【第18話】リーダー
PM01:30
冬のシルバークリークは霧に包まれることが多く、この日も朝から濃霧注意報が出ていた。だが、街の混乱は霧どころではない。
立ちのぼる火災の煙、鳴り響くサイレン、逃げ惑う人々、遠くからは散発的な銃声が聞こえてくる。
スーパーでゾンビに遭遇して以来、ライフの思考はショートしたままだった。
「ひぃ、ひっ、ひぃっ……!」
目に涙を浮かべながら通りをひた走る。自宅のマンションへ戻るという発想すら抱かない。通りでも大勢の市民が右往左往していた。
そんな中、交差点で猛スピードのトラックがタクシーに追突した。数台の車両が巻き込まれ、何台かは横転した。激しい物音と衝撃に驚き、ライフはつんのめって歩道に倒れてしまう。
「い、いったぁ……」
額と胸を強打し、眼鏡が外れて飛んでいった。
「誰か、救急車を!」
「手を貸してくれ!」
車両が白煙をあげる真横の事故現場では、市民たちが大声で叫んでいた。大破した車両に閉じ込められた人たちを救出しようとする。
ライフは眼鏡を拾うと、痛みに呻きながら顔をあげた。ふと、すぐ脇の路地で1人の男が倒れていることに気づいた。コート姿の女が男の横で屈んでいる。ライフは女が、事故に巻き込まれた怪我人の手当てをしているのかと思った。
だが、くるりと振り向いた女の顔は、おびただしい量の血にまみれていた。口には肉片らしきものがぶら下がり、女はくちゃくちゃとそれを噛みしめている。
「ひぃいっ……!?」
女と目が合った。女はゾっとするような表情で目を見開き、四つん這いの姿勢でライフに迫ってくる。
「助けてぇええっっ!!」
ライフは金切り声をあげながら立ち上がった。他の市民が事故の怪我人を救おうとしているのを尻目に、彼は死に物狂いでその場を逃げ出したのだった。
PM02:30
ライフはシルバークリーク東地区パービス・プロムナードにある市立体育館にいた。どうやってここに来たのかさえ覚えていない。ここを目指したわけでもない。ゾンビから逃げ回っているうちに、偶然たどり着いただけだ。
体育館には彼と同じように、混乱から逃れてきた20人ほどの市民がいた。
「ゾンビだよ、この目で見たんだ、間違いない!」
「まさか、何かの病気でしょ? 空気感染するのかしら……」
「ネットにはテロだと書いてあった。ワシントンD.C.も攻撃を受けたらしいぞ?」
「化学工場の薬品が流出したのが原因だって……」
市民たちの間では真偽不明の情報が飛び交っていた。皆スマホを手にして懸命に家族との連絡を試みている。だが通信は機能せず、電話もネットもほとんどつながらない状態だ。
「落ち着け、落ち着け、落ち着け……」
ライフは体育館の壁際に立ち、自分に言い聞かせていた。
10年以上この時を待っていたはずだった。社会が崩壊する時、デイヴィッド・コリンズは“偉大なるサバイバー”に覚醒する。
しかし現実に――目の前にゾンビが現れると、彼の理性は一瞬で崩れ去った。サバイバルが幕を開けたその時、彼は自分が逃げるために、そばにいた女性を突き飛ばしていた。
逃げる途中、事故に遭遇しても怪我人を救出する余裕などなかった。しようという発想すらなかった。
(こんなはずじゃ……こんなシナリオじゃなかったはずだ。なんで……)
ライフは頭を抱えながら、おさまらない恐怖と、空想と現実とのギャップに震えていた。
(いや……ゾンビなんて想定外だ。あまりに現実離れしている……これが地震や津波なら、俺だってもっと冷静に……)
やがてライフは体に腕を巻きつけるようにして、体育館の床にへたり込んだ。
スーパーで見たゾンビの群れ、交差点で見た女のゾンビ、襲われた市民たちの断末魔の悲鳴が耳から離れない。
PM03:00
避難してから30分ほどが経った。ライフは未だ体を丸め、体育館の隅に座っていた。
スマホで情報を集めようとするのだが、州や市のサイト、SNSにもまったくつながらない。
そのうち新たなグループが体育館に避難してきた。何気なくその一団に目を向けた時、ライフはびくっと両肩を大きく揺らした。
グループにはエミリー・“ドール”・ホワイトがいた。彼女はノース・スター・フーズのエプロンを着けたままだ。返り血を浴びたようにエプロンは赤く染まり、右手に握る野球バットにもべったりと血がこびりついていた。
