【第16話】ともしび
ベンは地下1階の空調制御室にいた。中央監視室の作業だけでは強制冷房運転を停止させることができず、手動の操作が必要だったからだ。
「空調の調子はずっとおかしかったんだ。毎回、業者がきて修理はしてくれるんだが、もうシステム全体が限界だったんだよ」
文句を言いつつも操作パネルに並んだボタンを順番に押していく。
「暖房の効きが悪かったですよね。夏は夏ですっごく暑いし」
「そうなんだよ。管理会社を通じて、何度もオーナーには訴えていたんだけどなぁ……よりによってこんな時に故障しなくてもいいのに」
チャーリーに返事をしながら、非常停止ボタンと試運転ボタンを何度か繰り返し押す。
「あっ……警報が鳴ってます」
「チャーリー、そっちにリセットボタンがあるから押して。黄色いボタンだ」
「はい」
チャーリーがボタンを押し、警報が鳴りやんだ。
「よし、もう一度試してみる」
ベンは手に持ったマニュアルをペンライトで照らしながら、操作手順を今一度確認した。
「これで上手くいかなかったら、もう業者を呼ぶしかないよ」
「はは……来てくれますかね?」
「特別手当てが要るな。でも、ここのオーナーはケチだから」
ベンはそんな冗談を言いながら試運転ボタンを指で押した。
「ベン! チャーリー! すぐに戻って!」
エレベーターから飛び出すや否や、ジャスは大声で叫んだ。緑色の非常灯に照らされた、地下通路に彼女の声が反響する。
「ジャスの声だ。呼んでますよ?」
「待ってくれ。もう少しで終わる」
空調制御室の扉の外から、切迫したジャスの声が聞こえてきた。チャーリーは戸惑うが、ベンはマニュアルと操作に集中している。
ジャスはすぐに階段を駆け上って、1階の関係者通路に出た。裏口にランディの姿はない。彼は警備室の横を駆け抜け、今まさにエントランスへ通じる関係者用出入り口の扉を開けようとしていた。
「駄目よ、ランディ! 待って!」
ランディはその声に振り返りつつも、鍵を開け、まるで何かに取り憑かれたかのようにノブを回して扉を開けてしまった。
「ランディ!」
「うあああ……っ」
エントランスに出た瞬間、彼の体を無数の手が捕らえた。
「い、嫌だ! やめろっ……やめてくれぇえっ……!」
ランディは引きずり出され、ゾンビの群れに呑まれてジャスの視界から消え去った。悲鳴もそれっきり聞こえなくなる。
ジャスは苦渋の表情を浮かべ、それでも廊下を走り、扉を閉めようとする。だが、すでに数体のゾンビが廊下に入りこんでいた。
ジャスの姿を見て、彼らは興奮したうめき声をあげ、ぎこちないながらも早足で廊下を突き進んでくる。
「駄目だわ……」
ジャスはきびすを返し、階段を駆け下りて地下1階に戻った。
「ゾンビが入ってきたわ! ベン、チャーリー! 早く!」
ちょうど2人は空調制御室から出てきたところだった。
「ど、どうしてゾンビが?」
「説明している暇はないわ! 逃げるのよ!」
ジャスは目を丸くするチャーリーの腕を掴んで引き返す。が、ベンは「まだパラメーターの調整が済んでないんだ」と中央監視室へ行こうとした。
「もう無理よ、早く逃げないと!」
ジャスはチャーリーの腕を引き、エレベーターに向かって走る。ベンは中央監視室の扉を振り返ったが、ただならないジャスの剣幕に押され、あきらめて2人の後を追った。
ジャスがエレベーターの扉を開け、チャーリーも素早く乗り込んだ。ベンも続こうとした時、階段から1人のゾンビが転がり落ちてきた。
ビルの従業員だ。名前は知らないが、若い女性で頬には噛みつかれたようなひどい傷痕があった。
ベンは恐怖のあまり、その場で足が止まってしまう。
「ベン! 早く!」
「ベンさん、逃げて!」
2人の声で我に返ったが、同時に右足へ突き刺すような痛みを感じた。女のゾンビがベンの足に絡みつき、足首に深々と歯を突き立てている。
「ベン!」
ジャスは悲鳴のような声をあげると、エレベーターから飛び出して、ゾンビの体に鉄パイプを叩き込んだ。
さらにチャーリーが雄叫びをあげ、ゾンビの頭めがけて渾身の力で消防斧を振り下ろす。頭に斧が突き刺さると、ゾンビはそれっきり動かなくなった。
チャーリーは放心状態で斧を手放してしまう。
ベンはゾンビに噛まれた。どうすればいいのかわからず、ジャスは震える声でベンに呼びかける。
「ベン……!」
エントランスにいたゾンビたちは、ふらつきながら続々と階段を降りてきている。
ベンの表情も混乱の極みにあった。だが、彼は思い立ったように、女のゾンビの頭に刺さった消防斧を引き抜いた。それをジャスとチャーリーに向かって構える。
「ベン……な、何をするの!?」
「俺に近づくな!」
ベンは斧を振りかぶり、2人を威嚇するように叫んだ。
「あ、あきらめないで! 助かる方法があるかもしれないっ……」
ジャスは必死に説得をこころみた。チャーリーは女性のゾンビに斧を振るったことで、まだ震えが止まらない様子だ。それでも、ジャスと一緒に呼びかける。
「ベンさん……CDCがワクチンを開発するかも……」
「絶対、俺に近づくな! 近づくと噛みつくぞ! 行け! 早く行くんだっ!」
