第99話:更新_残務委任編⑤
ーー久世フェーズ
山上は廊下に片膝をついていた。
俺も壁へ片手をつき、乱れた呼吸を整える。
榊原たちに殴られた傷が、また開いたらしい。
肋骨の奥が脈打ち、口の中には血の味が広がっていた。
それでも、立っているのは俺だった。
「俺の勝ちだな」
山上は答えず、拳を床についた。
想像していたより、ずっと強かった。
蹴りの速さと間合いの取り方は素人ではない。
何度か、まともに受ければ倒れていた攻撃もあった。
これがキックボクシングの試合なら、負けていたかもしれない。
山上が息を切らしながら顔を上げた。
「お前も、あさみに鍛えられたんだろ」
「一応な」
山上は壁を支えにして立ち上がった。
足元はふらついている。
それでも、目は逸らさなかった。
「で、誰のことなんだ?」
俺は口元の血を拭う。
山上は、息を吐くように名前を口にした。
「みずきだよ」
その名前だけで、胸の奥に冷たいものが落ちた。
以前の事務所。
階段室。
石津。
赤黒く濁った肌。
床に倒れていたみずき。
到着があと少し遅ければ、何が起きていたのか。
考える必要もない。
「みずきから聞いたのか」
「全部じゃない」
山上は首を横へ振った。
「断片的にな。前の事務所で襲われたことと、お前に助けられたことくらいだ」
それだけなら、石津がデポルだったことまでは分からない。
だが、山上は俺たちを長く見ている。
夜中に出ていく俺。
傷だらけで帰ってくる俺。
俺が戻るまで起きているめぐみたち。
みずきが会社の代表になり、俺たちの裏側を支えていること。
断片を拾えば、形は見える。
「お前らが犯罪までして、デポルを殺してるって分かった時は、正直引いたよ」
山上は壁へ背中を預けた。
「頭がおかしいと思った。今も、全部正しいとは思ってない」
それが普通だ。
俺たち自身、正しいことだけをしてきたつもりはない。
「でも、みずきを見てた」
山上の声が、少しだけ低くなった。
「お前らが抜け、代表になって、会社を一人で回してる。社員の生活まで背負って、何があっても仕事を止めない」
普段のみずきは、弱音を吐かない。
辛いとも、怖いとも言わない。
必要な処理を終え、何事もなかったように笑う。
「正直、かっこいいと思ったよ」
山上は照れを隠すように、視線を外した。
「こんなに一生懸命生きてる人が、また怖い思いをするのは許せない」
山上の言葉には、派手な怒りはなかった。
長い時間をかけて固まった決意だけがあった。
「みずきには、さっさとそんな戦いから抜けてもらいたい。もちろん、お前らにもな」
「だから、自分が代わりに入るのか?」
「代わりにはならない」
山上は即座に否定した。
「ただ、少しでも早く終わらせたい。そのために俺にもできることがあるなら、手伝う」
理由は分かった。
みずきを守りたい。
俺たちを戦いから降ろしたい。
そのために、自分も同じ場所へ踏み込む。
理解はできる。
だからといって、すぐに背中を預けられるわけではない。
「理由は分かった」
俺は山上を見る。
「でも、まだ信用はできない」
「まあ、そうだろうな」
山上は怒らなかった。
むしろ、それを予想していた顔だった。
「次に現場があれば、同行してもらう」
山上の表情が変わる。
「いつになるかは分からない。命のやり取りを、実際に見てみればいい」
デポルは、人間の姿をしている。
言葉も話す。
怯えもする。
命乞いもする。
それでも、こちらが迷えば奪われる。
画面や報告書で見るのとは違う。
その場の臭い。
声。
相手の骨を折った時の感触。
自分の命が消えかける恐怖。
肌で知る必要がある。
山上は黙って聞いていた。
「それでも、みずきを守りたい、自分もやると思えるなら、止めない」
俺は続ける。
「でも、無理だと判断したら、そこで辞めてもらう。俺たちの戦いには、二度と関わらせない。わざわざ犯罪の片棒を担いで、こちら側へ来る必要はないからな」
「分かった」
返事は短かった。
迷いは見えない。
ただ、今の山上が想像している現場と、実際の現場は違う。
その差に耐えられるかは、まだ分からない。
和解と呼ぶには、頼りない。
それでも、先ほどまで殴り合っていた時よりは、少しだけ近くなった。
廊下の先から、外の光が差し込んでいる。
俺たちは遅れて、ひとみを見送るために歩き出した。
外へ出ると、出棺の準備は終わっていた。
ひとみの棺が霊柩車へ納められる。
かなは、そのすぐそばに立っていた。
泣いてはいない。
ただ、車から一度も目を離さない。
俺が近づくと、かなが前を向いたまま口を開いた。
