陰謀の香り
ターナ・アウグスト
シルヴァに付けられた侍女の名前だ。元の名はターナ・クラーク・アウグスト。アウグスト男爵の一人娘であった。
アウグスト男爵は領地を持たぬ宮廷貴族で、代々文官として皇帝に仕えていた。数代前には暗殺者から身を挺して皇帝を守り、陞爵の打診を受けたが「当然のことをしたまで」といってその話を断った。その逸話は今でも有名で忠義の臣、と言えばアウグスト男爵を指すほどだ。
そんなアウグスト男爵は7年前に起きた事故で亡くなり、妻も後を追うように病死したことから、ターナが成人するまで叔父夫婦が男爵家を継ぐこととなった。この時、ターナは12歳であった。
問題はその叔父夫婦が欲深かったということか。
ターナには病弱な弟――ラグナ――がおり、高額な治療費と引き換えに男爵位の譲位を迫られたのだ。既に男爵家を乗っ取られ、成人前で働く術のないターナは頷くことしか出来なかった。
平民となったターナは城下で家を借り、ラグナの世話をしながら働いていた。平民では12歳で働くのが当たり前だと言うことを、ターナはこの時初めて知った。冒険者ギルドの登録も12歳からだ。
それから1年後のことだ。
皇帝であるロイがお忍びで尋ねて来たのだ。ターナもラグナもそれはもう驚いた。どうやら前アウグスト男爵は、その豊富な知識からロイの相談役も務めており、頼りにされていたそうだ。
ターナの窮状に気付かなかったことを謝られ、ラグナと一緒に保護されたのだ。2人で過ごせる使用人部屋を用意してもらい、行儀見習いとして城で働けることになった。
ただし平民は貴族の推薦人か後見人が必要で、ターナの後見人は恐れ多くもロイ自らなってくれた。
そんな恩もありターナは必死に働いた。
その働きもあり、17歳の時シルヴァ付きの侍女に抜擢されたのだ。ロイ直々に「シルヴァを頼む」と頭を下げられ、ターナは大いに慌てたのを覚えている。
王妃シルヴィアの支配する奥宮は決して居心地の良い場所ではなかった。
物を隠されたり、足を引っ掛けられたりするのは日常茶飯事。でもそんな虐めはターナの心を燃え上がらせるだけに終わった。
何故ならターナが嫌がらせを受ける度に、それに気付いたシルヴァに泣きながら謝られたからだ。心優しいこの子を一人にさせる訳にはいかない、とターナは奮起した。
それから2年、ターナはシルヴァを支えてきた。ここまでくると図太いターナに嫌がらせをするものはいなくなった。逐一ロイに報告していたからかもしれない。
そうしてレオノールがやって来た。
それからシルヴァは目に見えて変わった。人の目を気にして、ほとんど食事を取らなかったのが嘘のようによく食べるようになり、兵に混じって鍛錬し始めたのだ。
ザギルとの関係も改善され、今ではレオノールとザギルの話ばかりしている。
ザギルの立太子も決まり、シルヴァも安全になる、そう思っていた矢先に事件は起きた。
その日、いつもの様にターナはシルヴァの洗濯物を運んでいた。いい天気で洗濯物もよく乾きそうだ。
「ターナ・アウグスト嬢」
名を呼ばれて振り返ろうとしたが出来なかった。魔導具を使われたのだとすぐに分かった。精神系のものではい。シルヴァに仕えることになって真っ先に、ロイから精神攻撃を無効化する魔導具を貸し与えられていたからだ。
「弟くんは元気かなぁ」
ねちっこい声をかけられながら後ろから肩をつかまれ、ターナは気持ち悪くて身震いする。
それを恐怖とみて取ったのか、男が機嫌良さげに続ける。
「弟くんはね、今僕の所にいるんだぁ。連れ去るのは簡単だったよぉ」
シルヴァ付きになってからターナは奥宮の近くに一軒家を与えられている。以前庭師が住んでいたそうで、そこに移り住んだのだ。
皇族の住まいである奥宮の警護は厳重で、その範囲網の中にはターナが住む家も含まれている。それを掻い潜って誘拐したとなれば、内通者なしでは難しい。ターナの脳裏に王妃シルヴィアの姿が浮かんだ。
「何が言いたいの?」
「ちょっとお願い事があってさぁ。この瓶を建国祭の日に第三王子のポケットに入れて欲しいんだぁ。簡単でしょ?」
そう言って後ろから見せられた瓶の中には、少量の液体が入っていた。恐らくは毒、なのだろう。
「……お断りします」
押し殺した声で答えれば男はケタケタと笑った。
「弟くんがどうなってもいいのかなぁ?お姉ちゃん助けてぇって泣いていたよぉ。可哀想だよねぇ。まだ10歳だっけ?」
ターナが殴りかかろうとしても体はピクリとも動かない。
「どうせ私もラグナも用が済んだら殺すつもりでしょ。無意味な取引だわ」
「仕方ないなぁ。本当はこういうの嫌なんだよ?」
ターナの目の前に黒ずんだハンカチが差し出される。嫌な予感に心臓がバクバクと音を立てて、顔から血の気が引いていく。
ハンカチが開かれれば、そこには……切断された指が入っていた。犬人族であるターナは、匂いですぐにそれがラグナのものだと分かった。
「このっ外道!」
「おっと、静かにしないとさぁ、分かるよね?」
ターナのエプロンの中に瓶がスルリと入れられ、大人しくなったターナの肩を叩きながら男が囁く。
「じゃあ、よろしくねぇ。おかしな真似したらさぁ、弟くんの指が全部なくなっちゃうよぉ」
結局、男が立ち去るまでターナは振り返ることが出来なかった。




