11.過去を重ねて
「千花!」
頬を叩くような声に、我に返る。
食卓に鎮座した母と妹が、そっくりの顔で私を睨んでいた。
「朝食、できてるでしょ。早く持ってきなさい」
「そうよ、遅刻しちゃう」
「ごめんなさい、今すぐに」
二人分のお盆を慌てて食卓に運ぶ。
小学生の高学年になったあたりから、家族の食事づくりは私の仕事になった。高校生になった今も、朝晩の食事は私が用意している。
朝食の味噌汁を一口飲むなり、セーラー服姿の妹が、ふんと鼻で笑った。
「お姉ちゃんの作る料理って、何ていうか、地味な味だよね」
隣に座った母も頷く。
「千花は何でもそうよ。本当に残念な子」
「……ごめんなさい」
私の謝罪は、きゃはは、と笑う妹の声にかき消される。
妹も母も、私の料理を一度も誉めない。
そんなに嫌なら自分たちでつくったら……とは、言えなかった。こわくて。
母たちにしてみれば、自分が動くより、文句を言いながらでも私の手料理を食べている方がマシなんだろう。
諦めをのみこみ、制服の上に着けたエプロンを外す。
「行ってきます」
声をかけて玄関へ向かうけれど、妹たちは朝の情報番組に夢中だ。返事はない。
父は長期の出張に出ていて、もう何日も前から不在だった。家にいるときでも、私に関心は無いみたいだけど。
うつむきながら玄関の扉を開けたとき。
『――チカ』
私の名前を呼ぶ声がした。
(……誰?)
母とも妹とも違う、男性の声だった。
顔を上げる。
そこには見慣れた通学路の景色が広がっているはずだった。なのに。
最初に目に入ったのは、天井から吊り下げられた大きなシャンデリア。
きらびやかな光に満ちたホールに、私はいた。
まるで西洋のお城の中みたい。こんな場所は知らない。
でも、何故だろうか。
(ここ、見覚えがあるような……)
ホールには、たくさんの人々が集い、楽しそうに笑っている。
女性はみんな裾の膨らんだドレスを着て、華やかな髪飾りやアクセサリーを身に纏っている。
男性たちは肩に金モールのついた華やかなジャケット。絵本にでてくる王子様みたい。
音楽隊が奏でるメヌエット。合わせて踊っている人たちもいる。
(は、早く出ないと!)
どうやら舞踏会の最中らしい。
きらきらした景色に紛れ込んでいる高校の制服姿の私。場違いなこと、この上ない。
慌てて人々の間を縫う。
さぞかし悪目立ちしているだろうと思ったのに、不思議なことに誰ひとり、私のことなど気にも留めないのだった。
ホールの端では、メイドさんたちがゲスト用のお菓子や飲み物を準備している。
横を通り過ぎようとしたとき、彼女たちが小声で会話しているのが聞こえた。
「ねえ、アレは本当に姫様がお産みになった子供なの?」
「あの紫色の目、気味が悪いわ。呪われた子よ」
「おお怖い、赤子のときから体に鱗があったわよね」
囁き交わす顔には、一様に露骨な嫌悪の表情が浮かんでいる。
「姫様が妖と番って来た子だというじゃない。汚らわしいったら」
「陛下のご命令で、何度もアレに毒を食べさせたわ。なのに生き返ってしまうの……怪物よ」
「戦争も終わったことだし、もう用済みでしょう。早く死んでほしいわ」
誰の話をしてるんだろう。話題の人物は、まだ子供らしい。
メイドさんたちが、その人物をひどく恐れているのは伝わってきたけれど。
(なんだか可哀想……)
お姫様が妖と番って生まれた子。
みんなに怖がられて、嫌われてる子。
頭に角が生えている。体に鱗がある。紫色の瞳。
私の知っている誰かのような気がしたけど――
(あれ? 誰のことだっけ)
思い出そうとすると何故か、また頭の中に靄がかかり始める。
(とにかく、この部屋から出なくちゃ)
シャンデリアの光に溢れたホールから走り出る。
途端に足もとで、パキッと乾いた音がした。
スニーカーの底が、薄闇のなかで枯れ枝を踏んだのだ。
ホールの外には、唐突に薄闇の世界が広がっていた。枯木ばかりの暗い森が。
『…………チカ……』
また、声が聞こえた。
今度は、はっきりと。
男の人の声。
懐かしいような、切なくなるような不思議な響き。
あの声の主って、誰だったかな?絶対に、知ってる人の声なんだけど。
やっぱり思い出せない。
ただ導かれるように、声のするほうへ歩いていく。
やがて少し離れた場所に、誰かの後ろ姿が見えた。
(私を呼んでいたのは、あの人?)
でも、女性だ。
綺麗なドレスを着た女の人。金色の長い髪が背中を覆う。
彼女の視線の先には、小さな人影が蹲っていた。
「あなたは、ここにいなさい。絶対に追いかけてきては駄目よ」
厳しい口調で言い放ち、幼い人影に背中を向けて、ドレスの女性はこちらへと歩いてきた。
抜けるように白い肌の、若い女性だ。青ざめたその顔は、とても美しい。
「あの……」
話しかけてみたけど、見向きもしない。
(私の声、聞こえてないのかな?)
すれ違う直前、彼女が両手で顔を覆う。
指の隙間から、掠れた独り言が聞こえた。
「ごめんなさい……ごめんね……」
力ない足取りで、ドレスの女性は暗闇の中へと消えてゆく。
彼女が去った場所には、幼い男の子が膝を抱えて座り込んでいた。
闇の中に、ひとりぼっちの男の子。
痩せ細った小さな背中。肩が細かく震えている。
「……ねえ、泣いてるの?」
男の子は素直に頷いた。顔を伏せたまま、呟く。
「……だいじな人が、かえってこない」
「大事な人?」
「うん。すごく、だいじなひと」
「わかった、さっきの女の人ね? 私、呼んできてあげる! ここで待ってて……」
「ちがうよ」
男の子が顔を上げた。
幼い面立ちの中で、涙に濡れた大きな瞳が紫色に輝いている。
短くて黒い髪の間に見え隠れするのは、頼りないほど小さな二本の角。私の腕を掴む手の甲には、黒い鱗が光っている。
「置いていかないで……チカ」
(この子、私の名前を知ってる?)
――私も。
私も、彼の名前を知ってる?
その声も、小さな手も、私の知る『彼』とは全然違うのに。
確信した。
(――この子は、彼だ)
私と出逢う前の「彼」。
この暗闇は、過去の世界。子供の彼と少女の私、二人の記憶の森の中だ。
「かえってきて、チカ。おねがいだから、もういっかい名前を呼んで……!」
名前。私が彼につけた名前。
彼が「悪くない」と言ってくれた名前。
「――イオ」
噛みしめるように呼んで、小さな体を抱きしめた。
「チカ……!」
腕の中のイオが、私の名前を呟く。
わかった。ずっと呼んでいたのは、彼だったんだ。
「帰るよ。あなたのところへ」
幼いイオの両頬に手をあてて、宝石みたいに輝く瞳を見つめる。
私たちの周りで、闇が明るく溶けはじめていた。




