第47話:法務担当、グリーンピースの輪郭を作る
「Very thorough.(非常によくできている)」
画面の向こうで、アリエラ側の法務担当が言った。
九は少しだけ眉を上げる。
オンライン会議の画面には、アメリカ側の法務担当と、先日の会談にも同席していた通訳が映っていた。VSP側は九を中心に、大澄と清白、そして制作面の確認要員として蓮見が席についている。
アリエラ本人も、リチャード・ヘイルマンもいない。
今日は交渉ではなく、昨日までに決めたものを実際に動く形へ落とすための実務協議だ。
九の手元には、前日の会議を経て作った契約案がある。Green Peasという名称、公式ビジュアル、3Dモデル、モーションデータ、歌声、映像素材、プロモーション、本人情報、活動終了後、退職後。
考えられる最悪の未来を一つずつ並べ、VSP自身が悪用する可能性まで含めて潰した。まだ草案ではあるが、相当に固い。九自身もそう思っていた。
画面の向こうの法務担当が、次の言葉を続けるまでは。
「And almost unusable.(そして、ほとんど使い物にならない)」
――会議室が静かになった。
姫野がいたら、たぶん今頃「は?」と言っている。
九は言わなかった。
代わりに、
「ですよね」
と答えた。
大澄が九を見る。
「ですよね、なの?」
「半分くらいは予想してました」
「半分?」
「思ったよりバッサリ来たなとは思ってます」
画面の向こうの法務担当が、僅かに口元を緩めた。
年齢は40代ほどに見える。
派手さはなく、リチャードのように相手を圧倒する空気もない。
ただ、最初に資料を開いた瞬間から、1度も迷いがなかった。九が30ページ近く作った草案を、どこからでも即座に参照できる。
それだけで、普通ではないことは分かる。
「Let's start with visual materials. Clause 12.(まず映像素材から始めよう。第十二条)」
九が該当箇所を開く。
【Green Peasの公式ビジュアルおよび3Dモデルについて、VSPの事前承認なく改変してはならない】
昨日、蓮見と一緒に決めたものだ。
別人へ流用されない。人格を歪められない。勝手にデザインを変更されない。そのための条項だった。
「What do you mean by modification?(“改変”とは、どこまでを指す?)」
「デザイン、体型、衣装、色彩、モーションなど、Green Peas本人の印象に影響する変更です」
九が答える。
相手はすぐに返した。
「Then say that.(なら、そう書くべきだ)」
「はい?」
「As written, we cannot crop the image. We cannot add subtitles. We cannot resize it for vertical advertising. We cannot change file formats. Depending on interpretation, even compression could constitute modification.(このままでは画像のトリミングもできない。字幕も付けられない。縦型広告用のサイズ変更もできない。ファイル形式の変更もできない。解釈によっては、圧縮すら改変に含まれ得る)」
九の指が止まった。
隣で蓮見も画面を見る。
「……確かに」
蓮見が小さく呟いた。
法務担当は続ける。
「You are protecting identity by prohibiting modification. I understand why. But if every technical adaptation requires prior approval, global distribution becomes impractical.(改変を禁止して本人性を守ろうとしている理由は理解できる。ただ、技術的な変換まで毎回事前承認が必要なら、世界規模の展開は現実的ではない)」
九は数秒だけ黙った。
反論する必要はない。正しい。
「技術的変更と、本人性に影響する変更を分けます。前者は包括許諾。後者だけ事前承認」
相手の法務担当が頷く。
「Define technical.(技術的変更を定義してくれ)」
「媒体仕様に合わせたリサイズ、縦横比調整、圧縮、ファイル形式変換、字幕追加。あと――」
「Localization.(ローカライズ)」
「そうですね。それも」
「Color correction?(色補正は?)」
