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第49話:コミュ障、パイセンの先輩たる姿を見る

――遠藤アオは、覚悟を決めていた。


自分が何をしたのかは分からない。

重大なミスを犯した覚えもなければ、会社へ損害を与えるようなことをしたつもりもない。

少なくとも、今日まで自分なりに一生懸命仕事をしてきたつもりだった。


それでも、会社が何らかの処分を下すというのであれば、受け入れなければならない。


怖くないわけがなかった。

むしろ、怖くて仕方がなかった。


VSPは、自分を拾ってくれた会社だ。


VTuberのオーディションに落ち、夢が破れ、どうしていいかも分からなくなっていた自分へ、もう1度居場所を与えてくれた。


清白さんが声をかけてくれた。

姫野さんが仕事を教えてくれた。

九さんも、蓮見さんも、色々なことを教えてくれた。

大澄社長だって、こんな自分を社員として受け入れてくれた。


本当に、お世話になった。


だから。

最後くらいは。


みっともない姿を見せたくなかった。

いつものように泣きそうになったり、言葉に詰まったり、俯いたまま何も言えなくなったり。


せめて、今日だけは。

お世話になった人たちの前で、きちんと顔を上げていたい。


アオは社長室の前で1度だけ立ち止まり、深く息を吸った。


胸の奥では、心臓が嫌になるほど暴れている。

けれど、不思議と頭は静かだった。


もう、逃げ道を探す必要はない。

何を言われるかは分からない。


それでも、きちんと聞こう。

最後まで。

自分の耳で。


「…………」


アオはゆっくり顔を上げた。

そして。

社長室の扉を、三度ノックした。




「……で、結局どこまで気づいてるんですか?」


社長室。

姫野ミカンは、正面に座る大澄カガリを見ていた。


「んー。たぶん、かなり?」


「かなりって」


「いや、ほら。アリエラの話にも反応してたし」


「Green Peasの権利関係も、妙に鋭かったんすよね」


横から九ナルミが口を挟む。


「アオちゃん、私たちのことを何度も見てましたしねぇ」


清白芽衣花も頷いた。


「3Dモデルの話にも、かなり具体的な反応がありました」


蓮見カンナが補足する。


姫野は4人を順番に見た。


「……つまり?」


「もう、だいたい知ってるっぽい?」


大澄が答える。


「…………」


姫野は眉間を押さえた。


今日の午後、突然社長室へ呼ばれた。


要件は、遠藤アオへの正式説明。

それ自体は分かる。


例の会談から始まった、世界規模のデュエット企画。九を中心とした権利整理も一段落し、ようやく本人へ話を持っていける段階になった。


そもそも姫野は、アオを最も近くで見てきた人間として、最初からこの場に同席するつもりだった。


ところが。

予定より説明が前倒しになったという。


理由は、既にアオが計画へ勘づいている可能性が高いから。

そして、どの程度まで知っているのかと確認した結果が、これである。


「……アンタら、本人に何か聞いたのか?」


「聞いたよ」


「何を?」


「アリエラの曲、最近聴いてるかって」


「それで?」


「最近よく聴いてるって」


「…………」


姫野は少し考えた。


「……それ、普通じゃね?」


大澄が首を傾げた。


「いや、タイミング的にさ」


「タイミング?」


「だから、ちょうどアリエラが来た頃から――」


「待て待て待て」


姫野は手を上げた。

何だか嫌な予感がした。


「……まあいい。もうすぐ本人が来るんだろ。そん時に聞けば分かる」


「だね」


大澄が頷く。

清白も微笑んだ。

九は肩を竦め、蓮見はタブレットへ視線を落とした。


姫野だけが、何とも言えない顔をしている。


この4人。

仕事に関しては、掛け値なしに優秀である。

それは疑いようがない。


大澄は世界最高峰の交渉人を相手に1歩も退かなかった。

清白はその横で、相手の意図を読み続けた。

