【第20話】崩壊
PM05:40
完全に日が沈んだ頃、通路の方角から女性のわめくような甲高い声が響いた。続いて「ダン! 来てくれ、早く!」と男の叫ぶ声がする。ダニエル、テレンス、それにドールの3人は顔を見合わせると、すぐに通路へと駆け出した。数人の市民もその後を追いかける。
(はじまった……!)
ライフはついに隔離部屋で最悪の事態──負傷者のゾンビ化が起きたのだと察する。彼は恐怖におののいたが、ただ目を背けることもできず、及び腰で隔離部屋の様子を見に向かった。頭の中では好奇心と保身がない交ぜになっていた。
「ダン! マズいぞ、どうする……!?」
隔離部屋では見張りの1人、リッキーという男が母娘に向けて拳銃を構えていた。
「なんてことだ……」
ダニエルは目の前の惨状に息を呑んだ。負傷して意識を失っていた12歳の少女、デイジーの変わり果てた姿があった。肌は蒼白で目の周りは黒ずみ、血の滴る口からうめき声を漏らしている。
その血は母親のものだった。デイジーの母サマンサは腕に噛み千切られたような痕があった。たった今、娘に噛まれたのだろう。それでもサマンサは腕を振り回す娘を抱きしめ、懸命に彼女を銃口から庇っている。
他の感染者も今は全員が意識を失っていた。付き添いの家族や知人らは、自分と家族の身を守ろうとしている。
「娘に銃を向けないで!」
サマンサは暴れ狂う娘を押さえながら叫んだ。
「撃つぞ! 子供から離れるんだ!」
「私の娘よ! 絶対に手を出させないわ!」
銃を構えたリッキーと、ゾンビ化した娘を庇うサマンサとの間で押し問答が展開する。
「銃を下ろしてよ!」
「ふざけるな! みんな死ぬぞ!」
リッキーの声が裏返った。
ダニエルは「テレンス!」と叫び、母親のほうへ駆け寄る。テレンスも手を貸し、無理やりデイジーから母親を引き離そうとした。
「いや! はなして!」
サマンサは全力で抵抗した。デイジーは母親に抱かれながら、牙を剥いてダニエルやテレンスに噛みつこうとする。
その時、部屋の一角から断末魔のような声があがった。
「ダン!」と、ドールが叫ぶ。
ダニエルが目をやると別の負傷者の1人、身寄りのないホームレスの男が、そばにいた市民を押し倒して首に食らいついていた。噛まれた市民は絶叫しながら血を吐いた。室内に悲鳴が重なり、隔離部屋は大混乱に陥った。
ホームレスの男は他の市民にも襲いかかり、噛まれて死んだ市民もまた別の人間を襲う。
「みんな、部屋の外に出るんだ!」
ダニエルはサマンサを救うことをあきらめた。どの道、彼女は娘に噛まれている。テレンスもサマンサから離れ、部屋の出口で逃げ出そうとする市民を誘導した。
「ヤバいよ! 噛まれた人も外に出ちゃってる!」
ドールは言いながら、ゾンビ化したホームレスをバットで殴りつけた。
「今は区別している暇はない! ゾンビだけを閉じ込めるんだ!」
ダニエルも拳や蹴りを振るって、部屋の出口をゾンビから死守した。
混乱の渦の中、狭い室内に2発の銃声が反響する。リッキーがデイジーに向けて発砲したのだ。だが、少女の胸に撃ち込まれた弾丸は、彼女の動きをわずかに鈍らせる程度だった。
「やめてー!」
娘を撃たれ、サマンサは逆上した。彼女は隠し持っていた拳銃を抜くと、反射的にリッキーめがけて引き金を引いた。銃弾は首に命中し、リッキーは後ろに倒れて即死した。
「娘から離れて! みんな出て行って!」
サマンサはダニエルたちにも銃を向けてくる。
「よ、よすんだ、落ち着きなさいサマンサ……我々はきみの敵じゃない!」
「嘘よ! 娘を殺す気ね!」
テレンスはサマンサを宥めようとしたが、彼女の目は血走り、理性を失っているようだった。その後ろではデイジーが別の市民に襲いかかっている。
さらに異常な出来事が起こった。サマンサに銃で撃たれて即死したリッキーが、獣のように唸りながらゆっくり起き上がったのだ。彼の表情や動きは、室内にいる他のゾンビとまったく同じだった。
「なんで!? 撃たれて死んだのに!」