蓮見が口を開いた。
「九さん」
「はい」
「技術補正の範囲なら認めてもいいと思います。ただし、公式ビジュアルの色設計を意図的に変更するものとは分けてください」
「なるほど。じゃあ、品質維持のための補正は可。表現意図を変える色変更は不可」
「それでお願いします」
画面の向こうが言った。
「That works.(それなら機能する)」
1つ直った。
そのまま次へ進む。
「Clause 15. Archival use.(第十五条。アーカイブ利用)」
九が開く。
契約終了後は新規プロモーションへの利用を禁止し、既存利用も原則として終了する。本人の活動終了後に、Green Peasの姿だけが広告へ残り続ける事態を避けるために入れた条項だった。
相手法務は、一文目から止めた。
「We cannot erase the internet.(インターネットそのものを消すことはできない)」
「そこまで言ってないですけど」
「Practically, you are close.(実務上はかなり近い)」
相手は資料を開く。
「Suppose a promotional post is published in thirty countries. Suppose it is embedded in retailer pages, press archives, platform listings, and historical campaign pages. Do you expect every existing copy to be removed when the agreement ends?(30か国で宣伝投稿が公開されたとする。小売ページ、報道アーカイブ、配信プラットフォームの商品ページ、過去キャンペーンページにも掲載される。その全てを契約終了時に消すのか?)」
九は答えなかった。
消したい。
だが、現実的ではない。
相手もそこを分かっている。
「Separate continued availability from new exploitation.(既存公開の維持と、新規利用を分けるべきだ)」
九の目が動いた。
「既に公開済みのものは残せる」
「Yes.(そうだ)」
「でも新しい広告への転用は不可」
「Yes.」
「既存ページの維持は可。再編集、新規配信、新規広告、再キャンペーンは別途許諾」
「Exactly.(その通りだ)」
九が書き換える。
蓮見が横から資料を見る。
「九さん、既存映像の再アップロードも新規利用に入れてください」
「入れます」
「プラットフォーム移行の場合は例外を」
画面の向こうから飛んでくる。
「それ、どういうケースです?」
「If a service shuts down and distribution must migrate to a successor service, treating that as new exploitation would create unnecessary friction.(サービス終了に伴い後継サービスへ移行する場合、それを新規利用と扱うと無用な障害になる)」
「じゃあ、移行目的に限って許可。ただし内容変更不可」
「Agreed.(合意する)」
また1つ。
――その後も修正は続いた。
最初の30分で、九が前日1日かけて作った条項のいくつかが形を変えた。
壊されたわけではない。守ろうとしていたものは同じだ。
ただ、守り方が変わった。
九が作ったのは、壊れない契約だった。
相手が求めているのは、動かしても壊れない契約。
似ているようで、違う。
九は少しだけ口元を上げた。
――面白い。
「九、楽しそうだね」
大澄が小声で言った。
「今話しかけないでください」
「あっ、はい」
社長が黙った。
清白がそのやり取りを見て、僅かに笑う。
画面の向こうから次が来る。
「Clause 21. Promotional cooperation.(第二十一条。プロモーション協力)」
「はい」
「Too restrictive.(制限が強すぎる)」
「具体的に」
「You allow use of approved visual assets, approved audio excerpts and approved video materials. But every new promotional format requires VSP approval.(承認済みのビジュアル、音声抜粋、映像素材は使える。しかし新しい宣伝形式のたびにVSP承認が必要になっている)」
