【 Ⅱ 】ブリーズ&ビーン
ベンは15階にあるビュッフェ“ブリーズ&ビーン”にいた。
そこを目指したわけではなく、パニックの中で適当に上階のボタンを押した結果、偶然、15階に辿り着いたのだ。
ブリーズ&ビーンは、ランチタイムには従業員と来客者でにぎわう人気店だが、今はまったく人の姿はない。
ベンは客席に腰かけ、しばし放心状態だった。心臓が早鐘を打ち、思考が働かない。
やがて立ち上がり、ガラスの壁面から外の景色をながめる。濃い霧のせいで街の様子はわからない。ただ、数か所で赤い輝きが見えた。火災が発生しているらしく、緊急車両のサイレンが遠くで響いている。
PM0:10
15階のビュッフェには吸い寄せられるように、逃げ遅れた従業員が自然と集まりはじめた。公共の場所に安全を求めた結果かもしれない。
避難してきた従業員はベンも含めて7人。
「まずは自己紹介を済ませないか? 顔見知り同士もいるが、誰が誰なのか把握しておいたほうがいい」
最年長のフランシスコ・トレスが言った。ヒスパニック系で60歳、12階にある資産運用コンサルティング会社の専務だ。きっちりとセットされた黒髪、グレーのスーツに光沢のあるネクタイ。混乱したこの状況でも冷静さを保っている。
「僕はチャーリー・ルイスです。4階の広告代理店で働いています」
若い黒人男性が続いて自己紹介した。短髪、緑のパーカーにジーンズというラフな格好だ。
「イメルダ・ディアス。9階のヘルスケアマネジメント会社の事務員よ」
30代半ばのヒスパニック系女性。ショートヘア、スーツ姿で左手首の辺りには爪で引っかかれたような赤い痕がある。
「ミリアム・ワイスよ。まっ、自己紹介しなくても、みんな知ってるでしょ?」
「そうだな」と、トレスが相槌を打った。
ミリアムはこのビュッフェでウェイトレスを務める40代のユダヤ系女性だ。黒髪を後ろで束ね、エプロン姿のままである。
「ジャスミン・ポーター。ジャスでいいわ。3階のヨガ教室でインストラクターをしているわ」
20代後半の白人女性。髪はセミロングの赤いパーマ。灰色のジムウェアに薄手のジャケットを羽織っている。
「ランディ・ヤングだ。5階の不動産屋に勤めている」
40前後、濃い茶髪の七三分け、体格の良いスーツ姿の白人男性。その顔にはどこか皮肉めいた笑みが浮かんでいた。
「ええと……設備保守員のベンジャミン・エヴァンスです。ま、まあ……みんな顔馴染みですよね?」
「ああ。きみがいてくれて心強いよ」
トレスがベンの肩に手をおいた。そして皆に向き直る。
「いったい何が起きている?」
「ゾンビドラマと同じことですよ!」
トレスの質問に、間髪入れずにチャーリーが答えた。彼はどこか興奮気味だ。
「SNSにも動画があがっているわ。ゾンビみたいな動画がたくさん流れていて……ほら、見てよっ」
ヨガインストラクターのジャスはチャーリーに同意し、スマホでXの投稿動画を再生する。どこかのショッピングモールらしき場所で、人間が人間に襲いかかっている動画だ。
「なんだその動画は? 本物なのかね?」
トレスは怪訝な表情で首を傾げた。
「つまり……“ウォーキング・デッド”みたいなことが、現実に起きているのか?」
ベンは頬の汗を拭いながら言った。胸の鼓動は未だに収まっていない。
「ベンさん、あれは“その後”の話ですから。どっちかと言えば『ブラック・サマー』や『今、私たちの学校は……』ですね。知ってます? 韓国ドラマの……」
チャーリーがまくしたてる。ベンは「知らないなぁ」と肩をすくめた。
「おいおい、ちょっと待ってくれ。さっきからいったい何の話をしてるんだ? チンピラがビルに乱入したんじゃないのか?」
不動産屋のランディが話に割りこんだ。
「ランディさんは見てないんですか? あれはゾンビですよ! 噛み殺された人も、その場でゾンビになったんです!」
