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第9話 死なせたくない人


 最初に聞こえたのは、鐘だった。


 低く、重い音。


 朝の祈りを告げる鐘ではない。

 食事の時間を知らせる鐘でもない。


 城の中の空気が、ひと息で変わった。


 廊下を走る足音。

 兵士の声。

 扉が開き、閉まる音。


 リリアは治療室で包帯を畳んでいた手を止めた。


「何の鐘ですか」


 ベルンは薬棚から瓶を取り出しながら答える。


「北砦だ。魔物が出た」


「魔物……」


「霜牙竜の目撃報告があった。山脈の奥から下りてきたらしい」


 リリアの指先が冷える。


 王宮にも魔物の報告は届いていた。

 けれどリリアが実際にその被害を見ることはほとんどなかった。


 王都の奥で祈る聖女候補に、血の匂いは必要ない。


 そう言われていた。


 ベルンは机の上に薬瓶を並べる。


「リリア、包帯を多めに用意してくれ。湯も増やす。縫合用の針と糸も」


「はい」


「手が震えている」


「すみません」


「謝らなくていい。震えていても動けばいい」


 リリアは頷いた。


 包帯を取る。

 布を並べる。

 清潔な水を用意する。


 手順を追えば、体は動いた。


 だが耳は、廊下の音ばかり拾っていた。


 イザベラは。


 そう思った時、治療室の扉が開いた。


 イザベラが立っていた。


 黒い外套。

 革の手袋。

 腰には剣。


 左腕の傷はまだ完全には塞がっていない。包帯の下に、以前の霜牙竜の傷跡がある。


「ベルン」


「行かれるんですね」


「当然でしょう」


「止めても無駄ですね」


「ええ」


 ベルンは深くため息を吐いた。


「ではせめて、戻ってきた時に説教できる状態で戻ってきてください」


「努力するわ」


「その努力が信用できないのです」


 イザベラは小さく笑った。


 それから、リリアを見る。


 リリアは包帯を握ったまま動けなかった。


「リリア」


「はい」


「あなたはここにいなさい」


 その言葉が、胸の奥に落ちる。


「治療室で負傷者を受ける。ベルンの指示に従って。あなたの力は、ここで必要になる」


「私は」


 ついていきたい。


 言いかけて、止まった。


 言えるわけがない。


 リリアは剣を持てない。

 魔物と戦えない。

 戦場に出れば、足手まといになる。


 それでも、イザベラが傷つく場所へ向かうのを、ただ見送るのは嫌だった。


「イザベラ様」


「何」


「……無理を、しないでください」


 イザベラは少しだけ目を細めた。


「無理をしない領主なんて、置物と同じよ」


「置物でいてください」


 言ってから、リリアは固まった。


 ベルンが咳払いをした。

 笑いを誤魔化したようにも聞こえた。


 イザベラは一瞬黙り、それから本当に小さく笑った。


「検討するわ」


「絶対に検討しない顔です」


「言うようになったわね」


 イザベラはリリアの前へ一歩近づいた。


 手袋をはめた右手が、リリアの頭へ伸びかける。


 けれど途中で止まった。


 触れなかった。


 代わりに、イザベラはリリアの手元を見た。


「包帯、落としそうよ」


「あ」


 リリアは慌てて握り直す。


「待っていなさい」


 イザベラが言った。


 リリアは顔を上げる。


「戻るわ」


 それだけ言って、イザベラは踵を返した。


 黒い外套が揺れる。


 扉が閉まる。


 リリアはしばらく、その扉を見ていた。


 戻る。


 その言葉を、何度も胸の中で繰り返した。


     ◇


 最初の負傷兵が運び込まれたのは、昼前だった。


 肩を裂かれた兵士。

 脚を噛まれた兵士。

 額から血を流している若い見習い。


 治療室は一気に騒がしくなった。


 ベルンの声が飛ぶ。


「そこへ寝かせろ」


「湯を」


「押さえろ。暴れるな」


「リリア、こちらだ」


 リリアは走った。


 走るなと言われる暇もなかった。


 最初の兵士は腕の傷だった。


 深い。


 だが命には届いていない。


 リリアは傷の周りに手を添える。


 血が止まるように。

 痛みが少しでも引くように。

 傷が悪くならないように。


 温かさが指先から流れる。


 兵士の呼吸が少し落ち着く。


「次」


 ベルンが言う。


 次の兵士。


 脚。


 噛み傷。


 泥が入っている。牙の跡が深い。


 リリアの力では消せない。


 それでも、血は少し弱まる。痛みで暴れていた兵士が、布を噛んだまま息を整える。


「次」


 手。

 額。

 肩。

 脇腹。