ドールはライフに気づくと、険しい表情になり、ズカズカと大股で近づいてくる。
「あんた何考えてんの? ミラは死ぬところだったのよ」
ライフを見下ろして、怒りに震える声で言った。
「ミラって……?」
「美容師よ」
ドールは首を振って、その人物を示した。ライフの顔がまた強張る。避難グループにはスーパーで彼が突き飛ばした、中年の黒人女性の姿があったのだ。
「ドールは……彼女と知り合いなのか?」
ライフは気まずさを誤魔化すようにそう尋ねた。
「お店の常連だもの。そんなことより、あんたマジで情けないね。人のことを突き飛ばして、自分だけ逃げるなんて。それでも男なの?」
「ち、違う……突き飛ばしたわけじゃない! ただ、俺は、その……ちょっと……混乱して……」
「ふーん」
ドールは適当に鼻を鳴らし、ライフに軽蔑の眼差しを向ける。だが、ライフは自分への非難よりも、別のことが気になって仕方なかった。
ドールのバット、それにエプロンについた返り血だ。
「ドール……そのバット……ゾンビを殴ったのか?」
「そうよ」
「きみ、血まみれだけど……」
「は? だから何よ?」
ライフは壁に背中をくっつけた。彼女から距離を取るように、体を少しずつずらしていく。
正午の記者会見でロビンソン知事は、郡保健当局がシルバークリーク医療センターを封鎖中だと話していた。知事は暴動と感染症の因果関係を否定したが、今の状況からして到底そうは思えない。
(間違いない、ゾンビの原因はウイルスだ。それなら……)
「何なのよ? 人のことをジロジロ見て」
「い、いや、何でもないよ……」
「あっそ」
ドールは不快そうに言い捨て、ライフに背を向けると、一緒に避難してきたグループへと戻っていった。彼女が遠ざかり、ライフは安堵の息を吐く。
(馬鹿なのか、ドールのやつ……あんなにゾンビの血を浴びて、感染したらどうする気だ? そんなことにも頭が回らないのか)
ライフは薄ら笑いを浮かべ、心の中で毒づいた。
PM03:30
市民体育館は平時から避難所に指定されていたため、水や非常食がそれなりに備蓄されていた。職員が運んでくると、市民は無秩序に群がって自分のものを確保しようとする。
(馬鹿ばかりじゃないか……公平に分配しろよ。誰か統制を取る人間はいないのか?)
ライフはやれやれと大きく首を振る。避難所にきてから1時間以上が経ち、ようやく普段の自分らしい頭の冴えが戻ってきた。
(避難している市民は40人くらいか。これだけ人数がいれば、まともな教育を受けていない人間、保険の約款も読めない境界知能の人間……英語をろくにしゃべれない移民もいるだろうな。それに大抵の人間は感情が先行して、論理的な思考をすることができない……逆に正常性バイアスのせいで、危機を危機として認識できない馬鹿もいるだろう)
ライフは市民の様子を観察する。今こそ自分が動く時ではないだろうか。か弱い市民たちをまとめるリーダーが必要だ。
スーパーでは常識外の出来事に、対処することができず醜態をさらしてしまった。だが、今は違う。いつもの冷徹な頭脳が働いている。
(よし……)
ライフはついに思い立ち、物資に群がる市民へ声をかけようとした。
「みんな……」
「みんな、落ち着いてくれ。騒ぎの原因はまだ何もわかっていない。だが、深刻な事態なのは確かだ。こんな時だからこそ、我々は皆で助け合い、秩序を保つべきだ」
力強く響いた声に市民たちは動きを止める。彼らの視線は中国系の、壮年の男性に集まった。黒髪の短髪に強い意思の宿った瞳。背は高く、体格もがっしりとしている。
「私はダニエル・リュウ。元消防士だ。今は建築住宅局の職員だが……こうした事態には、恐らくこの場の誰よりも慣れている」
「元消防士だって! めっちゃ頼りになるじゃん!」
ドールは思わず手を叩いた。
「皆、彼の言うことを聞きましょう。危機管理の専門家よ」
美容師のミラも市民たちに呼びかけた。彼らは顔を見合わせると、承知したように、順番にうなずいていった。
「あ…………」
ライフはダニエルの背後で、出そうとした声を引っ込めた。そしてすごすごと壁際に戻っていく。
(ま……まあいい。ここは彼に譲っておこう。俺が力を発揮する場面は、もっと事態が深刻化してからさ……)