ベンは斧を構え、鬼気迫る表情で2人をエレベーターに追い込んだ。そして身を乗り出しながら15階のボタンを押す。
「ベン、お願い……!」
ジャスは最後まで呼びかけたが、ベンは何も言わずに「閉」ボタンを押して2人を強引に15階へ送り返した。
振り返ると、階段を下りたゾンビたちが通路に溢れ出そうとしていた。警備主任のニックや、受付嬢のリンダもいた。
ベンは斧を床へ投げ捨て、急いで中央監視室に向かった。部屋に入り、閉めた扉に背中を預け、キャップを脱いで額の汗を拭う。足首がズキズキと痛んだ。水色のツナギが破れ、傷口に血が滲んでいる。
やがてベンはそのまま崩れ、床にへたり込んだ。胸にキャップを抱え、激しく嗚咽を漏らす。
感染してしまった。自分はもう助からない。しかも、ただ死ぬだけではなく、魂を失ったようなゾンビと化してしまうのだ。恐怖と絶望のあまり涙が止まらなかった。
泣きじゃくるベンの頭に、ふとハリー・シャペルの姿が思い出された。
2月9日の朝、シャペルは「私に近づくな!」とベンに叫んだ。その声が今、はっきりと頭の中によみがえった。
ベンもゾンビに噛まれた時、ジャスとチャーリーにまったく同じ言葉を叫んだ。つまり、シャペルも同じだったのだ。やはり彼は感染していて、それでも他者を守ろうとした。
シャペルに関する謎は多い。なぜビルに戻ってきたのか、どういう経緯で感染したのか。ただ、彼は感染の恐怖と戦いながらも、何か自分の役目を果たそうとしていたのだ。
そしてベンも自分の役割を思い出した。
キャップをしっかりとかぶり直し、中央監視室の管理システムと向き合う。
空調のエラーコードをひとつずつ消していく。それが完了すると15階の電力が少しでも長持ちするよう、館内全体のシステムを極限の省エネモードへと切り替えた。
ベンは工具を手に取り、ドアノブが回らないようにしっかりと固定する。これで自分がゾンビ化しても、外に出て行くことはない。
やるべきことをすべて終え、ベンは薄暗い中央監視室の隅に足を投げ出して座った。
感染の症状が出はじめた。体が熱くなり、頭が重たくなる。意識が少しずつ、遠のいていく気がした。
暗闇と孤独の中、故郷のカナダのことを考えた。両親の家の台所。母親の作るポテトスープ。冬の朝、父親に連れられて出かけた狩りの記憶。ニューヨーク州のヨンカーズでマクドナルドのマネージャーをしている弟とその家族。昔付き合っていた彼女と行ったスキー旅行……。
やがてベンは眠るように目を閉じた。
エピローグ
2月12日
この日は冬の嵐となり、朝からひどい暴風雨だった。
そして夜になると珍しく霧が晴れた。
「真っ暗だな……」
トレスが外を見渡して言う。遠くの街並みでは、まだ明かりが灯っているが、メトロ・コア・センターを中心として数ブロックは漆黒の闇に包まれていた。
ジャス、チャーリー、ミリアムの3人は毛布に包まりながらソファーで横になっている。ベンが犠牲となって以来、グループ内から会話はほとんど消えてしまっていた。
2月13日
AM7:00
この日も朝から霧は晴れていた。
遠くからヘリコプターが飛来する音を聞き、4人は階段を上って屋上に出た。
何日かぶりの朝日に4人はまぶしそうに目を細める。やがて米軍のUH-60ブラックホークが屋上に着陸した。
『我々は合衆国陸軍です。市民の皆さんは落ち着いて指示に従ってください』
ヘリはスピーカーで呼びかけてきた。
数人の兵士がアサルトライフルを構えてヘリから飛び出してきた。「クリア!」と言葉を交わしながら屋上の安全を確認する。全員が防毒マスクをかぶり、化学防護服に身を包んでいた。
「私はダッドリー軍曹です。生存者の数は?」
指揮官らしい兵士が尋ねてきた。
「4人だ」
トレスが進み出ながら返事をした。
「近づかないで。そこで止まってください」
軍曹は手の平を突き出し、4人に立ち止まるよう命じる。
検査キットを持った兵士が駆け寄ってきた。4人は順番に健康チェックを受ける。体温、血圧、瞳孔反応などが調べられる。
「全員、感染の兆候は見られません」
検査をした兵士が指揮官に告げる。4人は胸を撫で下ろした。
「さあ、ヘリに乗ってください。すぐに出発します」
「ねえ……どうして、このビルに生存者がいるとわかったの?」
ジャスが軍曹に尋ねた。
「SOSの文字に気づいたのかしら?」
ミリアムも足元にある、ランディが屋上の床に記したSOSの文字を見ながら言った。
「いえ、ドローンの偵察です。昨夜は霧が晴れたでしょう? 停電したブロックで、このビルの15階だけに電気が点いていましたから」
「そうだったの……」
ジャスは少し驚いたような顔をして、他の3人に視線を送った。
「よく今日まで非常電源が持ちましたね。さあ、行きましょう、早く!」
軍曹は4人を先導してヘリに向かった。
4人は一度、互いの顔を見ると、小さくうなずき合ってから軍曹の後ろに続いた。全員が頭に同じ人物──このビルの設備保守員ベンジャミン・エヴァンスの顔を思い浮かべていた。
ベンの灯した明かりが4人の命を救ったのだ。