「本人出さないんだから、そこくらいは――」
「Ariella's campaign may involve hundreds of placements.(アリエラのキャンペーンでは数百の掲載形態が発生し得る)」
九が止まる。
「Hundreds?」
「Easily.(普通にあり得る)」
大澄が少し引いた。
蓮見は驚かなかった。世界規模の制作を知っている。
相手法務は続ける。
「Different aspect ratios, lengths, territories, platforms, retailers, tour screens, press kits, streaming-service assets. If each requires separate legal approval, your own team will become the bottleneck.(縦横比、尺、地域、プラットフォーム、小売、ツアースクリーン、プレスキット、配信サービス素材。それぞれに法務承認を求めれば、VSP自身がボトルネックになる)」
九は腕を組んだ。
全部許可するのは怖い。
しかし、全部を承認制にすれば安全でも、その安全性のせいで企画そのものが動かなくなる。
「じゃあ、素材じゃなく用途を分けるか」
九が呟いた。
相手法務が反応する。
「Explain.(説明を)」
九はホワイトボードへ向かった。
【本人性に触れない宣伝】
【本人性に触れる宣伝】
「公式ビジュアル、承認済みのMV素材、楽曲音源。その範囲で完結する宣伝は包括許諾。でも、本人の新しい肉声、本人コメント、本人の性格が分かる情報、新規モーション収録、未公開素材。こっちは毎回本人同意」
法務担当が数秒考える。
「Better. But not enough.(良くなった。ただ、まだ足りない)」
「何が?」
「Who decides what reveals personality?(何をもって“人格情報を明かす”と判断する?)」
九のペンが止まる。
そこへ蓮見が入った。
「例えば、短いコメント一つでも本人の喋り方は出ます」
「ですよね」
「手書き文字も人となりが出ます」
「それも」
「モーションもです」
九が振り返る。
「昨日も言ってましたね」
「はい。立ち方、動き方、癖。どこまでを本人性と見るかは、かなり広いです」
画面の向こうの法務担当が蓮見を見る。
「Exactly.(その通りだ)」
蓮見は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
九は再びホワイトボードを見る。
本人性という言葉を境界にするには曖昧すぎる。
狭くすれば守れないし、広くすれば運用が止まる。
数秒考えたあと、九は新しい言葉を書いた。
【新規に本人から取得する素材】
「これでどうです?」
全員の目が集まる。
「人格情報かどうかを毎回判断するんじゃなくて、本人から新しく何かを取る場合は本人同意。既に承認済みの素材から作る範囲は包括許諾」
蓮見の目が動いた。
相手法務も止まる。
九は続ける。
「新しい声を録る。本人コメントを書く。モーションを撮る。写真を撮る。インタビューする。全部、新しく本人から何かをもらう行為ですよね」
「Yes.(そうだ)」
「だったら、そこを境界にする」
九は1行書く。
【新規本人素材の取得=本人個別同意】
その下。
【承認済み素材の技術的・宣伝的利用=包括許諾】
法務担当は黙った。
数秒。
「Clean.(きれいだ)」
それだけだった。
だが、九の口元が少し上がった。
猛者に褒められた。
嬉しい。
ただ、まだ終わらない。
相手はすぐ次へ行く。
「Now the name.(次は名称だ)」
Green Peas。
九が前日、最も強く守ったものの1つだった。
本人と不可分。第三者への継承不可。
別人を二代目Green Peasとして活動させることもできない。
そこについて、相手法務は同意した。
「No issue with non-transfer of identity.(人格的な意味での継承禁止には異論はない)」
「じゃあここは――」
「But VSP cannot control international exploitation if the name itself cannot be licensed.(ただし名称そのものをライセンスできなければ、VSPは国際展開を管理できない)」
九が止まる。
「……あ」
名前を会社の所有物にはしない。
