タイキョッ・ケーン
騒動の翌朝、食後のお茶を飲みながらフローラが口を開いた。
「散歩は難しいかもしれないけど、アンタ運動はした方が良いわよ」
神秘的な紫色の瞳にじっくりと見つめられ、居心地の悪さを感じながら、本日もフリフリブラウス姿がキマっている美男子オネェの口上を聞く。
曰く、程よい肉付きと、引き締まった身体はまた別物らしい。
しばらく散歩で様子を見るつもりが、予期せぬアクシデントで無期延期になってしまったばかりだものね……。
「とはいえ……室内でもできる運動って、何かご存知ですか?」
言いたいことはわかるけれど、今いる寝室はそこそこ広いとはいえ、運動場やジムではないので動き回れるほどのスペースとなると確保が難しい。
この世界に運動器具は無いし……グルグルと歩き回ったとしても、身体が鍛えられる前に私の頭がおかしくなると思うの。
簡単にできるトレーニングといえば、腹筋にスクワット、腕立て伏せ……とイメージは浮かぶものの、正しいフォームもわからずに闇雲に身体を動かしても、変な筋を傷めて余計に悪化する未来の自分の姿が目に浮かぶ。
何か当てはあるのかと首を傾げると、フローラは芝居がかった仕草で指先を胸に当て、自信満々に上体を反らした。
「ふふん! アタシ、これでも身体を鍛えることに関してもスペシャリストなのよ! こういう場合に効果的な運動方法を教えてあげるわ。その名も――遥か東より伝わった『タイキョッ・ケーン』という体操よ!」
「ぶふぅっっッ!?」
思いがけない響きに、口に含んでいたお茶を吹き出してしまい……フローラにジロリと睨まれる。
「ちょっとヤダぁ……、汚いじゃない」
「す、すみません」
謝りながら、慌てて口元を拭う。
そうしている間にも、遠い異国から流れてきた隠者から直接教わった、ありがたい健康法なのだと得意気に語っているけれど……。
それって――『太極拳』よね???
体操じゃなくて武術だったと思うのだけど……公園に集まった老若男女が早朝にやっているイメージが強いので、健康体操と言えばそうなのかもしれない。
発音も、オリジナルが想像できるレベルなので再現度かなりは高いと言えるかしら?
だけど、イケメンがドヤ顔で『ケーン!』と語尾を強調するインパクトはかなりのもので、とうとう私は笑いを堪えられなくなった。
「ぷっ……ぷくくく……くぅ!」
「ヒルデ!? アンタ笑ってんの!? 何よ、バカにしてんじゃないわよ!」
耐えられず、ハンカチと両手で口元を押さえるけれど、漏れ出てしまう笑い声は止められない。
怒気を強めるフローラの姿がちぐはぐで、余計に面白く感じてしまう。
「ちがっ、ち、……ふふっ! ば、バカにしてるわけじゃ……ぷふぅ。あ、ダメだこれツボに入って……ふ、ふふふ、あはははは!!」
妙にツボにハマってしまって、笑い声を止められなくなってしまった。
お腹を押さえて笑い転げる私の姿に、はじめのうちは訝しげな表情を浮かべていたフローラだけど、笑いは感染するらしい。
「ちょっと、そんなに笑わなくても……ふふっ、ヒルデったら、何で笑ってるのよぉ! ふふ、あはははは」
「ふ、フローラまで笑ったら、とまらな……ふあはははは!!!」
フローラまで笑い出したせいで、鏡に向かい合ったままお互い身体を振るわせて、お腹から笑い合うという妙な空間が生まれてしまったのだった。
***
「ふっ、ぷぷっ……」
通信を切ったのに、まだ笑いの余韻が残って一人でニヤニヤしてしまう。
あー、こんなに笑ったのなんて、いつぶりかしら?