九は膨大な権利問題を解きほぐし、蓮見は常人離れした処理能力で制作面を支えている。


それぞれ、間違いなく化け物だ。


ただし。

揃いも揃って、たまにとんでもない馬鹿をやる。


その嫌な予感が、姫野の頭を離れなかった。


そんな時だった。

コン、コン、コン。

扉が叩かれた。


「どうぞー」


大澄が軽く答える。

そして。

扉が開いた。


「失礼いたします」


その声を聞いた瞬間。

5人の動きが止まった。


最初に異変を感じたのは、姫野だった。


聞き覚えのある声。

間違いなく遠藤アオの声だ。


しかし。

いつもと違う。


声量が大きいわけではない。

怒っているわけでもない。

むしろ驚くほど静かだった。


それなのに。

1音1音が、妙にはっきりと耳へ届いた。


アオは扉を閉めると、ゆっくり5人へ向き直った。


背筋が伸びている。

肩は落ちていない。

両手は身体の前で静かに揃えられ、視線も泳がない。


そして何より。

目が据わっていた。


「…………」


大澄が口を半開きにした。

清白の微笑みが僅かに止まる。

九は思わずスマートフォンから顔を上げた。

蓮見の指も止まった。


姫野は。

その姿に、見覚えがあった。


――おい。

――嘘だろ。


炎上事件。

あの日、混乱の最前線で。

普段は人の顔もまともに見られない新人が、突然、誰よりも深い場所まで入り込んでいった。


周囲の声も、視線も、自分への評価さえ忘れたように。

ただ1つの問題へ、異様なほど意識を集中させていた。


あの時のアオは、確かにいつものアオではなかった。

声は澄み、言葉は迷わず、目の前にあるものだけを真っ直ぐに見ていた。


今。

その片鱗が。

目の前にいる。


「……遠藤?」


姫野が小さく呼ぶ。

アオは姫野へ顔を向けた。


「はい。姫野さん」


即答。

言い直しもない。

目も逸らさない。


姫野の背筋に、ぞくりとしたものが走った。


――マジかよ。


一方。

残る4人の脳内では、まったく別の事態が発生していた。


大澄。

――うわ、完全に腹括ってる。


清白。

――アオちゃん、もう心の準備ができてるんですね。


九。

――ここまで覚悟決めてるって、マジで全部知ってる感じ?


蓮見。

――想定していた反応と違います。情報の取得範囲を再評価する必要があります。


4人とも勝手に納得した。

これまで続いていた壮大な勘違いは、まだ終わっていなかった。


「……遠藤。とりあえず座って」


大澄が正面の椅子を示す。


「はい。失礼いたします」


アオは静かに歩き、椅子の前で一礼してから腰を下ろした。


所作に淀みがない。

何なら、普段のアオより遥かに社会人らしい。


「…………」


大澄は1度、清白を見た。

清白も大澄を見る。


その視線の意味を、2人はそれぞれ勝手に理解した。


――やっぱり知ってるよね。

――やっぱり知ってますね。


どうやら今日は、何を見ても都合よく解釈する日らしい。


「えーと、遠藤」


「はい」


「今日はね、君にとってかなり大きな話があって」


「承知しております」


「……お?」


大澄が瞬きをした。


承知している。

やっぱり。


「そっか。じゃあ、話は早いか」


「はい」


アオは静かに頷いた。


「どのような判断であっても、私は受け入れるつもりです」


「…………」


大澄が止まった。

清白も僅かに眉を動かす。

九は首を傾げた。

蓮見の視線が上がる。


姫野だけが、嫌な予感をさらに強くした。


「……判断?」


大澄が聞き返す。


「はい」


アオは膝の上で両手を重ねた。


「正直に申し上げると、私には何が起きているのか分かりません。ですが、もし私の確認不足や判断によって、会社の皆さんに大きなご迷惑をおかけしていたのであれば、責任はきちんと受け止めたいと思っています」


静かな声だった。

途中で詰まることも、視線を逸らすこともない。


大澄は、少しばかり戸惑った。


確認不足?

判断?

何の話?