チャーリーが力説した。
「寝ぼけてるのか? 冗談はやめろ」
ランディは取り合わない。
「きっと薬物中毒か、集団ヒステリーか何かだろう? だが、騒ぎはこのビルだけではないのだな」
トレスは冷静に状況を把握しようとした。
「トレスさん、チャーリーの話は本当ですよ。私もこの目で見たんです……」
ベンは、自分がエントランスで目撃した出来事を皆に詳しく説明した。
乱入してきた市民の群れに、警備責任者のニックが襲われたこと。全身を噛みちぎられ、死んだはずのニックが起き上がり、ベンに襲いかかろうとしたこと。
「……受付のリンダは2階の女子トイレへ逃げこんだんですよ。無事だといいんですが……」
「信じられん……その話は本当なのかね?」
ベンの人柄をよく知るトレスは、半信半疑ながらも深刻な表情で話を受け止める。
グループ内の意見は割れていた。ベン、チャーリー、イメルダ、ジャスは実際に“ゾンビらしき存在”をその目で見ていた。ランディ、ミリアム、そしてトレスはそうした現場に遭遇していない。
皆はそれぞれスマホを手にし、ニュースやSNSで情報を集めた。家族とも連絡を取ろうとするが、回線が込み合っていてなかなかつながらない。
ネットはデマとフェイクで溢れ、何が真実なのか判断がつかない。そもそも異常に重たいせいで、動画やニュースサイトがまともに読み込めない。
「……そうだ、テレビだ!」
思い出したようにトレスが言った。ビュッフェ店員のミリアムが、すぐに店内に設置されている大型テレビの電源を入れる。
テレビではちょうど、正午に行われたばかりの知事の記者会見がリプレイされていた。
ラトーヤ・ロビンソンはニュージャージー州初の黒人女性知事だ。
47歳の彼女は引き締まった表情で会見場のマイクの前に立っていた。ビュッフェの7人はテレビの画面に集中する。
『現在パッサヤンカ郡、特にシルバークリーク市を中心とした複数の地点において暴動が発生中です。住民はすみやかに帰宅して自宅に留まってください』
知事は事務的な口調で言った。
独立系メディアの記者が手を挙げる。
『知事。SNSで人を襲うゾンビのような映像が拡散されていますが?』
会見場がざわめいた。知事は記者の質問へ呆れた表情を返す。
『そのような事実は把握しておりません。住民はネットのデマに惑わされず、州と市の情報に耳を傾け、冷静な行動を心掛けてください』
知事は少しだけ笑みを浮かべ、自信ありげな態度で言う。すると、また別の記者が挙手した。
『パッサヤンカ郡保健局がシルバークリーク医療センターの封鎖措置を行っているという情報については?』
『それは事実です。感染症に対する予防装置であり、通常のプロトコルです。暴動とは一切関係ありません』
『感染症とはどのようなものですか?』
『現在調査中であり詳細は不明です』
知事は淡々と回答した。さらに別の記者が質問する。
『シルバークリーク市長が行方不明との情報が入っています。これは事実ですか?』
『現在、通信と電話回線が非常に混雑しています。それが原因かと思われます』
知事の回答はどこか歯切れが悪かった。
『なぜ市長は会見を開かないのですか?』記者が食い下がる。
すると、州職員が割って入り「質問の時間はここまでとさせていただきます」と言い、知事の会見は強引に打ち切られた。
「暴動が起きているのか。しかも、この街だけじゃない?」
トレスが目を細めながら言った。
「感染症がどうとか言っていたわね。本当に暴動とは関係ないのかしら?」
ミリアムが疑問を口にした。
「ゾンビがウイルスのせいなら、絶対に関係あるでしょ! 知事は情報を隠してるんだ!」
「私もそう思うわ」
チャーリーが言い、ジャスは強くうなずく。
ふと、ミリアムはイメルダのほうに目を向けた。イメルダの左手首には引っかかれたような痕があり、薄く皮膚が裂けて血がにじんでいる。
