【第17話】新たなステージ
2026年2月9日
AM10:40
「ついにきた」
デイヴィッド・“ライフ”・コリンズはスマホの画面を見ながら、静かに、しかし確信を持ってつぶやいた。
この日、ライフは有給休暇だった。会社を休んだ理由は何となくモチベーションが上がらなかったから、ただそれだけだ。自宅であるマンションの一室で、彼は朝からオンラインゲームをしていた。
だが、退屈な日常は一変した。
テレビはニュージャージー州パッサヤンカ郡シルバークリーク市における暴力事件について繰り返し報じていた。XをはじめとしたSNSでは人間が人間を襲う、まるでゾンビ映画のような動画がいくつも拡散中だ。窓の外からは緊急車両のサイレンが絶え間なく聞こえてくる。
ライフは息を呑み、YouTubeの動画を次々と再生した。駅のホーム、利用者たちの悲鳴が響く中、血まみれの会社員が駅員を押し倒し、その首に食らいついている。
別の動画では頬が大きく欠損し、顔の骨がむき出しの女性が、うめき声をあげながら撮影者に迫っていた。
ライフは会心の笑みを浮かべていた。
29歳、アイルランド系の血を引く長身の男。茶髪のパーマにどこか神経質そうな面長の顔立ち。丸い金属フレームの眼鏡の奥の瞳が、抑えきれない興奮と期待で異様に輝いている。
「終われ、終わってしまえ……」
ライフはこの混乱が全世界に広がり、社会が崩壊することを心の底から願った。
保険会社に就職してから7年。営業成績は無難。上でも下でもない。会議で発言をしても、翌週になれば誰も覚えていない。
あだ名の“ライフ”は、生命保険のセールスマンであることを自嘲気味に表している、彼自身がつけたあだ名だ。
ライフは鬱屈していた。なぜ世の中は自分を正しく評価することができないのか。幼少期にはIQテストで130以上を記録した。それなのに学校生活は地味そのもの、社会に出てからもこれといった成果がない。
頭は良い、運動神経は悪くない、背は高いし太ってもいない、交際経験は人並みにある。だが、ライフは何をするにも情熱が欠けていた。そして、それは自分を本気にさせようとしない環境のせいだと思っていた。
自分が評価されないのは今までの人生において、才能を発揮できる舞台が用意されなかったからだと。
「これだよ……ずっと、これを待っていたんだ。信じられない、本当にこんなことが起きるなんて……」
心の声が自然と溢れ出る。YouTubeの動画を次々と再生する間、ライフの口元は緩みっぱなしだった。これで世界は一変する。彼が待ちわびた“新たなステージ”が始まるのだ。
ライフには夢があった。10代半ばから、同じ空想に繰り返し耽っていた。
アメリカに巨大地震がくる、大津波が東海岸を飲み込む、制御不能なパンデミックが起きる――自然災害、疫病、テロ、きっかけは何でもいい。要は社会が大崩壊を迎えればいいのだ。
その時こそデイヴィッド・コリンズは生まれ変わる。誰も気づくことができなかった、彼の才能と知性、リーダーとしての資質が開花する。
平凡な保険のセールスマン“ライフ”は、混乱の中で人々を導く“偉大なるサバイバー”へと豹変するのだ。
彼の空想は驚くほど具体的で詳細だった。
廃墟となった銃器店で武器を調達する場面、遺棄された米軍のトラックを運転し、取り残された人々を救出する場面。郊外にキャンプを張り、絶望を嘆く生存者たちに力強い演説で希望を与える場面。
軍人や政治家が支配する悪辣な生存者グループと対決し、彼らを打ち破って新たな世界の秩序を築く――。
まるでポスト・アポカリプスを描いた映画やドラマのようなシナリオを、ライフは10年以上に渡って、頭の中で何百回とシミュレーションしてきたのだ。
だが、ライフはスマホを手放さなかった。
彼はソファーに寝そべり、今度はXを開いてタイムラインを追いかける。
利用者の殺到で回線はかなり重たい。読み込みの遅さに苛立ちつつも、ライフは流れてくる投稿を精力的に分析した。
「なんだこれ、『28日後…』じゃないか。こんなものに騙される馬鹿がいるのか?」
映画の切り抜きが『シルバークリーク・パンデミック』のハッシュタグでバズっている。ライフは鼻で笑い飛ばした。
「これもフェイクだ。明らかにAIじゃないか」
ライフのネットリテラシーは高く、フェイクと本物を正確に見分けることができた。加工の痕跡を確認し、撮影場所の背景を分析し、投稿時刻の整合性をチェックする。
不毛なレスバトルには参加しないが、バズっているフェイク画像や動画には精緻なコミュニティ・ノートを提案した。
「この動画は本物だ」「これは生成AI」「また映画の切り抜きか」
マンションの自室でぶつぶつとつぶやきながら、ひたすらXのタイムラインをスクロールする。
