうね」
「でも、離れたいとは思いません」
リリアはイザベラの手を握った。
「あなたの傷が痛む時、そばにいたいです。包帯を替えるのが私であってほしいです。眠れない夜に、私を呼んでほしいです」
イザベラの目が、わずかに揺れた。
「それは、治療係として?」
リリアは首を振った。
「違います」
声は震えた。
けれど、今度は逃げなかった。
「あなたが、好きです」
沈黙が落ちた。
暖炉の火が小さく鳴る。
イザベラはしばらくリリアを見ていた。
いつものように皮肉を言うかと思った。
けれど、そうしなかった。
「……困った子ね」
「すみません」
「謝らない」
イザベラの手が、リリアの頬に触れた。
「私も、あなたを手放すつもりはないわ」
「それは」
「治療係としてではないわね」
リリアの息が止まる。
イザベラは少しだけ身を寄せた。
「嫌なら、目を逸らしなさい」
リリアは逸らさなかった。
次の瞬間、唇が触れた。
短い口づけだった。
傷に触れる時よりも、ずっと静かで、ずっと熱かった。
離れたあと、リリアは何も言えなかった。
イザベラが小さく笑う。
「顔が赤いわ」
「……暖炉のせいです」
「ここは窓辺よ」
「では、傷のせいです」
「私の?」
「はい」
リリアはイザベラの手を握り直した。
「あなたの傷が、私をここに繋いでくれました」
イザベラは少しだけ目を伏せる。
「なら、この傷も悪くないわね」
窓の外で、雪解けの水が落ちる音がした。
リリアはもう一度、イザベラの傷跡に触れた。
消えないものはある。
けれど、それは失敗ではない。
痛みも、傷跡も、過去も。
全部を抱えたまま、ここで生きていける。
悪女辺境伯は、やはり優しい言葉を知らない。
けれど、その唇はもう一度、リリアの額に触れた。
「泣くなら座りなさい。倒れられると困るわ」
リリアは笑った。
「泣いていません」
「少し?」
「少しだけです」
「少し、は信用していないわ」
そう言って、イザベラはリリアの手を離さなかった。
だからリリアも、離さなかった。