「……あの、遠藤?」


「はい」


「ちょっと待って。責任って――」


「私の担当していた業務につきましては、引き継ぎができるよう、作業内容と進捗をまとめてあります」


「…………は?」


九が変な声を出した。


アオは続けた。


「まだ不十分な点もあるかと思いますが、必要であれば追加で整理いたします。皆さんにご迷惑がかからないよう、できる限りのことはしたいと思っています」


誰も答えなかった。

室内に、妙な沈黙が落ちる。

そして。


アオは一度だけ息を吸った。


「……私が、今後こちらで働けなくなるとしても」


その瞬間。

姫野の眉が跳ねた。


「少なくとも、最後まできちんと――」


「待て」


低い声が響いた。

アオが止まる。

姫野だった。


「……遠藤」


「はい」


「お前、今、何つった?」


「……最後まで、きちんと――」


「その前」


アオは少し考えた。


「今後、こちらで働けなくなるとしても……?」


「…………」


姫野は、ゆっくり4人を見た。


大澄。

清白。

九。

蓮見。


4人とも。

見事なまでに、ぽかんとしていた。


そして。

姫野の頭の中で何かが繋がった。


「…………おい」


姫野が呟く。


「……お前ら」


大澄が首を傾げた。


「ん?」


姫野はそれを無視した。

アオへ向き直る。


「遠藤。1個確認するぞ」


「はい」


「お前、今日ここに何しに来たと思ってる?」


アオは僅かに目を伏せた。

しかし、すぐに顔を上げた。


「……処分について、お話を伺うものだと」


「…………」


「それが、解雇という判断であっても……受け入れる覚悟は、できています」


5人が完全に停止した。


「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」


数秒間。

誰も、何も言わなかった。


やがて大澄が口を開く。

「…………ん?」


清白も。

「…………え?」


九。

「…………は?」


蓮見。

「…………解雇?」


そして姫野ミカン。

「………………」


その顔から表情が消えた。


「遠藤」


姫野の声が響いた。


「はい」


「お前、クビになると思ってたのか?」


「……はい」


即答だった。


その返事を聞いた瞬間、姫野の胸の奥へ冷たいものが落ちた。


アオは嘘をついていない。

冗談でもない。


本気で。

クビになると思っていた。

そして、その覚悟を決めてここへ来た。


「…………」


姫野は一度だけ目を閉じた。

それから。


「遠藤」


「はい」


「お前、クビじゃねぇぞ」


「…………」


アオが瞬きをした。


「……え?」


「今日の話は処分じゃねぇ。ミスの話でもない。お前、何もやらかしてねぇよ」


「…………」


アオの目が僅かに揺れた。


「……く、クビ……じゃ……?」


「ああ」


「……解雇……とか……」


「ねぇよ」


「……減給……」


「お前はむしろ、この間の1000万受け取っとけ」


「……始末書……」


「何を書くんだよ」


「…………」


アオは、しばらく姫野を見つめていた。

そして。


「………………へ?」


その瞬間だった。

ぴんと伸びていた背筋から力が抜けた。


据わっていた目が、いつものように泳ぎ始める。

静かに通っていた声はどこかへ消え、肩がみるみる内側へ縮んでいった。

膝の上で揃えていた手が、ぷるぷると震え出す。


つい数秒前まで、5人を気圧していた異様な気配が。

綺麗さっぱり消滅した。


「……あ、あの……じゃ、じゃあ私……その……」


「うん」


「……まだ、ここに……いて、いいんですか……?」


その言葉を聞いて。

姫野は、一瞬だけ息を詰まらせた。

そして。


「当たり前だろ、馬鹿」


アオの頭を、軽く撫でた。


「……っ」


その瞬間。


「ぷしゅぅぅぅ…………」


遠藤アオ。

完全にモルモットへ帰還。


「ひ、ひぃ……よ、よかったぁ……」


椅子の上で小さく丸まり、今にも泣き出しそうになっている。


「わ、私……その……ほんとに……もう……」


言葉にならない。

全身から力が抜け、ようやく呼吸を思い出したかのように胸を上下させている。


大澄がぽつりと呟いた。

「……戻った」


九も。

「……戻ったっすね」


蓮見。

「変化が急激すぎます」


清白。

「……あらあら」


4人は思わず、元に戻ったアオを見つめた。


その時だった。


「…………お前ら」