それを優先した。
しかし、外部がGreen Peasという名前を広告や配信サービスで使うには、当然利用許諾が必要になる。
本人と不可分にしすぎれば、そのたびに本人から直接許可を取ることになる。
それでは、また動かない。
「The identity should remain tied to the performer. The commercial administration can still be delegated.(名義そのものは本人と結びつけたまま、商業上の管理だけ会社へ委任すればいい)」
九が相手を見る。
「本人は持つ。会社は管理する」
「Precisely.(その通り)」
「VSPは本人から管理権限を受ける。外部への利用許諾はVSP経由」
「Yes.」
「でも会社は、本人を外して第三者に名義を渡せない」
「Correct.」
九は一気に書いた。
【本人に帰属】
【VSPが管理】
【第三者への人格的継承不可】
【企画利用についてVSPが許諾窓口】
「……なるほど」
今度は九が感心する側だった。
相手法務は淡々としていて、特に得意げでもない。
長年、世界規模のアーティスト案件を扱ってきた人間にとって、権利の所有と管理を分けることは考え方の1つに過ぎないのだろう。
九は素直に取り込む。
使えるものは全部使う。
そこにプライドはない。
「次」
法務担当が言う。
「Three-dimensional model.(3Dモデル)」
蓮見の姿勢が少しだけ変わった。
九は気づいた。
「蓮見さん」
「はい」
「冷静にお願いします」
「冷静です」
「まだ何も言ってないのに」
「昨日からこの部分は冷静です」
「そこが一番怪しいんですよ」
大澄が吹き出す。
清白も笑っている。
画面の向こうの法務担当だけが、何の話か分からず静かに待っていた。
九は咳払いする。
「失礼しました。続けてください」
「Your draft treats the model as a representation inseparable from the performer.(あなた方の案では、3Dモデルを本人と不可分な代理表現としている)」
「はい」
「Reasonable. But who owns the model data?(合理的だ。しかしモデルデータそのものは誰が所有する?)」
蓮見が答える。
「制作契約次第ですが、VSP側で管理する形を想定しています」
「Then if Endo leaves VSP, what happens?(では遠藤がVSPを退職した場合は?)」
空気が少し変わった。
あの1日限定クソ会社で最後に残した問題だった。
大澄が嫌そうな顔をした問題。
遠藤アオがVSPを辞めたら、Green Peasはどうなるのか。
九は答える。
「会社にモデルが残っても、別人へ使わせません」
「That is one issue. Not the only issue.(それは一つの問題だ。だが、それだけではない)」
相手は続ける。
「Can Endo continue using the Green Peas identity outside VSP? Can she take the model with her? Can VSP continue distributing existing works? Can future remasters use archived assets? Can existing live recordings remain available?(遠藤はVSPを離れた後もGreen Peas名義を使えるのか。モデルを持っていけるのか。VSPは既存作品の配信を続けられるのか。将来のリマスターに保存素材を使えるのか。既存ライブ映像は残せるのか)」
一気に来た。
九の目が動く。
大澄も、清白も、蓮見も、すぐには答えない。
本人に全部渡すなら、本人は守れる。しかしVSPが費用を出して作った作品まで全部止まる。
会社に全部残せば、今度は本人がGreen Peasを失う。
半分ずつ分けるにしても、何をどこまで分けるのかが決まらない。
簡単な答えなどなかった。
九は考える。
数秒。
そして10秒。
相手は待っている。
急かさない。
それだけの時間が必要な問題だと理解している。
九はホワイトボードを見た。
今まで、1つずつ権利を処理してきた。
名前。声。ビジュアル。3D。モーション。楽曲。MV。プロモーション。本人情報。
全部、別々の問題として。
だが、このままでは項目が増え続ける。