 何人も。


 何人も。


 リリアの力は弱い。


 一人を完全には治せない。


 けれど、触れれば血が少し止まる。痛みが少し引く。縫うまでの時間を稼げる。


 その少しが、治療室では大きかった。


「助かる」


 ベルンが短く言った。


 リリアは頷く。


 返事をする余裕はなかった。


 何人目かも分からなくなった頃、若い兵士が寝台の上でリリアの手首を掴んだ。


「辺境伯様は」


 リリアの手が止まる。


「辺境伯様は、ご無事ですか」


「私は、分かりません」


 兵士の顔が歪む。


「そう、ですか」


「でも、戻るとおっしゃいました」


 リリアは自分に言い聞かせるように言った。


「戻ると、おっしゃいました」


 兵士は少し笑った。


「なら、戻られます」


 リリアは傷に手を添えた。


 戻る。


 その言葉だけを握りしめる。


     ◇


 夕方になっても、負傷兵は途切れなかった。


 手が熱い。


 指先が痺れる。


 力を使いすぎているのだと分かった。


 それでも止まれなかった。


「リリア、少し休め」


 ベルンが言う。


「まだできます」


「できるかどうかではない。倒れる前に止めろ」


「でも」


「辺境伯様にも同じことを言うのだろう」


 その言葉で、リリアは黙った。


 言う。


 きっと言う。


 無理をしないでください、と。


 なら、自分も同じことを守らなければならない。


 リリアは椅子に座った。


 マルタが水を持ってくる。


「飲みなさい」


「ありがとうございます」


「手が熱いですね」


 マルタがリリアの指先を見た。


 赤くなっている。


 痛みはなかった。


 ただ、感覚が少しぼやけている。


「無理はしないでください」


「はい」


「その返事も信用できませんね」


 最近、誰も彼も同じことを言う。


 リリアは水を飲んだ。


 喉が痛い。


 暖炉の火がゆらゆら揺れている。


 その火を見ていると、ふと王宮の大聖堂を思い出した。


 ミレーユの光。


 美しくて、分かりやすくて、誰もが拍手した光。


 今ここに、その光があったらどうなるだろう。


 負傷兵たちは喜ぶだろうか。


 たぶん、驚く。


 綺麗だと見る。


 けれど傷は塞がらない。


 痛みは引かない。


 血は止まらない。


 リリアは自分の手を見た。


 傷を消せない手。


 でも、血を少し止められる手。


 この治療室では、その少しを待っている人がいる。


「リリア」


 ベルンが呼んだ。


 リリアは立ち上がる。


 休憩は終わりだった。


     ◇


 夜になった。


 外の雪は止んでいた。


 だが負傷兵はまだ運ばれてくる。


 その中に、イザベラはいなかった。


 リリアは扉が開くたびに顔を上げた。


 違う。


 また違う。


 何度も。


 胸の奥が冷えていく。


 治療室の隅で、兵士たちが小声で話していた。


「霜牙竜が二体いたらしい」


「二体?」


「一体は若い個体。もう一体が親だ」


「辺境伯様は」


「北砦の外で足止めしている」


 リリアは包帯を持つ手を止めた。


 親。


 つまり、前にイザベラが傷を負った若い霜牙竜よりも、さらに大きいものがいる。


 喉が詰まる。


 ベルンがリリアを見た。


「手を止めるな」


「……はい」


 リリアは兵士の傷へ手を添える。


 温かさを流す。


 けれど、胸の内側は冷たいままだった。


 イザベラは戻ると言った。


 待っていなさい、と言った。


 だから待つ。


 ここで。


 治療室で。


 自分にできることをして。


 そう思うのに、扉が気になって仕方がなかった。


 次に扉が開いた時、運び込まれてきたのは見覚えのある兵士だった。


 イザベラの近衛の一人。


 額から血を流している。


 リリアは駆け寄る。


「イザベラ様は」


 兵士は苦しげに息をした。


「まだ、砦に」


「ご無事ですか」


「……ご無事です」


 その間が怖かった。


 ベルンが兵士を寝台へ運ばせる。


「リリア、今はこの者を見ろ」


「でも」


「辺境伯様が戻った時、治療室が崩れていたら怒られるぞ」


 リリアは唇を噛む。


 そうだ。


 イザベラなら怒る。


 無理をするなと言いながら、リリアが治療室の役目を投げ出せば、きっと怒る。


 リリアは近衛の傷へ手を伸ばした。


 この人も、イザベラを守っていた人だ。


 この人を助けることは、イザベラへ繋がっている。


 そう思って、祈った。


     ◇


 深夜近く。


 鐘がもう一度鳴った。


 今度は短く、三回。


