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シルバークリーク  作者: 水咲邦明
EP.02「メンテナンス・スタッフ/ベンジャミン・“ベン”・エヴァンス」

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7/10

【 Ⅰ 】メトロ・コア・センター

 メトロ・コア・センターはシルバークリーク東地区のシティパルス・ストリートに建つ、16階建ての高層ビルだ。

 築年数は60年に及び、外壁に走るひび割れや、くすんだグレーの外観が長い年月の経過を物語っている。

 設備の老朽化は深刻で、空調が突然止まる、水流が極端に弱くなる、エレベーターのドアが閉まらなくなるといったトラブルは日常茶飯事だった。



2026年2月9日

AM8:00


 ベンジャミン・“ベン”・エヴァンスは就業30分前にビルのエントランスへと入った。


 ベンは49歳のカナダ系アメリカ人だ。長身で華奢な体つき、口周りのひげは濃いが頭頂部はうら寂しく、本人はそれを気にして、常にキャップを深くかぶっている。

 彼はこのビルの設備保守員で現場のチーフを務めていた。


 ベンは受付嬢のリンダと挨拶を交わし、エントランスを抜けて更衣室へ向かった。その途中、濃紺のスーツを着た壮年の男性がエレベーターから降りてくる。

「おはよう、ベン」

「おはようございます。シャペルさん」

 ハリー・シャペルは民間警備会社WGS(ウォーカー・グローバル・セキュリティ)のコンサルタントだ。薄い金髪を整え、引き締まった体躯をしており、一見すると冷徹そうな印象ながら、誰に対しても温厚で礼儀正しい人物である。