退職。
死亡。
活動終了。
会社売却。
契約終了。
新しい媒体。
新技術。
1つずつ潰していたら、終わらない。
「……九ちゃん?」
大澄が呼ぶ。
九は返事をせず、ホワイトボードを見つめていた。
Green Peasの周囲には、大量の権利と線が伸びている。
蓮見が作るもの。
会社が持つもの。
本人から出るもの。
作品として残るもの。
――そこで、九の目が止まった。
「…………あ」
清白が九を見る。
「何か見つかりました?」
九は答えず、ホワイトボードの端へ大きく4つの枠を描いた。
1つ目。
【遠藤アオ】
2つ目。
【Green Peas】
3つ目。
【Green Peasの姿】
4つ目。
【Green Peasの作品】
画面の向こうの法務担当が、初めて少しだけ姿勢を変えた。
九はペンを走らせる。
「そっか。今まで全部、一緒に考えてたから面倒だったんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
まず。
【遠藤アオ】
その下へ、本名、顔、私生活、普段の声、社員情報、人格情報と書いていく。
「ここは本人そのもの。原則として外へ出さないし、今回の契約でもライセンス対象にしない」
次。
【Green Peas】
「これは活動名義。名前、外部窓口、クレジット、公式活動上の主体。本人から切り離して継承はできない。でも管理はVSPに任せられる」
さらに。
【Green Peasの姿】
公式ビジュアル。
3Dモデル。
モーション。
ロゴ。
「遠藤アオ本人を外へ出さない代わりに、Green Peasを世界へ見せるための代理表現。だから広く使える。でも別人には使えない」
蓮見の目が僅かに見開かれる。
そして最後。
【Green Peasの作品】
楽曲。
原盤。
MV。
ティザー。
ライブ映像。
九はそこだけ、前の3つとは逆方向の線を引いた。
「ここは広げる」
大澄が聞く。
「広げる?」
「世界に出すんだから」
九は振り返る。
「本人を守るために、作品まで閉じる必要はない。作品は世界配信できる。広告にも使える。字幕も付けられる。尺も変えられる。媒体に合わせて変換できる。既存公開分なら、契約終了後も残せる」
その代わり、人間は出さない。
名義は奪わせない。
姿は替えさせない。
世界へ放つのは、作品だけ。
九は4つの枠を見た。
急に、すべてが整理された。
退職しても、本人は本人のまま。
Green Peasという名義をどうするかは、本人とVSPの関係で決めればいい。
会社に残った作品は、作品として配信を続けられる。
3Dモデルは会社が管理していても、本人の代理表現である以上、第三者には使えない。
本人がGreen Peasを終わらせても、過去の作品まで消す必要はない。
しかし、新しいGreen Peasを会社が作ることもできない。
「……これなら」
蓮見が呟いた。
九が見る。
「何?」
「遠藤さん本人を出さなくても、Green Peasだけ外で活動できます」
九の指が止まる。
清白も、大澄も、画面の向こうの法務担当も、同じところを見た。
4つの枠。
遠藤アオ。
Green Peas。
Green Peasの姿。
Green Peasの作品。
本人そのものと、世界から見える存在が、初めて明確に分かれた。
相手法務が口を開く。
「Interesting.(面白い)」
今日、初めて聞く言葉だった。
九が画面を見る。
「何がです?」
「You stopped trying to classify her.(彼女を何かに分類するのをやめた)」
九は黙る。
「Singer. Virtual performer. Employee. Character. You were trying to decide which existing category she belonged to.(歌手。バーチャルパフォーマー。社員。キャラクター。あなたは彼女を既存のどこへ入れるか決めようとしていた)」
そうだった。
「But this structure doesn't require an answer.(だが、その構造なら答えは必要ない)」
九の口元が上がる。
「何者か決めなくていい」
「Exactly.(その通り)」
「必要な権利だけ分ければいい」
「Yes.」
九は笑った。
「それ、いいっすね」
法務担当も、ほんの僅かに笑った。
そこから、議論の速度が変わった。
本人。
名義。
姿。
作品。
何か問題が出るたびに、まずどこへ属するかを見る。
相手法務が投げる。
