第二話
落ち着け、大丈夫だ。このドアを開ける時はちょっとコツが要るのだ。右側にドアノブを押すような力加減で——開かない。
これは流石にまずいかもしれない。ズボンのポケットに手をやって、気付く。スマホはベッドの枕元で充電中だ。つまり、連絡手段がない。
どうする。今日は約束がある。大事な待ち合わせだ。それも、俺の方から会おうと言って今日を指定したのである。すっぽかすのはまずいし、遅刻もなるべくしたくない。
今日会う予定の友人、野々原は高校の同級生。当時から何度も助けられてきた相手で、不義理はしたくない。メッセージアプリのやり取りや通話の雰囲気からして、野々原は長い間悩んでいるように見えた。直接俺の方から何があったかを詳しく聞いたわけじゃない。ただ、あいつがぽつりぽつりと語っていたのは恋人の事。何年も友達付き合いをしていればなんとなくわかる。あいつは女運が悪すぎるのだ。
たぶん誰にでも気安く、優しいのがいけない。イケメンともてはやされるほどではなくても、雰囲気が柔らかくて女子受けが良い。好きになった子には尽くすタイプで、しかも面倒見が良すぎる。結果、どうなったか。野々原は高校の時からすでにずいぶんと面倒な女子に好かれ、歴代の彼女たちに振り回されてきたのである。
去年から付き合っていた相手も、話を聞いた限りではあまり良い印象じゃなかった。早く別れた方がいいと俺はずっと思っていたのだ。
そう考えて、俺はなんだか嫌な気分になった。このままではよくないと思いながらずるずると現状維持を選んでしまっていたのは俺も同じ。野々原にとってはそれが彼女の事であり、俺にとってはトイレのドアノブ。流石に比べるというのは失礼だが、どちらも問題を見て見ぬふりして先延ばしにしていたわけだ。
ざらつくドアノブ。これも元はツルツルピカピカしていたのだろうか。それだけの古さだ。壊れるのも、不具合も、仕方がない気がする。そのドアノブから手を放し、ため息をついた。自然と肩が下がる。たぶん眉も下がっているだろう。自分じゃ見えないけど。
野々原の彼女は、プレゼントに何が欲しいのかと聞いても答えてくれなかったそうだ。それでいてもらったものが気に入らないと言って機嫌が悪くなるのだと言っていた。野々原に甘えて自分の家の家事をさせる。料理をさせ弁当を作らせ、部屋の掃除までさせていたようだ。しかも食材はすべて野々原持ちだったという。
俺はそういった状況を知って「会うたびにそれっていうのはおかしいんじゃないか」「そこまでする必要があるのか」「二人で分担するものじゃないのか」と何度か尋ねた。それでも野々原は「俺がやってあげたいと思うから」と受け入れていたのだ、あのお人好しめ。おまけに彼女の生活費に対し経済的な援助もしていたらしい。これ全部、同棲していたわけじゃないのにだぞ。
その野々原が二日ほど前の夜中に、俺にメッセージを寄越した。たった一言「別れた」と。俺はすぐに返事を送った。起こされたことなんてどうでもよかった。これはもう、愚痴でも何でも聞いてやって、励ました方がいいなら励まして、次こそまともな女の子と付き合えるようにしろと説教してやろうと……そう思ったのだ。だから会って食事をしようというのは、俺の方から提案した。ちょうど予定がなかった週末、夕方から合流して居酒屋でぱあっとやるつもりで。
それなのに。
俺はまだ自分のアパートの古くて狭くて蒸し暑いトイレにいるのだ。額にジワリと汗がにじんで、前髪が張り付く。腕でそれを拭って、もう一度ドアノブを回した。開かない。




