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第16話 貴女のためなら

 脱衣所に脱ぎ捨てられている自分よりも一回り小さな服に、エリシアは少しどきりとした。


 ミアが帰って来たのだ。無事に帰って来た安堵と、扉の向こうにいるという存在感がエリシアの感情を昂らせる。エリシアは深呼吸をして、シャワーの音がする向こう側に声をかけた。


「ミア、大丈夫? 背中流してあげる」


 シャワーの水滴が床を叩きつける音が単調に聞こえている。エリシアは浴室の扉をノックした。


「ミア?」


 返事はない。


「開けるわよ?」


 エリシアが扉を開くと、湯気の立ちこめる浴室内でミアは椅子に座って項垂れていた。丸い後頭部にシャワーが降りかかっている。


「ミア起きて。ここは浴室よ、寝ちゃだめ」


 エリシアが身体を揺らすと、ミアははっと目を覚ましたのか顔を上げ、顔面に降りかかったシャワーに驚いた。バタバタと手を振り回して、水滴から逃れようとしている。エリシアはミアを襲うシャワーの水を止めた。


 浴室内にムカデ型モンスター(センティピード)の姿はない。生み出す余力もないのだろう。エリシアはすぐに察してミアに手を差し出した。


「起こしてくれてありがとうございます……」


 銀髪が張り付いた、淡く紅潮している頬にどぎまぎする。エリシアは感謝の言葉を受け流して、袖が濡れてしまわないように捲り上げながらミアの後ろに立った。


 鏡越しで見るミアの表情は虚ろに見える。薄い胸に浮いた肋骨は可哀想なくらい痩せている証。元から肉付きのいい方ではなかっただろうが、この数日は大した食事を取っていなかったのだと感じる。


 エリシアは手に適量のシャンプーを押し出すと、ミアの綺麗な銀髪に撫でつけた。それからゆっくりと指の腹で頭皮を揉むようにする。


「加減はどう?」

「ちょうどいいです……」


 眠たげに首を揺らしながらミアは答えた。

 ダンジョンに一人籠っていたなんて、計り知れないほどの消耗だったに違いない。身体的にも、精神的にも。

 ミアの今の脱力感はそれをひしひしと感じさせた。


 小さな背中を見下ろす。ウルサリアでは大人という区分にいるミアだが、十六歳とはまだまだ子供だと思う。エリシアはちょうどミアと同じ年頃だった時を思い出す。

 ……もっと無邪気で幼かったはずだ。


「ね、ねえ。ミア」


 頭上から降りかかった呼びかけに、ミアは小さく声を漏らして首をもたげた。

 エリシアは湯加減を調節しながら、ミアの泡立った髪にシャワーの水を当てる。


「私……聞いたの。ミア、イルクパーティーに恨みを抱いていたのね」


 ミアはぴくり、と窪んだ瞼を動かすと、額を伝う雫にまつ毛を震わせ、それから悔やむように下唇を噛んだ。ミアの謝罪がシャワーと共に流れていく。


「私のためだったのよね?」


 言葉足らずだが、しっかりとミアの胸に刺さっているのだろう。泡を流した水滴に混じって、閉ざされた目から一粒涙が零れ落ちている。

 今彼女を抱きしめたら濡れてしまう、とエリシアはぐっと己を押し込みながらコンディショナーを手に取った。ミアの髪を梳くように溶け込ませていく。


「でも私は自分の外聞より、ミアがいてくれた方が何倍も嬉しいの。あの日……ミアをダンジョンで見つけた日。私は冒険者をやめるつもりだった」


 ミアの口が薄く開かれる。それはいつも見る、驚きの仕草だ。

 そうだろう、エリシアは思った。あの荒み切った数か月間を、エリシアはミアにひた隠してきたのだから。


「ミアに会う前、エリシアパーティーは六人組で……。私の判断不足のせいで、三人も冒険者を引退させる原因を作ってしまった。自暴自棄になった私はダンジョンで壁に埋もれた未熟なモンスターまで抉り出しては切りつけて、『半狂乱の地縛霊バンシー』っていう異名までつけられてしまった。だからもう、全てやめようと思っていたの。……剣を振るう以外、私に特技なんてなかったけれど」