「もしかして徹夜で残業ですか? 大変ですね……」

「昨夜は仕事が長引いてしまってね。帰ったら泥のように眠るよ」

 シャペルは目の下に疲労の色を見せつつも、穏やかな笑みを返すと、ベンに軽く手を振ってビルを出て行った。


 ベンは更衣室で薄い水色の作業着に着替え、地下1階の中央監視室に向かった。夜勤の同僚から手早く引継ぎを終える。

 薄暗い室内にはビル管理システムのモニターが壁一面に並んでいた。数字とランプが点滅し、空調設備のログが流れていく。相変わらず一部の空調にエラーが確認できた。

「まただ。先週からずっとなんだよな。何度も報告してるってのに……」

 顎ひげを指でいじりながらぼやいた。老朽化した空調ユニットには根本的な修理が必要だ。しかし、予算の承認がなかなか下りないのである。

 ベンはキーボードに向き合い、設定値を細かく調整して、その場しのぎの修正で対応した。



AM10:30


 ベンは一旦、作業を中断してエントランスに戻った。自販機でホットコーヒーを買う。

 熱いコーヒーに口をつけていると、エレベーターの扉が開いた。降りてきた男を見て、彼は思わず首を傾げた。


 今朝早くに帰宅したはずのシャペルが、なぜかまたエレベーターから姿を現したのだ。

「シャペルさん、帰ったのでは?」

「やあ、ベン……戻ってきたんだ。仕事をひとつ思い出してね。……もう片づいた、今から帰るところだよ」

 シャペルの顔色は、朝に会った時とは別人のようだった。肌は青ざめ、額には脂汗がにじんでいる。その声は上ずり、目の焦点もどこか定まっていない。

「だ、大丈夫ですか? シャペルさん、どこかお加減でも?」

「平気だ。ただの寝不足だよ……」

 シャペルは無理につくったような笑顔をした。

 ふとベンは、シャペルが右手に包帯を巻いていることに気づいた。今朝エントランスで話した時、彼は手に怪我などしていなかったはずだ。


「その手は……?」

 ベンは一歩踏み出した。その刹那――。

「私に近づくな!」

 エントランスに声が響いた。普段の紳士的なシャペルからは、想像もつかない剣幕だった。受付嬢のリンダも、いったい何事かと2人に視線を向ける。

「し、失礼しました……!」

 ベンは驚いて後ずさった。

 するとシャペルは目を閉じて小さく首を振った。何かを振り払うかのようだった。

「いや……すまない、ベン。寝不足でどうかしているようだ」

 シャペルは苦しそうな笑顔で言った。

「今度こそ帰るよ」

「はい……お気をつけて……」

 戸惑いながらシャペルを見送る。が、シャペルは自動ドアの前で、何か思い出したように足を止めて振り返った。

「ベン……きみの両親はたしかカナダだったね?」

「はい、そうですが」

「弟さんもいたね?」

「ええ。弟の家族はヨンカーズに住んでいますよ」

 ベンは過去にビル内のカフェで昼食をとった時、相席したシャペルと何度か私的な会話をしていた。シャペルが元軍人だという話を聞いたこともある。

「ええと……私の家族が何か?」

「…………い、いや、何でもない。それより、今日はニュースをよく見ておいたほうがいい」

「ええ?」

 シャペルは汗の浮いた顔で、じっとベンを見つめていた。

「何かあったら、まっすぐ家に帰るんだ。いいね?」

「どういう……ことですか? それは、あなたのお仕事と何か関係が……?」

 ベンは尋ねた。するとシャペルは首を伸ばし、ベンの体越しに受付嬢のリンダへも大声で呼びかける。

「きみもだ、リンダ。異変を感じたら、すぐに帰宅するんだ」

「シャペルさん……?」

 リンダは受付で目を丸くしている。

「とにかく、気をつけたまえ」

 シャペルはもう一度ベンにそう告げると、病人のような足取りでビルを後にした。自動ドアが閉まり、ガラス越しの背中が人ごみに紛れて消える。


 ベンはしばらくその場に立ち尽くした。コーヒーの紙コップを手に、自動ドアを見つめながら、シャペルの言葉を頭の中で反復する。

「ねえ、今のは何? シャペルさんと何の話をしていたの?」

 リンダがカウンターから出てきてベンに尋ねた。

「さあ……さっぱりわからないよ」

 シャペルが何を伝えたかったのか、ベンには見当もつかない。

 一度出て行った彼が、なぜまたビルに戻ったのか。手の怪我は何が原因なのか。些細なことのようだが、ベンは妙に気になった。



AM11:00


 ベンは中央監視室で悪戦苦闘していた。空調ユニットのエラーコードが3つも並んでいる。上階からは「エアコンが動かない」というクレームの電話が何度もきていた。 

 調整作業に没頭していると、館内放送が聞こえた。ビルの警備責任者ニック・ジェニングスの声だ。

『現在コマーシャル・リッジ・アベニュー付近で暴動が発生しています。各階のテナントの責任者は従業員とお客様へすみやかに帰宅を促してください』


 ベンはモニターから目を離さずに聞いていた。