姫野の声がした。

低かった。

とても。


とても低かった。


4人が振り返る。

そこには今にも噴火しそうな顔をした、姫野ミカンが立っていた。


「……大澄社長」


「……はい」


大澄が、反射的に背筋を伸ばす。


「ちょっと確認してもよろしいですか?」


「う、うん」


「今日、遠藤を社長室へ呼び出したのは」


「うん」


「アリエラの件について、本人へ正式に説明するためですよね?」


「そ、そうだよ」


「処分じゃないんですよね?」


「もちろん」


「遠藤は何もやらかしてないんですよね?」


「うん」


「じゃあ」


姫野は一度、深く息を吸った。


「…………何で」


声が震えた。

怒りで。


「何でコイツ、クビになる覚悟決めてここ来てんだよ?」


大澄の口が開く。

しかし、言葉は出なかった。


「お前ら、勘づかれたって言ってたよな?」


九が僅かに身じろぎする。


「……いや、その」


「アリエラの話に反応したとか、権利に詳しかったとか、3Dに反応したとか。そんな話ばっかしてたよな?」


「…………」


「で?」


姫野の目が細くなる。


「実際、何をした?」


4人の視線が泳いだ。


最初に口を開いたのは大澄だった。


「……ちょっと、色々聞いた」


「色々って?」


「アリエラの曲、聴いてるかとか……」


九が続けた。


「Green Peasの名前を今後も使いたいか、とか……」


清白。


「会社のことで気になってることはないか、とか……」


蓮見。


「3Dモデルについてどう思うか、とか……」


「…………」


そして。


「……他には?」


4人は顔を見合わせた。

九が恐る恐る答える。


「……海外に興味あるか、とか……」


清白が続く。


「……自分の名前で検索したことがあるか、とか……」


蓮見。


「……ビジュアルの髪型について、とか……」


「…………」


「……あ」


大澄が何かを思い出した。


「あと、4人でずっと遠藤のこと見てた」


姫野のこめかみが引きつった。


「…………は?」


「いや、誰かが見始めたら、つい……」


「…………」


「それで、遠藤が何か察してるっぽかったから、三十分後に社長室来てって……」


「…………」


姫野は、ゆっくり天井を仰いだ。


何だ。

これは。

何なんだ。


世界の歌姫を相手に、VSPを守り抜いた人間たち。

前例のない契約を作り上げた人間たち。

異常な処理能力で、巨大な計画を支えている人間たち。


それが。

揃いも揃って。

何をやっている。


「…………てめぇら」


大澄が目を見開いた。


「……え?」


姫野ミカンが。

大澄カガリへ。

生まれて初めて。


「テメェら何やってんだぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


社長室が震えた。


「おい大澄!! テメェ社長だろうが!!」


「ひゃい!?」


「ひゃいじゃねぇよ!! 何で何も悪くねぇ社員を、クビになると思わせたまま放置してんだよ!!」


「いや、放置したつもりは――」


「つもりの話してんじゃねぇ!!」


大澄カガリ。

VSP代表取締役社長。

つい先日、世界最高峰の交渉人を相手に1歩も引かず、最後まで会社と社員を守り抜いた女。


現在。

部下から「テメェ」呼ばわりされ、椅子の上で小さくなっていた。


「清白!!」


「は、はい!」


「お前、人間観察得意なんじゃねぇのかよ!!」


「そ、そうですね……」


「何でこの子がこんなに怯えてる理由を見抜けてねぇんだよ!! 観察する方向間違ってんだろうが!!」


「……おっしゃる通りです」


「九!!」


「うぇっ!?」


「お前もだ!! 契約書の一語一句から将来の事故を見抜く女が、目の前の後輩が今まさに事故ってることに気づかねぇのかよ!!」


「ぐっ……反論不能っす……!」


「蓮見!!」


「はい」


「お前は何だ!? 何でもかんでも観測して分析して、それで遠藤の顔色は見えてなかったのか!?」


「……見えていました」


「じゃあ何でだよ!!」


「……解釈を誤りました」


「誤りすぎだろうがぁぁぁ!!」


九が思わず顔を覆った。

清白も、珍しく何も言えない。

蓮見は深々と頭を下げた。

大澄に至っては、完全に叱られた小学生の姿勢だった。


だが。

姫野の怒りは、それだけでは収まらなかった。


「……なあ、お前ら」


声が落ちた。


それまでの怒号とは違う。