「イメルダ……その傷はどうしたの?」
「逃げてくる途中、ビルの前でラリった男に腕を掴まれたのよ。その時に引っかかれて……」
「えっ! じゃあ、ゾンビに引っかかれたんですか?」
チャーリーが尋ねた。イメルダは「知らないわよ」と言い、左手首の傷をシャツの袖で隠すようにする。
ビュッフェの空気が少し変わった。
誰も口にしなかったが、何人かは頭で同じことを考えていた。
映画やゲームの世界では、ゾンビに引っかかれた人間はゾンビ化するのがセオリーだ。それはもちろんフィクションの中だけの荒唐無稽な話だが、この非現実的な状況が皆の不安を増幅させている。
「さっきテレビで記者が、シルバークリーク医療センターを郡保健局が封鎖したと言っていたわよね……?」
改めてミリアムが不安を口にした。
「本当だ、これを見てくださいよ!」
チャーリーはスマホの画面を皆に向けた。
SNSのXには防護服を着た一団が車を降り、医療センターへ入っていく様子をとらえた動画が投稿されていた。
「チャーリー、それはいつの動画なんだ?」
ベンが尋ねた。
「ええと……テロップは今朝10時になってます。投稿されたのもその時間だし、本物っぽいですよ」
チャーリーの説明に、ビュッフェの空気が一段と重たくなった。
皆は何か言いたげに、イメルダへ視線を向けている。
「な……何よ? 何だって言うの?」
イメルダはいら立ちを隠しきれない様子で皆をにらみ返した。
沈黙の後、トレスが重苦しい顔で口を開く。
「イメルダ……念のため、別室へ移ってもらうわけにはいかんか?」
「私を閉じこめるって言うの?」
イメルダは眉を吊り上げた。
「待ってくださいよ、トレスさん。暴動の原因が病気と決まったわけじゃないでしょ?」
ベンは慌てて言った。
「そうよ。知事も感染症と暴動は関係ないと言っていたわ!」
イメルダも強い口調で言った。
「ねえイメルダ、体調はどうなの? 気分が悪かったりはしない? 寒気は?」
ジャスが隣へ寄り添うようにして尋ねた。
「な、何ともないわよ……」
しかし、イメルダの額には薄く汗が光っていた。頬も赤みを帯び、呼吸はやや荒い。明らかに何らかの症状が出はじめている。
それに気づくや、ランディとミリアムの2人は露骨にイメルダから距離を取った。
「……イメルダ。ゾンビなんて馬鹿げているし、私は絶対にそんなものを信じない」
トレスが言いながら進み出て、さらに言葉を続けた。
「だが、病気であれば他の人間に伝染る可能性があるんだ。どうだろう? ここは冷静に考えてくれないか?」
「い、嫌よ。隔離されるなんて絶対にごめんだわ!」
イメルダは声を荒げてトレスの提案を拒む。
「映画やドラマだと、原因に関係なく死んだ人間はゾンビ化するパターンと、感染でゾンビ化するパターンがあるんですよね」
チャーリーは独り言のようにつぶやいた。
「やめてよ、チャーリー!」
イメルダは怒りに顔をゆがめて叫ぶ。
「ワガママな女だな」と、ランディは吐き捨てた。
「俺がアンタの立場なら、みんなのために進んで隔離されるがね?」
「ええ、私だってそうするわ」
ランディとミリアムは、テーブルをはさんだ位置に立ち、口をそろえて言った。
「よく言うわ! 他人事だと思って!」
「イメルダ。きみの不安な気持ちは理解する。だが、ここはグループの安全を第一に考えるべきなんだ。わかるだろう?」
トレスは努めて冷静に、イメルダを説得しようとした。
「閉じこめたら監禁罪で訴えるわよ!」
イメルダは断固として譲らない。
ベンも意見しようとしたが、何が正しい選択なのか判断することができず、結局、話に加わることはできなかった。
押し問答はしばらくの間、続いたが、イメルダの頑なな態度は変わらず、皆は説得をあきらめるしかなかった。




