第一話
レバーで水を流して、なんだか少しほっとしながら、俺はドアを振り返った。蒸し暑く薄暗いトイレには換気扇の音が響き、なんとなく掃除用洗剤のにおいが残っている気がする。とはいえ、俺は今、掃除をしていたわけじゃない。ただ出かける前に用を済ませておこうというだけだった。少し錆のようなものが浮いている、ざらつくドアノブに手を触れる。どうせ男の一人暮らしだ、鍵なんてかかっていない。ぐらつく手応えは、大家が管理費をけちっているせいだ。
ドアノブを回す——おかしな具合に、空回りした。
大丈夫、問題ない。今までずっとこうだった。昨日も一昨日もこのドアノブはぐらついていた。俺が知る限りいつも二度三度と空回りしてからやっとドアが開くという有様で。俺は以前一度、ちゃんと修理をしてくれと頼んだのだ。けれど大家が修理のために寄越したのは、きちんとした業者ではなく知り合いの大工。工務店の名も名乗らずにドアを見た大工は、持ってきたドライバーでちょっとネジを締め……それだけで、帰った。
ドアノブを交換することも分解修理することもせず、外から見えるネジを一本、軽く締めただけだった。それでいいのなら俺でもできる。何のための専門家だ。なんならドアごと取り換えて欲しいくらいだったというのに。
そもそも家賃の安さの割に広いことが気に入って借りたこの部屋は、管理会社が入っていない。大家の直接管理で、何か問題があれば大家に連絡する仕組みだ。しかしその大家は高齢で少し耳が遠くなっている。そのせいか電話がつながらないことも多々あった。すぐ近くに住んでいるから、アパートの不具合は大家の自宅を訪問した方が話が早い。
とにかく家賃は安いが、古くて不便で、あちこちガタが来ているアパートだ。築年数はなんと四十五年を超えているらしい。良いのは日当たりと、風呂とトイレが別であることくらいだろうか。建付けの悪い部分が複数あって、床はあちこちが軋む。
いまいち役に立たない大工の『修理』の後、ドアノブの調子が良かったのは二日間くらいだった。しばらくするとまたぐらつくようになったドアノブを、自腹で修理するのも癪で、俺は放置していた。たまに自分でネジを締めて、様子を見ながら使っていた。ちょっと空回りはするが、ちゃんと開く。だから大丈夫。
俺はドアノブをさらに二回、回した。
……開かない。
え、なんで。今までこれで開いていたのに。もう一度回してみる。ドアノブはまた、空回りした。