低く、静かな声だった。


「遠藤がさっき何つったか、聞いてたよな?」


4人は黙る。


「自分の仕事、全部引き継げるようにしてきたんだとよ」


「…………」


「明日から自分がここにいなくなっても、誰も困らねぇようにって」


九の顔から、血の気が引いた。

蓮見の指が止まる。

清白は目を伏せた。

大澄は、アオを見る。


当のアオは椅子の上で小さくなり、目の前の惨劇に完全に怯えていた。


姫野は、そのアオの肩へそっと手を置いた。


「……こいつさ」


声が、少しだけ柔らかくなった。


「毎日、あんなにビビりながら仕事してんだよ」


誰も何も言わない。


「人に話しかけるだけで緊張して、何か1つ間違えたらすぐ謝って、それでもちゃんと仕事覚えてさ」


姫野はアオを見た。


「……自分が何かしたと思ったら、誰より先に確認して、何とかしようとするんだよ」


炎上事件。

日々の業務。

小さなミスを拾った時。

誰かが困っていた時。


姫野は、何度も見てきた。


「そんな奴がさ」


姫野は再び4人を見る。


「何が悪かったのかも分からねぇまま、クビになると思い込んで」


1度、言葉が止まった。


「……最後くらい迷惑かけねぇようにって、全部引き継いで、あんな顔してここまで来たんだぞ」


室内が静まり返った。


「どんだけ怖かったと思ってんだよ」


それは、怒鳴り声ではなかった。


けれど。

4人にとっては、今日一番重い言葉だった。


「……何で気づいてやれねぇんだよ」


姫野は小さく息を吐く。


「こいつ、お前らに拾ってもらった会社が大好きなんだよ」


その瞬間。


「……ひ、姫野さん……!」


アオが真っ赤になった。


「な、何を……!」


「事実だろうが」


「そ、そうですけど……!」


「ほらな!!」


姫野が4人を指差す。


「こんな奴を、何でわざわざ怖がらせる必要があるんだよ!!」


「……いや、本当に、ごめんなさい」


最初に頭を下げたのは、大澄だった。

いつもの軽さはなかった。


「私が、もう勘づいてるって勝手に決めつけた。本人の様子をちゃんと確かめなかった」


清白も頭を下げる。


「……私もです。怖がっているのは分かっていたのに、理由を勝手に決めてしまいました」


九も。


「ごめん、アオちゃん。完全に深読みしすぎた」


蓮見も。


「申し訳ありません。確認すべきことを、確認しませんでした」


4人が、揃って頭を下げた。

アオは。


「…………」


完全に固まっていた。

自分がクビになると思っていた。


実際は違った。

何なら、社長と運営統括と法務担当と動画編集部の先輩が、揃って自分へ謝っている。


しかも。

姫野さんが社長をテメェ呼ばわりして怒鳴り散らしている。


情報量が多い。

あまりにも多い。


「……あ、あの……」


アオが小さく手を上げる。


「……その……わ、私も……勝手に勘違いして……」


「お前は悪くねぇ!!」


「ひゃい!!」


姫野が即答した。


「何もしてねぇのに4人がかりで妙な質問されて、いきなり社長室へ呼ばれたら、そりゃビビるわ!!」


「……は、はい……」


「それにお前、分かんなかったんだろ?」


アオは小さく頷いた。


「……はい」


「なら、悪いのは説明する側だ」


姫野は、もう一度4人を睨んだ。


4人は静かに頷いた。

完全に姫野の勝利だった。


ただし。


「……で」


姫野が腕を組む。


「お前ら、本題は?」


大澄が顔を上げた。


「……あ、そうだった」


「忘れんなよ!!」


再び怒号が飛んだ。




「……はぁ。ったく、どいつもこいつも」


姫野は大きく息を吐くと、ようやく腕を下ろした。


ひとまず説教は終わりである。


もっとも、説教を受けた4人の方はというと、揃いも揃って随分と小さくなっていた。

世界の歌姫を相手に一歩も引かなかった女傑も、前例のない契約を成立させた法務の切り札も、今はすっかり借りてきた猫である。


一方、その原因となったアオは、既にいつもの姿へ戻っていた。


背中は丸まり、視線は落ち着かず、膝の上で両手をもじもじと動かしている。


先ほどまで社長室を支配していた、あの異様な迫力は見る影もない。


ただし、その表情には確かな安堵があった。


クビじゃない。

まだ、ここで働いていい。


それが分かっただけで、アオにとっては十分すぎるほど嬉しかった。


「……遠藤」


「ひゃいっ!」


姫野が隣から声をかけると、アオの肩が跳ねた。


「お前、まだ緊張してんのかよ」