ドールが驚愕の表情で言った。ダニエルも答えが見つからない。
「リッキーは感染を隠していたのでは……」
テレンスがリッキーを見て、目を細めながら言う。いずれにせよ隔離部屋は収拾がつかない事態に陥っている。ドールは迫るゾンビに金属バットで応戦しながら大声で叫んだ。
「ダン! どうするの!?」
「もう駄目だ! 部屋から出るぞ! みんな、早く……」
ダニエルは叫んだが、その声は銃声にかき消された。もう1人の見張りがパニック状態で銃を乱射しはじめたのだ。噛まれたり引っ掻かれたりしながら傷を負って逃げ出す者、ゾンビ化した家族のそばから離れようとしない者……誰がゾンビで、誰が感染者で誰がそうでないのかさえ、正確に把握することができない。
隔離部屋の混乱は瞬く間に体育館全体へと波及した。
「ゾンビが来るぞ! 早く逃げるんだ!」
ライフが悲鳴のような声で叫んでいた。隔離部屋が修羅場と化した時、彼はいち早く体育館に逃げ戻り、市民たちを扇動して外へ出ようとした。
「さっさと手を貸せ! みんな食われるぞ!」
ライフはわめき散らし、せっかく積み上げた椅子やテーブルを手当たり次第にどかし、釘で打ち付けた板を力任せに剥がしていく。恐怖を煽られた市民たちもそれに手を貸してしまう。
「あのバカ……!」
駆け戻ったドールがライフの愚行を見て叫んだ。
「よすんだ! 何をしている!?」
ダニエルも叫んだ。しかし、制止の声は間に合わなかった。バリケードは撤去され、体育館の扉が無防備に開け放たれる。
その瞬間を待っていたかのように、血まみれの手が霧の中から一斉に伸びてきた。数人の市民が外に引きずり出され、入れ替わりにゾンビの群れが館内に雪崩れ込んでくる。
「うわああああ!」
ライフは幸運にも、ゾンビに掴まれることなく外に転がり出ていた。だが、夜の闇と霧のせいで視界はまったく利かない。彼はただ1人、広い駐車場を行ったり来たりした。ゾンビをかわし、車の陰に隠れながら当てもなく逃げ回る。
その頃、館内は血みどろの地獄と化していた。隔離部屋からゾンビが溢れ、外からも群れが侵入し、もはや手の施しようがない。
「我々も逃げるしかない……テレンスは?」
ダニエルは避難所を捨てる決断をした。テレンスとは通路ではぐれてしまっていた。
「わからないわ。隔離部屋は出たはずだけど……」
ドールはミラを捜したが、彼女の姿も見当たらない。
「みんな、逃げるよ! こっちに集まって!」
ドールがバットを掲げて叫ぶ。ダニエルと彼女は残った市民をまとめ、通路から体育館の裏口を目指した。他の市民らもゾンビに追われながら、散り散りになって逃げ出していった。
暗闇と霧の中、ライフは恐怖で泣きながら、必死に車の陰に隠れてゾンビをやり過ごしていた。
「ダンのせいだ……ダンがさっさと隔離をしなかったから……!」
彼は車のボディに貼りつきながら、避難所のリーダーを務めたダニエルを罵り続けていた。負傷者がゾンビ化するのは時間の問題だった。わかりきっていたことだ。ダニエルの中途半端な対応が事態を悪化させたのだ。隔離部屋に鍵をかけ、一切の出入りを禁止すれば良かったのだ。自分がリーダーなら間違いなくそうした。
「やっぱり、ダンは力不足だったんだ。もっと早く、俺がみんなをまとめていたら……」
「こっちだ!」
霧の向こうから声が聞こえた。
ライフは弾かれたように顔をあげた。藁にもすがる思いで声の方向へ走っていく。
「みんな、早く車に乗れ!」
1台のミニバンのそばに黒人教師のテレンス・ドーソンがいた。彼は辺りに散らばった市民に呼びかけ、自分の車に誘導していた。
「乗せて! 乗せてくれ!」
「急げ!」
ライフは全力疾走すると、ミニバンの後ろに乗り込んだ。さらに数人の市民が合流する。しかし、声に気づいてゾンビも続々と集まってきた。
「これ以上は無理か……よし、車を出すぞ!」
テレンスは運転席に座った。濃い霧におおわれた駐車場からミニバンは静かに走り出す。後ろの体育館では、逃げ遅れた市民の悲鳴が今もなお響いていた。