「死ぬつもりだった」
足が止まった。
山上は何も言わず、少し離れた。
「ひとみが死んだら、私も終わろうと思ってた」
かなの声は静かだった。
ひとみが、その考えに気づいていたことを思い出す。
死ぬ前から、かなだけを案じていた。
「でも、やめた」
かなが俺を見る。
目元は赤い。
それでも、その目から生気は消えていなかった。
「ひとみが言ってた。久世さんなら、自分が残したことをやり遂げるって」
かながどこまで知っているのかは分からない。
デポルの根絶。
ひとみが法曹協会でしてきたこと。
俺たちが人知れず殺してきたもの。
全容までは知らないはずだ。
「だから、久世さんがやり遂げるまでは生きるよ」
それでいい。
理由が怒りでも、監視でも、ひとみへの執着でも構わない。
生きることを選んだ。
今は、それだけで十分だ。
「監視してるから」
かなは言った。
「途中で投げ出さないように」
「ええ、お願いします」
俺が投げ出すことはない。
それでも、かなが生きる理由になるなら何でもよかった。
生きることが、楽しいことだとは思わない。
正しいこととも限らない。
少なくとも俺は、誰かに産んでくれと頼んだ覚えはない。
俺と同じで、生まれてこない方がよかったと思う人間も、少なくないはずだ。
けれど、生きている間だけは、大切だった人を思い出せる。
声も。
顔も。
腹立たしい言葉も。
死者を覚えていられることだけは、生きている者に許された特権なのかもしれない。
かなも、俺も。
霊柩車の扉が閉まった。
みずきが頭を下げる。
めぐみは前を見たまま、微動だにしない。
山上も、殴り合った時の荒い呼吸を抑え、静かに立っていた。
その横で、あさみだけが声を上げて泣いている。
「ひとみぃぃ……!」
全員の視線が集まった。
あさみは構わず、顔を両手で覆う。
涙が止まっていない。
「うるさいな」
めぐみが呟いた。
「ひとみさんがぁ……」
みずきは困ったように背中をさすった。
山上は呆れた顔をしている。
かなも、一瞬だけ目を丸くした。
そして、ほんの少しだけ笑った。
ひとみなら、あさみを見て何と言っただろう。
『化粧が崩れて化け物みたいやぞ』
そのくらいは言ったかもしれない。
俺も少しだけ笑った。
霊柩車が動き出す。
ゆっくりと道路へ出て、遠ざかっていく。
誰も追わない。
見えなくなるまで、霊柩車を見送った。
水谷ひとみが残した仕事は、終わっていない。
法曹協会は、めぐみが引き継ぐ。
大阪市長と法曹協会会長。
行政と法曹。
二つの場所から、デポルの逃げ道を塞ぐ。
みずきは、会社の代表として残る。
かなも社員として、みずきの下で正式に働くことになった。
山上は、これまで通り会社を下から支える。
デポル根絶の戦いに加えるかは、現場を見せてから決める。
気は進まないが、本人が言っている。
俺は国の中へ進む。
ひとみの残務は、俺たちが引き受けた。
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ーー高宮フェーズ
その日の夜。
テレビ画面の中で、黒瀬麗奈が原稿を読んでいた。
神妙な面持ちで、正面のカメラを見ている。
『法曹協会会長、水谷ひとみ氏が、病気のため死去しました』
画面に、水谷ひとみの写真が映る。
笑っていない。
『後任には、現職の大阪市長である加藤めぐみ氏が、異例の兼任として就任します』
大阪市長兼法曹協会会長。
一人の人間が、行政と法曹の両方へ手を伸ばす。
当然、反発は起きるだろう。
黒瀬の報道は続いていた。
机の上には、水谷ひとみの実績、加藤めぐみの経歴、久世恒一の写真が並んでいる。
「市政だけでは飽き足らず、法曹協会まで手中に収めたか」
「大阪と協会は、想定より早く固まりましたね」
「そうだな。このまま野放しにするのは得策ではない」
「心得ました」
テレビの中で、黒瀬が次のニュースを読み始めた。
私はリモコンを取り、画面を消す。
部屋が闇に沈む。
「山本は死に、二階堂と播磨も失った。黒瀬まで向こうに利用されている」
前に座る男が口を開いた。
「こちらの駒が、次々と削られていますね」
二階堂と播磨は、旧久世事務所の崩壊に巻き込まれて死んだ。
事故として片づけるには、不可解な痕跡を残して。
「二階堂は己の制御、黒瀬や播磨は強者への執着。彼らに弱さはあったが、なかなかに重宝していた」
私は、前に座る男へ指示を出す。
「三橋」
「はい」
「久世陣営を壊せ。久世以外なら、誰を消しても構わん」
三橋は答える。
「仰せのままに」
その声だけが残った。