「す、すみません……」


「謝んなって。もう怒られる話じゃねぇんだから」


「……は、はい」


姫野は苦笑し、アオの頭を軽く撫でた。


「とりあえず落ち着け。今日の話は悪い話じゃねぇよ」


「……そう、なんですか?」


「ああ。少なくとも、お前が何かやらかしたって話じゃねぇ」


アオは小さく頷いた。


それを確認してから、姫野は大澄へ視線を戻す。


「……大澄社長。お願いします」


「はい」


「今度こそ、ちゃんと順序立てて説明してくださいよ」


「はい」


「あと、いきなり変なこと言わないでくださいね」


「はい」


「……何でさっきから返事だけ小学生なんですか」


「怒られたから……」


「自業自得でしょうが!!」


大澄の肩が跳ねた。


九が吹き出しかけ、慌てて口を押さえる。


清白は困ったように微笑み、蓮見は何事もなかったかのようにタブレットを操作していた。


そんな見慣れた光景に、アオの緊張も少しずつ解けていく。


――ああ。


――いつもの会社だ。


ようやく、そう思えた。


もっとも。


その安心が、あと数分も持たないことを、この時のアオはまだ知らなかった。




「さて、遠藤」


大澄が改めて口を開いた。


「はい」


「まず確認なんだけど、豊臣との歌枠の件、覚えてるよね?」


「……はい」


忘れようにも忘れられない。


あの1件以来、自分の周囲は随分と騒がしくなってしまった。


歌声が話題になり、国内外から問い合わせが殺到し、気づけばGreen Peasという名前まで生まれていた。


できることなら、もう少し静かな生活に戻りたい。


そんなことを考えていると、大澄が続けた。


「あの配信、海外でもかなり話題になってるんだ」


「……そ、そうみたいですね」


「うん。それでね、ある海外のアーティストから、君に正式な申し出が来てる」


「…………へ?」


アオが瞬きをした。


海外のアーティストが。

自分に申し出。


「……あの、申し出って……」


「共演の申し出」


「…………きょうえん?」


「そう。君と一緒に歌いたいんだって」


アオはしばらく大澄を見つめた。


やがて、少し困ったように眉を下げる。


「……え、えっと……その……私、歌手じゃないんですけど……」


「うん。もちろん、それは先方も知ってる」


「…………」


「それでも君と歌ってみたいんだってさ」


アオは目を白黒させた。


どういうことだろう。


いや、そもそも。

自分と歌いたいと言ってくれる海外のアーティストなんて、いったい誰なのだろう。


あの歌枠を見た人だろうか。

もしかすると、まだ活動を始めたばかりの歌手なのかもしれない。


それなら、少しだけ分かる気もする。


もちろん、そんな相手でも自分には恐れ多い話なのだけれど。


「……あ、あの……」


「うん?」


「……その方って、どなたなんでしょうか……?」


大澄は頷いた。


「ああ、まだ名前言ってなかったね」


姫野が嫌な予感に眉を寄せた。


「……社長」


「大丈夫大丈夫。順番に話してるから」


「……そうですけど」


大澄はアオへ向き直った。


そして、ごく自然に告げた。


「アリエラ・グレイス」


「…………」


あれ、ストレスで耳おかしくなったかな。

あとで耳鼻科に予約入れなきゃ。


「…………何て?」


「アリエラ・グレイス。知ってるでしょ?」


「…………」


当然、知っている。

というより、知らない人間の方が少ないだろう。


世界的な歌姫。


数々の大ヒット曲を持ち、その歌声は国境も言語も越えて愛されている。


アオ自身、最近はよく楽曲を聴いていた。

というか、つい先ほどまで普通に聴いていた。


その人が。


「…………あの」


「うん?」


「……アリエラ・グレイスさん……ですか?」


「そうだよ」


「…………」


アオは一度、ゆっくり目を閉じた。


そして開いた。


「……えっと……」


「うん」


「……同姓同名の、別の方……とか……」


「いや、本人」


「…………」


「君が最近よく聴いてる、あのアリエラ・グレイス」


「…………」


アオの視線が、ゆっくり九へ移る。


九は頷いた。

次に蓮見。

蓮見も頷いた。

ついでに清白も。


こちらもにっこり微笑んでいる。


最後に姫野。


「……マジだぞ」


「…………」


どうやら冗談ではないらしい。


アオはもう1度、大澄を見た。


「あの、アリエラ・グレイスが……私と……?」


「うん」


「…………歌う?」