空想の中の自分はすでに武器を手に入れていた。だが、現実のライフはくたびれたソファーに寝そべってスマホを眺め、親指の屈筋運動をしているだけだった。
PM00:45
いよいよネットが繋がりにくくなってきた。正午にはニュージャージー州知事ラトーヤ・ロビンソンが記者会見を行ったが、その内容は「暴動が発生中、住民は自宅に留まるよう」という、あまり中身のないものだった。ただ、シルバークリーク医療センターを郡保健当局が封鎖中という気になる情報もあった。
「……つまり、市民が凶暴化している原因はウイルスなのか? 州政府は情報を隠しているのか、単に把握できていないのか」
ライフは独り言をつぶやき、ようやくソファーから身を起こした。
買いだめを思い立ったのだ。社会が崩壊するなら、まずは水と食糧を確保する必要があった。その考え自体は正しい。だが、社会の崩壊を10年以上も願いながら、ライフの自宅には非常食のひとつさえ備蓄されていなかった。
PM01:10
ライフは自宅マンションを出ると、近所のスーパーマーケット“ノース・スター・フーズ”に徒歩で向かった。
店内はすでに騒然としていた。通路を埋め尽くす客は、棚の商品を手当たり次第にカートへ放り込んでいる。缶詰やレトルト商品のコーナーは早くも空になっていた。ライフはそれを見て軽く舌打ちをする。
通路に見知った顔がいた。エミリー・“ドール”・ホワイト、20代前半の白人女性でこのスーパーの店員だ。
ドールというのはハンドルネームだ。店で知り合ったのがきっかけとなり、ライフは彼女と何度か一緒にオンラインゲームをしたことがあった。
金髪に紫とピンクのメッシュを入れた個性的な髪形、ギラギラのネイル、店のエプロンの下はパンクファッション。彼女は対戦型オンラインゲーム中毒で、勤務中は常に眠たそうな顔をしている。
「よう、ドール」
「ああ……ライフ」
「こんな時に仕事か? 外は大変な騒ぎになってるんだぜ?」
「ねえ、これって何の騒ぎなの?」
ドールは商品を棚に陳列しながら、殺気立った客の様子に怪訝な表情を浮かべた。
「ええ? きみ、ニュースを見てないのか?」
「だって……さっき起きて、出勤してきたばかりだし……」
ドールは作業の手を止めず、あくびをしながらどうでも良さそうに返事をする。ライフはスマホを取り出すと、保存していた動画を得意げに見せようとした。
「これ見ろよ、本物のゾンビだ。SNSで動画が……」
「はあ?」
ドールが首をかしげた時だった。店の入り口のほうから、何かが崩れる音が聞こえる。
ライフとドールは同時に振り向いた。何人かがフロアに倒れ、甲高い悲鳴をあげている。
店の入り口には、青白い顔をした男女の集団がいた。全員が体のどこかにひどい傷を負っており、衣服は裂け、血にまみれている。その目は虚ろで、口からは不気味なうめき声が漏れていた。
「っっ…………!!」
「何あれ? コスプレ?」
顔を引きつらせるライフの隣で、ドールは呑気にまだそんなことを言っていた。
次の瞬間、断末魔の叫び声が店内に鳴り響いた。侵入者たちが入り口付近の客に、常軌を逸した暴力行為に出たのだ。
引っかき、組みつき、歯を剥いて肉に食らいつく。
「ほ、本当にゾンビだ……!」
「えっ……ウソでしょ? あれ、何をやってるのっ!?」
ライフは声を裏返し、ドールも驚きに目を丸く見張った。
逃げ回る客、追いかける侵入者たち、店内は瞬く間に阿鼻叫喚の巷と化す。
やがて血まみれの侵入者たちは、動物的なうなり声をあげながら、ぎこちない足取りでライフとドールのいる通路にも向かってきた。
「あっ、あっ、あっ……」
ライフは唇を震わせた。
大地震、大津波、隕石、伝染病、テロ……ライフは様々なパターンの社会の崩壊を夢見てきた。馬鹿げていると思いつつ、ゾンビ・パンデミックという事態も、彼のシミュレーションの中には存在した。
ライフは恐怖の中でもバットを握りしめ、怯える市民たちの前に立ってゾンビの頭を打ち砕き“偉大なるサバイバー”として覚醒する。空想の中ではそういう筋書きのはずだった。
肌は青白く、目の周りが黒ずんだゾンビたちのおぞましい顔、通路に倒れ、無惨に食いちぎられる人たち、悲鳴、血の匂い……。
「ど、どいてくれ!」
現実のライフが取った行動は、すぐ隣にいた女性客を突き飛ばし、一目散に逃げ出すことだった。
「きゃあ!」と悲鳴をあげ、中年の黒人女性は大きくよろけて通路へ倒れ込んだ。ゾンビたちは女性に群がっていき、ライフはその隙をつくように、店の奥にある従業員通路へと全力で駆けて行った。
「何アイツ! サイテー!」
背中からドールの驚きと非難の声が聞こえた。が、ライフは一度も振り返ることはなかった。