「Tour projection rights.(ツアー会場での投影権)」
九はすぐに答える。
「姿。既承認モデルなら包括許諾。新規モーション取得なら本人同意」
「Merchandise.(グッズ)」
「姿。ただし今回の契約には含めない。別契約」
「Streaming artwork.(配信サービス用アートワーク)」
「作品側。技術調整まで包括」
「Voice interview.(音声インタビュー)」
「本人。今回対象外」
「Written comment.(書面コメント)」
「本人から新規取得するなら本人同意」
「Remastered release ten years later.(十年後のリマスター版)」
九が一瞬考える。
「作品。元音源を使うだけなら可。新規歌唱要求は不可」
「Good.(いい)」
次。
さらに次。
相手が世界規模の実務から問題を出し、九が分類して組み直す。
九が新しい仕組みを出せば、相手が別の国、別の媒体、別の契約形態から穴を刺す。
また九が直す。
議論の速度は、少しずつ上がっていった。
通訳は途中から、自分の役割を翻訳だけに絞り始める。
清白は黙って2人を見ている。
蓮見も制作に関係する箇所だけ口を挟み、それ以外は任せた。
大澄に至っては、途中から完全に聞く側だった。
それでいい。
今日、守るべき線はすでに決まっている。
ここは九の場所だった。
――1時間を越えた頃。
画面の向こうの法務担当が、初めて会話を止めた。
資料から顔を上げ、九を見る。
「Do you always work this fast?(いつもこの速度で仕事をするのか?)」
九が瞬きをする。
「え?」
通訳が訳す。
意味は分かっていた。
ただ、質問の意図が分からなかった。
「普通ですけど」
通訳が訳す。
画面の向こうで、法務担当が数秒黙った。
それから。
「I see.(なるほど)」
それ以上、何も言わなかった。
九も気にしない。
「じゃ次いいっすか?」
「Please.(どうぞ)」
また始まる。
大澄が隣の清白へ小声で言った。
「九ってさ」
「はい~」
「こんなヤバかったっけ」
清白は少し考えた。
「いつもヤバいですよ~」
「そうなんだ」
「カガリちゃんが普段ちゃんと見てないだけです」
「怒られた」
2人の会話を、九は聞いていなかった。
まだ問題が残っている。
山ほど。
だが、もう最初ほど複雑には見えない。
全部、どこかへ置ける。
本人。
名義。
姿。
作品。
置いた後で、誰が持つのか、誰が使うのか、どこまで使えるのか、誰の許可がいるのか、いつ終わるのかを決めればいい。
九はふと、クソ会社のときに書いたものを思い出した。
【誰が何を持つか】
【誰が何をしてはいけないか】
【本人が何を断れるか】
全部、ここへ繋がっている。
あの日、一日だけクソ会社になって考えた最悪の未来。
名前を奪う。
声を増殖させる。
姿だけ残す。
別人を入れる。
人格を売る。
本人を宣伝へ引っ張り出す。
その1つ1つが、今は新しい構造の中で「できないこと」へ変わっていく。
それでも作品は死なない。
むしろ前より自由に、世界へ出せる。
九は4つの枠を見る。
その瞬間、少しだけ別のことが見えた。
「……これ」
蓮見が九を見る。
「どうしました?」
九はホワイトボードを見たまま答えた。
「やっぱりGreen Peas本人、表に出なくてよくないですか?」
会議室が静かになる。
本人を出さない。
それでも、名義はある。
姿もある。
作品もある。
それだけで世界へ出られる。
蓮見の目が、僅かに細くなった。
あの会議で見出した方針。
――Green Peasは活動するにあたって、本人情報の開示を必要としない――
清白がゆっくり笑う。
「ようやく、そこまで来ましたね~」
九は振り返る。
画面の向こうの法務担当も、四つの枠を見ていた。
そして静かに言った。
「If this holds, Aoi Endo never has to become a public figure. Green Peas can.(この構造が成立するなら、遠藤アオ本人が公人になる必要はない。Green Peasだけが、表に出ればいい)」
九は、その言葉を少しだけ考えた。
それから笑った。
「それが一番いいっす」
まだ、契約は完成していない。
3Dモデルの権利も、原盤も、ライブも、海外展開も、活動終了後も、詰めることは残っている。
それでも、この日初めて。
――Green Peasという存在が、法務の上でも世界に立てる形を持ち始めた。