「そう」


「…………」


大澄は頷いた。


「アリエラ本人からの指名だよ。あの歌枠を見て、どうしてもGreen Peasと一緒に歌ってみたいんだって」


「…………」


「それで先日、本人がわざわざVSPまで来てくれてね」


「…………」


「直接お話ししてきたんだ」


「…………」


アオの思考が止まった。


ご本人が。

わざわざ。

自分と歌うために。

はるばるVSPまで来た。


「…………あ」


ようやく、小さな声が漏れた。


姫野が横を見る。


「……遠藤?」


「…………」


アオは何も答えなかった。


先ほどまで泳いでいた目が、今度は一点を見つめたまま動かなくなっている。


「……おい?」


姫野の眉が跳ねる。

九も異変に気づいた。


「……あれ?」


蓮見が顔を上げる。

清白の微笑みが、僅かに固まった。

大澄だけが、まだ説明を続けようとしていた。


「もちろん、まだ君が引き受けると決まったわけじゃないよ。断ってもいいし、無理に歌手になってもらうつもりも――」


「…………ぁ」


アオの口から、か細い声が漏れた。


「……遠藤?」


姫野が身を乗り出す。


アオは、ゆっくりと顔を上げた。

その表情は、不思議なくらい穏やかだった。


むしろ。

何かを悟りきったような。


「…………あの……」


「お、おう?」


「……ひとつだけ……」


「……何だ?」


「……聞いても……いいですか……?」


姫野は頷いた。


「いいぞ」


アオは少しだけ首を傾げた。

そして。


「……これ……夢……ですよね……?」


「…………」


姫野が固まった。


大澄が目を丸くする。

九の口元が引きつった。

清白が身を乗り出した。

蓮見は、無言でタブレットを置いた。


「……遠藤?」


「…………」


アオは小さく微笑んだ。


「……よかった……」


「……は?」


「……夢なら……」


そして。


「…………すぅ……」


ゆっくりと。


実にゆっくりと。


その身体が、横へ傾いた。


「…………って」


姫野の目が見開かれる。


「遠藤!?」


返事はなかった。


「ちょっ、おい!? 遠藤!?」


姫野は咄嗟に身体を伸ばし、椅子から崩れ落ちようとするアオを抱き止めた。


「遠藤ぉぉぉぉぉぉ!!!!」


社長室に絶叫が響き渡った。


九が立ち上がる。


「アオちゃぁぁぁん!?」


清白も慌てて駆け寄った。


「アオちゃん!?アオちゃん、大丈夫!?」


蓮見は即座にアオの様子を確認し始める。


「……意識がありません。呼吸はあります。安全な姿勢にしましょう」


「お、おう! 頼む!!」


大澄は。


「…………あれ?」


と、間の抜けた声を出した。


「……まだ、アリエラの名前しか言ってないんだけど」


その一言に。


姫野のこめかみがピキリ、と引きつった。


「あの」


「……はい?」


「大澄社長」


「……はい」


「貴女さっき、何て言いました?」


「……まだ名前しか……」


「…………」


「……言ってない、かな……?」


姫野は腕の中のアオを見た。


つい数分前まで、クビになる覚悟を決めていた少女。


その誤解を解いたところで、ようやくいつもの姿に戻り、心の底から安心したばかりだった。


なのに今度は。

世界的歌姫からの共演依頼。


しかも、まだ話の入口にすぎない。


姫野は静かに顔を上げた。


「…………社長」


「……はい」


「……これで、まだ触りなんですよね?」


「……うん」


「……この先、もっと色々あるんですよね?」


「……まあ、そうだね」


「…………」


姫野は深く、深く息を吸った。


そして。


「じゃあ全部聞いたらどうなっちまうんだよぉぉぉぉぉぉ!!!!」


本日2度目の怒号が、社長室を震わせた。


大澄は再び椅子の上で縮こまり、九は顔を覆い、清白は困り果て、蓮見は淡々とアオの状態を確認し続ける。


その中心で遠藤アオは。

世界的歌姫からの、たった一つの共演依頼を聞いただけで、見事に卒倒していた。


なお。

これは、あくまで企画の入口である。


Green Peasの新たな姿も。

公式ホームページも。

専用の公式チャンネルも。

その先に待ち受ける世界規模の計画も。


まだ何1つ、本人には説明されていない。


つまり。

遠藤アオの受難はようやく始まったばかりなのであった。

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