少なくとも、すぐには思い出せないほどの大昔であることは間違いない。
フローラまで笑い出したせいで、笑ってしまった理由に関してうやむやになったのは助かった。
美人が楽しそうに笑い転げる姿は尊過ぎたので、コッソリ胸にしまっておこうと思う。
思わぬ眼福にありがたさまで感じてしまうとは、なかなかに毒されてきているらしい。
「えーと、『運動できる服』と言われても……これで良いかしら?」
一人でクローゼットを漁りながら、端っこの方に何故かかけられていたパンツスタイルの一式を引っ張り出す。
ジャケットにはごちゃごちゃと飾りが付いているけれど、パンツとブラウスだけならシンプルでこのまま使えそうだ。
複雑な構造のドレスは侍女たちの手を借りる必要があるけれど、穿いてボタンを留めるだけなら一人でもできるはず。
ブラウスのボタンに少し手こずりながらも、無事に着終えると再び鏡を繋ぐ。
「フローラ。準備できました、よ……?」
「あら、意外に早かったじゃない」
鏡に映し出されたフローラの姿に、呆気に取られてしまう。
フローラの方もせいぜい動きやすい服装に着替えるだけだろうと思っていたけれど、ちゃんとそれっぽい格好をしていることに驚いた。
西洋風の顔立ちをした金髪の美丈夫が、白い道衣のようなアジアンらしさを感じる服を着ている姿に、これがギャップ萌えというやつか! と一人納得する。
案外似合っているのが、流石というかなんというか。
「よくお似合いですね」
「ありがとう。これはね、この体操を教わった時にセンセイが着ていた服に似せて作ったものなの」
「流石、本格派ですね」
褒めればまんざらでもなさそうにしているあたりが、このオネェの可愛いところである。
いくつかポーズをキメて、動きやすさをアピールしてくれた。
「ヒルデも似たものを作ったら良いわよ」
「うーん……考えておきますね」
私がアジアンな服を着たら、どちらかというとキョンシー寄りになってしまいそうで怖い。
カッコ良く印を結んだフローラに護符を貼られて下僕として使役されるところまで想像して、慌てて首を振る。
「や、やっぱり止めておきます!」
「あら、そう? 動きやすいのに……」
「いえ! 今の服でしばらくは十分かと! 言い訳も面倒ですし」
「それもそうね」
そこまで本気で勧めていたわけではないようで、ガッカリしたような様子もなく、あっさりとフローラは頷いた。
「――それじゃあ、まずは足を肩幅に開いて、力を抜いて真っすぐ立って」
食事に使っているテーブルを少し動かして作ったスペースに立ち、フローラの指示に従う。
今から教わる『タイキョッ・ケーン』は、本来屋外や広い場所でやった方が良いそうだけど、今回はフローラが室内バージョンとして省スペースでできるようにアレンジしてくれたものらしい。
「姿勢は良いわね! 次は呼吸よ。息をゆっくり吸って、ゆっくり吐くの。力を抜いて、リラックスすることが大切なのよ」
そう言ってフローラは、大きくゆっくりと呼吸をして見せる。
「自分の身体の中に『気』が巡っているのを感じられれば上出来よ。『気』というのは、身体の中に流れるエネルギーのようなもので、魔法使いにとっての魔力によく似ているの。巡らせた『気』を集めるイメージは、魔法を発現させるための魔力を練るイメージに近いから、魔法師団の訓練にも採用しているわ」
「身体を流れるエネルギーという意味では、どちらも同じようなものなんですね」
この体操が魔法使いの訓練にも繋がるというのは、意外である。
私は魔法使いではないけれど、『気』が巡るイメージというのは、血管を血が巡るイメージに近いのかしら?
何となく、身体の熱を追いかけるような気持ちで、ゆっくりと息を吸う。
しばらく続けると、まだ呼吸をしているだけなのに、なんだか身体がポカポカと温まってきているのを感じる。
「ここからは、アタシの動きを真似して頂戴。ゆっくりやるから、焦らずにね。足をしっかり地面につけて、力は抜いたままの状態を意識して」
「う、うーん?」
力を抜いたまま動くというのが、なかなかに難しい。
フローラを見ていると、確かに動きはしっかりしているけれど、無駄な力は入っていないように見える。
「あんまりごちゃごちゃと考えずに、今は動きを真似することだけに集中したら良いわ。慣れた後は無心で動ければ最高ね」
そう言われ、フローラの動きを追うことに集中してみるけれど、私は鍛え方が全く足りていないので、片足を移動させるときにフラフラと足元がおぼつかない。
「っ…………っとと」
「足の力でバランスを取るんじゃなくて、重心を下の方で安定させるイメージで動くの」
「うぇぇぇ、さっきから難しいですよ! 指導は的確ですけども!」
「うっさいわね! 泣き言言わずに、いいから付いてきなさい!」
「はいぃぃぃぃ!」
なんとか頑張って真似してみるけれど、終盤あたりでは『アチョー』という幻聴が聞こえてきそうなポーズなんかもあって、色々な意味で崩れ落ちそうになりながらも、なんとか最後までやり遂げた。
ゆっくりと、時折解説付きでも三十分もかからないくらいかしら?
全身を動かした後の程よい疲労感を感じながらフローラを見ると、まるで疲れた様子もなく水分補給している。
「いい? 明日からも毎日続けるわよ! これは健康にも美容にも精神の安定にも効く、すンばらしい体操なんだから!」
ギャップ萌え要素のある美の化身のような姿で鼻息荒くそう言われ、思わず脱力する。
このオネェの言うことを信じていないわけじゃないけれど……良いこと尽くめの体操なのだと、怪しい商品紹介のような言葉が並んだせいで深夜の通販番組を思い出してしまい、一気に胡散臭さを感じてしまったのだった。