 エリシアは小さく息を吸う。いつの間にか頭を洗っていたはずが、ミアの髪を手癖で撫でるだけになっていた。シャワーを手に取ると、銀糸のような髪を緩く束ねながら流していく。細い髪の毛束がエリシアの指をすり抜けて落ちた。


「私はね、ミアが目を覚ました時、『ダンジョンに行く』って言ったのを聞いて、強い子だと思ったの。酷い目に遭って、死にかけたのになんて心の折れないまっすぐな子なんだろうって。私はそんなミアを守ろうって、勝手に決心していたのね」


 ミアの頭が揺れる。

 そう、エリシアはミアのことを純粋に強く真っすぐな少女だと信じて疑っていなかった。


「勝手にミアを純粋に解釈して、本当は何があったのか、私は聞かなかった。ごめんなさい……これは私の落ち──」

「それはちがうッ、ちがいます!」


 思わず零れた謝罪の言葉に、ミアは叫んだ。

 ミアがシャワーを持つ手を押しのけ振り返る。ミアの白い肌を晒した胸元が迫り、エリシアはぎょっとして上半身を反らした。


「ミ──」


 エリシアはミアに肩を掴まれ、浴室のタイルに足を滑らせてしまう。尻もちだけではとどまらず、背中で受け身を取ることになった。強打した背骨に鈍痛がにじむ。


 エリシアが手放してしまったシャワーが水流で弧を描くのを背景に、ミアの感情があふれる表情が視界一杯に映った。ミアに圧し掛かられ、浴室のタイルに密着した背中の布がじんわりと水分を吸うのを感じる。


「……」

「ちがいますっ、エリシアは何も悪くない! わたしが隠してきたのが悪かったんです!」


 濡れた銀髪が浴室の淡いオレンジの光を弾いていてきらめく。小さな雫がぽたり、とエリシアの頬に落ちた。


「わたしがエリシアに嫌われたくなくて、ずっと隠してきたのが、悪かったんです……っ」


 ミアの喉から嗚咽が漏れ、零れていく。


「復讐のために強くなろうと、そのためにエリシアたちを利用して……。でもエリシア、わたしエリシアと一緒にいて復讐を忘れた日もありました。でも、でも……っ、あのパレードの日、エリシアの受けた非道が本当に許せなくて……ごめんなさい、黙っていて……隠していて……っ。だから、だからっ」


 鈴のような声が空気を含んだものになる。ミアはエリシアの襟元を掴んだまま、額を首元に埋めた。吐息が耳の裏を掠めていく。


 嫌いにならないでください……。


 エリシアは消え入りそうなその言葉に息を止めた。

 嫌いになんて、なるわけがない。こんな悲しい子をどうやって嫌いになればいいんだろう。エリシアの過去を聞いて、ミアはより罪悪感を抱いているのだろう。言葉全てが後悔で溢れている。


 けれど同時にエリシアはミアの胸の中で渦巻いている、黒いものを感じ取っていた。

 まだ、ミアは諦めていないのだ。イルクパーティーに復讐を果たすことを。

 エリシアはミアの冷えてしまった背中をゆっくりと抱きしめた。


 心中で呟く。

 ねえ、ミア。私はミアのおかげでやってこれたのよ。その動機が何であれ、私はミアのおかげで冒険者に戻れたの。

 だからミアが何をしようと嫌いになんてなれない。むしろ、貴方の為ならなんだってできる。

 だから、ね。


「……ミア。その復讐、私にも手伝わせて」


 ミアがエリシアの腕の中で身じろぐのがわかる。


「ミアを苦しませた相手、私も許せない」

「え、エリシア……」

「悪いことをしたやつには制裁を下さないといけないでしょう。それがいくらやりすぎだと言われても、そいつの自業自得だわ。……これは正義の鉄槌よ」


 名を呼ぶ声に小さく戸惑いが聞いて取れた。けれど、エリシアはすでに燃えていた。ミアの憎しみは、等しくエリシアの憎しみになる。


「……大好きなミア。もう、勝手に消えたりしないで」


 小さく震えるミアの身体をエリシアは力一杯抱きしめた。

 流れ続ける水の音が、耳朶を喧しく弾いていた。

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