 暴動か、原因は何だろうと首を傾げたが、意識は空調のエラー解消に集中する。今朝のシャペルとのやり取りも、もう頭から消えていた。



AM11:45


 ベンは早めの昼食をとろうと、1階のカフェに向かった。

 エントランスはひっそりしている。自分の靴音がやけに響き、人気がないせいか、いつもと同じ照明が薄ら寒く感じられた。


「ええぇ……参ったな……」

 カフェはシャッターが降りていた。閉店の立て看板が出ている。

 ベンはキャップを脱ぎ、薄い頭を掻いた。外へ食べに行こうかと思案していると、背後から警備責任者のニックの声がした。

「ベン、カフェはもう閉店だ。ビルの従業員もほとんど帰宅した。きみも帰ったほうがいい」

 ニックは中年の黒人男性で、ベンとは対照的なたくましい体つきだ。

「俺はメンテナンス・チーフだし、帰るわけにはいかないよ。ニック、さっき暴動と言っていたが、医療センターの近くだよな?」

 シルバークリーク医療センターのあるコマーシャル・リッジ・アベニューは、メトロ・コア・センターからはずいぶん離れていた。

「2度目の放送を聞いてないのか? 暴動はほかの地区でも起きているんだ」

「えぇっ、そうなのか?」

 作業に夢中で、2度目の放送はまるで耳に入らなかった。

「シルバークリーク市警からも連絡がきているんだ。全員の帰宅が確認できたらビルは閉鎖する」

「いやいや、待ってくれよ、ニック。空調ユニットのエラーが点滅しっぱなしなんだ。今は帰れないって」

「そんなものはまた明日でいいだろ?」

「でもなぁ……」


 2人が会話を交わしていると、入り口の自動ドアが開いた。数人の男女がエントランスに入ってくる。その異様な姿に、2人はそろって目を見開いた。


 人数は6、7人。年齢も服装もばらばらだが、共通しているのは全員がひどい怪我を負って、血まみれということだった。


 ベンは言葉を失い、唖然とした表情で棒立ちになる。

 一方のニックは「なんてことだ……」と驚きを口にしながらも、慌てて駆け寄っていった。

「何があったんですか? すぐに救急車を呼びます!」


 次の瞬間、男女の集団は一斉にニックへ掴みかかった。

「何を…………!?」

 彼らはうめき声をあげながら、ニックを床へ押し倒した。

「は、はなせ、やめないか……!」

「ニック!」

 ベンは叫んだが、足はまったく動かなかった。体が硬直し、呼吸だけが浅く速くなる。


 やがてニックの口から恐ろしい悲鳴があがった。若い女がニックの首筋に食らいついている。頬の欠損した男はニックの右足に噛みつき、警備員の制服ごと肉を食いちぎった。

 ニックはもがき、ホルスターの拳銃へ必死に手を伸ばした。だが、その腕も押さえつけられ、血まみれの老人が獣じみた形相で牙を剥く。


 ベンは腰が抜けそうになったが、かろうじて立ち続けていた。目の前の光景が現実とは思えない、頭が真っ白になり、自分が何をすべきなのかまったくわからない。


「ニック……」

 かすれた声が漏れる。ニックはもう動いていなかった。すると、血まみれの集団は彼に興味を失ったように、ゆっくり起き上がると今度はベンに向き直った。


 そしてさらに信じられないことが起きる。全身を食いちぎられ、死んだかに思えたニックがよろよろと立ち上がったのだ。


 その顔はもうベンが知るニックのそれではなかった。瞳はよどみ、口から血の泡を噴き、地の底から響くようなうめき声をあげている。


「きゃあああっ!?」

 エントランスの上から耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。視線を向けると、吹き抜けの2階通路には受付嬢のリンダの姿があった。凄惨な光景を前に彼女は絶叫し、一目散に女子トイレへ駆けこんでいった。

 リンダの悲鳴を聞き、ベンは我に返って硬直していた足に力が戻った。彼はキャップをかぶり、全速力でエレベーターに向かって走る。

 ボタンを連打している間、血まみれの男女とニックはゆらゆらとベンのほうへ向かって歩いてくる。

「早く、早く、早く……!」

 ベンは泣きそうな顔で連呼し、エレベーターのボタンを押しまくった。


 やがてポーンという緊張感のない音を響かせて、エレベーターが1階に到着した。ベンは中に飛びこみ、今度は「閉」ボタンを連打した。

 だが、扉はなかなか閉まらない。

「こんな時に! 閉まれ、閉まれよ!」

 一度閉まりかけ、なぜかまた開いたりする。未知の襲撃者と血まみれのニックがどんどん迫ってくる。

「閉まれって! このボロエレベーター! 閉まれー!」

 ベンは目を剥き、極限の恐怖の中で叫び、ボタンを押し続けた。

 今まさにニックたちが乗りこもうとした時、間一髪でエレベーターの扉は完全に閉まった。

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