 治療室にいた兵士たちが顔を上げる。


「帰還の鐘だ」


 誰かが言った。


 リリアは立ち上がった。


 足がふらつく。


 ベルンが肩を押さえる。


「座っていろ」


「でも」


「ここへ運ばれてくる。走っても意味はない」


 リリアは座った。


 両手を握る。


 指先が熱い。


 心臓が痛い。


 扉の外が騒がしくなる。


 足音。


 複数。


 怒号。


 担架。


 扉が開いた。


「ベルン先生!」


 兵士たちが担架を運び込んでくる。


 その上に、イザベラがいた。


 リリアの呼吸が止まった。


 黒い外套は裂けていた。


 肩から胸にかけて、血が広がっている。

 脇腹にも傷。

 顔は白い。


 でも、目は開いていた。


 イザベラは治療室の天井を見て、少しだけ眉を寄せる。


「……騒がしいわね」


 声はかすれていた。


 それでも、いつものイザベラだった。


 リリアは立ち上がる。


 膝が震えた。


「イザベラ様」


 イザベラの目がリリアへ向く。


「待っていた?」


「待っていました」


「そう」


 イザベラは小さく息を吐く。


「なら、戻ったわ」


 その言葉に、リリアの目が熱くなる。


 でも泣いている場合ではない。


 ベルンの声が飛ぶ。


「担架をこちらへ。上着を切る。湯を。薬を。リリア、来い」


「はい」


 リリアは寝台の横へ行く。


 傷を見る。


 深い。


 霜牙竜の牙か爪が、肩から胸にかけて引き裂いている。

 脇腹の傷も開いている。古傷の近くをえぐられている。


 血が止まらない。


 リリアの力では、治せない。


 分かってしまった。


 これは浅い傷ではない。


 擦り傷でも、切り傷でもない。


 命に届く傷。


 リリアの指が震える。


 王宮の大聖堂が脳裏に浮かんだ。


 傷は残っている。


 これが聖女の奇跡だと?


 偽物。


 偽物。


 偽物。


 リリアの手が動かない。


「リリア!」


 ベルンの声で、我に返る。


「血を抑えたい。できるな」


「私では」


「できるかではない。やるんだ」


 イザベラが薄く目を開ける。


 その視線が、リリアを探す。


「リリア」


 かすれた声。


 リリアはイザベラの手を握った。


 血で濡れていた。

 温かかった。

 怖いくらいに。


「私では、治せません」


 声が震える。


「傷が、残ります。きっと、深く」


「……知っているわ」


「それでも、血が」


「証明しなくていい」


 イザベラが言った。


 リリアは息を止めた。


「私を助けたいなら、助けなさい」


 イザベラの指が、ほんの少しリリアの手を握り返す。


「誰かに認められるためじゃなく」


 リリアの胸の奥で、何かが崩れた。


 王宮のためではない。


 聖女の証明のためではない。


 本物だと認められたいからでもない。


 ただ。


 この人に、生きていてほしい。


 怖い人。

 優しくしない人。

 傷だらけの人。

 自分を客人だと言った人。

 外套を貸してくれた人。

 包帯を巻く間、痛みを預けてくれた人。


 イザベラ。


 リリアは両手を傷へ当てた。


 深い傷。


 血。


 痛み。


 自分の力では、傷は消せない。


 それでも。


「死なないでください」


 祈りではなく、願いが漏れた。


「イザベラ様」


 指先から温かさが溢れる。


 いつもより強い。


 けれど光ではない。


 眩しくもない。


 ただ、傷の奥へ届くような熱。


 血が少しずつ弱まる。


 ベルンが叫ぶ。


「今だ、押さえろ。縫うぞ」


 治療室が動く。


 兵士たちが布を押さえる。


 マルタが湯を運ぶ。


 ベルンが針を取る。


 リリアは手を離さなかった。


 離せなかった。


 傷は消えない。


 閉じきらない。


 でも、血は止まり始めている。


 イザベラの呼吸が、かすかに戻る。


 リリアの視界が滲む。


 力が抜けそうになる。


「リリア、倒れるな!」


 ベルンの声。


 倒れない。


 倒れてはいけない。


 イザベラが、戻ると言ったから。


 自分も、ここにいなければ。


「……生きて」


 リリアはもう一度呟いた。


 誰にも聞こえないくらい小さく。


 それでも、イザベラの指がわずかに動いた。


 答えるように。


 リリアは泣きそうになった。


 けれど泣くのは、包帯を巻き終えてからだ。


 そう言われた気がして、唇を噛んだ。


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